初恋は、終電の先に

「んあー……」


 私は深夜のオフィス街を、背中を丸めて歩いていた。

 そろそろ冬が終わる時期だ。街路樹の根元にはチューリップの蕾が膨らんでいるし、駅前の桜並木にも蕾が出てきている。そろそろ春にならないかな。なってほしい。ほんとに、お願いします。

 けど、まだまだ夜風は冷たい。凍えるようなビル風が吹き抜けて、思わず肩を竦める。首元では「秋谷奈月」と印字された社員証が外し忘れて揺れていた。

 ため息をついて、首から社員証を外し、カバンに突っ込んだ。

 欠伸をしながら、スマホを改札に当てて通り過ぎる。


『間もなく電車が参ります……最終電車となりますので、お乗り忘れのないよう……』


 今週四回目の最終電車。

 月曜日に早めに帰れたから、今週はそんなに忙しくないかも、なんて思ったのに、全然そんなことなかった。

 むしろ、油断を誘うための罠だったのかも。なんのだよ……。

 しばらくしてやってきた電車に乗り込んだ。

 電車の中は温かくて、疲れた体に染みる。


「ふう……」


 ガラガラの電車の中、人目がないのをいいことに、どさっと座席に腰を下ろした。

 頭が重い。

 最近本当に忙しくて、忙しくて、家には寝に帰っているようなものだ。

 休みの日も遊びに行く元気がなく、ほぼ寝て過ごして、日曜日の夕方に何とか家事をして生活を回している。

 んー、でも、年度が変わったら、少しは落ち着かないかな。

 まぶたが重たくて、開けていられない。

 今、どこだろう。

 あと、何駅かな。

 電車が走る音と揺れで、ますます頭がぼんやりしてきて、もうダメだ。




「……ん」


 ふと、懐かしい匂いがした。

 この匂いは、確か……?


「大丈夫?」

「えっ!?」


 いつの間にか寝ていたうえに、誰かにもたれかかってしまっていたらしい。


「ご、ごめんなさい……!」


 慌てて飛び起きて、頭を下げた。

 顔を上げようとした途端に、電車が揺れてアナウンスが響いた。


「あ、降りなきゃ。すみません、ご迷惑おかけしました!」

「いえ、お気をつけて」


 穏やかな声に見送られて、私は電車を飛び降りた。



 週明け三日くらいは、なんとか終電を免れた。

 ……といっても、最終の一つ前とかだけど。

 木曜日は少し早く帰れたけど、金曜日はダメだった。


「くそう……今週こそ、終電を脱せるかと思ったのに……!」


 金曜日の夜、私はいつもどおり、最終電車ギリギリの時間に会社を出た。

 本当にギリギリの時間だったから、ハイヒールなのに小走りで駅に向かった。

 先週はうっかり見知らぬ人にもたれかかっちゃったから、今日は寝ないようにしなきゃ……。

 でも、普通に眠い。

 だってもう日付け変わってるんだよ。

 眠い……。

 小走りどころか、ほぼダッシュで改札を抜けてホームに向かうと、ちょうど電車がホームに滑り込んできた。

 電車の中はやっぱり温かくて、座ったら頭がぼんやりしてきた。

 ずっと走っていたせいで足が痛いし。


「無理……眠い……」


 私は疲れ果てて、まぶたが重くて、もうダメだ。

 膝に乗せたカバンを抱えて目を閉じた。

 ああ、眠い。

 でも電車の中は寒くないし、会社の人もいないし、電話もメールも来ないから、ちょっとくらい目を閉じてもいいと思う。



 また、懐かしい匂いがした。


「あれ……、これ……?」


 電車がガタンと揺れて、体が傾いた。

 ドサッと隣の人にぶつかり、同時に電車が止まった。


「あ、ヤバ……」

「まだ秋谷が降りる駅じゃないよ」

「よかった……えっ?」


 ホッとして顔を上げると、隣に座るスーツ姿の男性が、穏やかに微笑んで私を見ていた。


「秋谷、高校の時からよく寝てたけど、大人になっても寝坊助なんだな」

「えっ……や、山田先輩!?」

「久しぶり」


 言葉が出なかった。

 え、なんで。

「……夢、かな?」

「ほっぺた、つねろうか?」

「お願いします……」

「冗談だよ。会いたかった。ねえ、ニャインID教えて」

「え? は、はあ……?」


 ぼんやりしたままスマホを取り出した。

 差し出されたスマホに表示されたコードを読み込み、友達登録をした。

 すぐにポコンと抜けた音がして、アニメキャラクターのスタンプが送られてきた。


「これ、秋谷好きじゃなかったっけ? あ、次。秋谷が降りる駅だろ?」


 先輩が穏やかな笑みのまま、窓の外を見た。

 電車はゆるやかに速度を落として、ホームへと入っていた。


「あ……ほんとだ。あのもしかして先週も、先輩?」

「そうだよ。やっぱり気づいてなかった。よかったよ、今言えて。じゃあまた、終電で。おやすみ」

「は、はい。おやすみなさい、先輩」


 混乱したまま、ホームへと降りた。

 走り去る電車の中で、山田先輩は見えなくなるまで手を振ってくれていた。



 ……山田尚也先輩は、私が高校のときの委員会の先輩だ。

 高校に入学して三日目くらいに図書室を見に行ったら、カウンターに先輩が立っていた。

 すらりとした体型、さらさらの髪、一重の涼しげな目元が四角い眼鏡の奥で柔らかく細められている。


「一年生、かな?」


 ぼんやりと立ち尽くす私に気づいた先輩が穏やかに微笑んで、その笑顔に、転がり落ちるように恋に落ちた。

 その後私は図書委員に立候補して、ひたすら先輩との接点を増やした。

 毎日のように図書室に通って、カウンターの当番はできるだけ先輩と同じタイミングで入れていた。

 先輩は三年生だったから、一年生の私とは全然接点がなくて、すれ違っただけでも、私は全力で絡みに行っていた。

 友達からは「忠犬?」なんて笑われてたけど、とにかく先輩の顔を見たら駆け寄らずにはいられないくらい、好きだった。

 でも、結局告白はできなかった。

 卒業式の後、先輩はやっぱり図書室で友達と喋っていた。

 一年間先輩にまとわりついていた私のことを先輩の友達も知っていたから、気を利かせてくれて少し離れたところで見守ってくれていたのに、私は泣くことしかできなくて、先輩を困らせたまま、別れてしまった。




 ――そのことを私は、十年以上経った今でも後悔している。

 だからまあ、毎日毎日終電まで働かされる可哀想なアラサー女に、神様が見せてくれた都合のいい夢なんだろうな。

 そういうことにしないと頭がパンクする。

 私は先輩と別れた後、可及的速やかに家に向かった。

 コンビニにも寄らずに帰って、カバンを放り投げてシャワーを浴びた。

 適当に髪を乾かして、部屋の明かりもつけずにベッドに倒れ込んだ。

 きっと、明日の昼くらいに目が覚めたときには先輩のことなんて忘れてる。

 先輩が私を覚えていてくれたこととか、あの時と変わらず微笑んでくれたこととか、なんもかんも、忘れさせてくれ。