【至急、帰宅せよ】
母親からのラインに私は天を仰いだ。即、返信をする。
【何か用?】
【帰宅せよ】
【今からカラオケ】
母親が【0点】のスタンプを送信してきた。
やだ帰んない、とタップして―消した。
母親の頼みを断ると後が怖い。【了解、帰る】と返信する。【100点】のスタンプ音が虚しく響いた。
「紗夏、どうしたの」
隣にいる志穂が話しかけてきた。
「お母さんから、帰ってきてってラインがきた」
「えー」
今日は高校の友達数人とカラオケ…だった。志穂は「先に用事を済ませてきなよ。待ってるからね」と行ってしまった。
下ろした黒髪をヘアゴムでまとめる。トボトボと帰路についた。
◇
「狐族のお子さんを預かることになったの。頼むわね」
まだ靴も脱いでないんですけど。
「女の子?」
「ご子息よ。12歳」
「え〜ヤダ。狐族の男の子ってさ、何考えてるのか分かんないもん」
狐族はスタイルが良くて美形だ。クラスの女子は楽しくて気が合うけど、男子は少し違う。中でも私にだけ冷たい不知火くんのせいで苦手意識があった。クールな切れ長の目を思い出してムムッとなる。
「そんなこと言わないの。少しの間だけでいいから。銀行に行きたいのよ」
お母さんの手が通帳とカードを掴む。
「ちゃんとおもてなししてね。お得意のご子息よ。くれぐれも…」
「私、友達と遊ぶって言ったよね」
「ああ~忙しいっ…じゃ!」
台風のように出て行った。私は溜め息をついて部屋に入る。綺麗な男の子が正座をしてテレビを見ていた。
わぉ、この子が狐族か。
外見は人間だけど狐にもなれる。要は獣人ハーフだ。狐族は人間世界で隠れて生きていたけど、この国のトップが狐族になってから世の中は変わった。
男の子は私に気がつくと会釈をしてきた。利発そうな顔つき。糸目から『お前、誰?』っていう視線を遠慮なくぶつけてくる。警戒心、剥き出しだ。
「何の番組を観てるの?」
私は優しい声を出して隣に座った。怪しい奴じゃないよ。私は母親の奴隷…いやいや、私は白石紗夏。君の名は?
「九条景久です」とソプラノの声が返ってきた。さらりとした前髪から値踏みする視線。
化かされ…いや、バカにされてる?
景久くんはテレビに視線を戻した。
会話終了。その横顔から沈黙の圧を感じるが私は負けじと話を続けた。
「その番組、面白いよね」
テレビの音量が上がる。音が聴こえないだろ、黙れよ。そう言ってるような横顔。
一気に空気が凍った。
「その態度さぁ…!」私は叫んだ――もちろん心の中で。
まだ子供だ。それに景久くんも私の家に来たくなかっただろう。知らない家に預けられて知らない人に説教されるなんて泣きっ面に蜂だ。
私は立ち上がり、台所へと向かった。
お腹が空いた。
冷蔵庫を漁り、適当な材料でオムライスを作った。景久くんも食べるだろう。
ケチャップで^•ﻌ•^の絵を描いた。
リビングに持っていくと、景久くんの姿勢は変わらないままだ。狐くん、よく躾られてるね。態度は悪いけど。
「足を崩して気楽にしたら」
「別にいいです」
「そ。オムライスを作ったから一緒に食べよう」
「いりません」
返事をした瞬間、お腹の音が盛大に鳴った。私じゃない。
景久くんの耳が可哀想なくらい真っ赤になっている。スルーしよう。
「アレルギーってある? ないなら食べてくれると助かるかな」
「…いただきます」
お、可愛い。根は素直なんだ。
景久くんは皿を受けとると糸目をパチパチさせた。ケチャップの絵を見て驚いている。
「上手いでしょ? 景久くんの顔だよ」
つい名前呼びしてしまった。…まあ、いいか。図々しいくらいのノリでいこう。
景久くんは無言でオムライスにスプーンを差し込む。一口もぐもぐと食べた。
「美味しい?」
「……」
まさかの無視?…いや、違うな。私の声が聞こえなかったんだ。ポジティブにいこう!
テレビとスプーンの音をBGMに私はオムライスを食べ始めた。しばらくするとお茶を忘れたことに気がつく。
ふと景久くんを見た。食べる手が止まっている。不味かったのかと思ったがそうじゃない。
^•ﻌ•^ 絵文字が綺麗に残っていた。スプーンを入れるのをためらっている。
「可愛いとこあるじゃん」
笑うと景久くんは顔を真っ赤にさせた。黒髪から狐耳がピン!と出てくる。
「わぁっ狐の耳!」
「あっ見るなっ」
「へ〜可愛いね。あ、動いた」
「見るなってば」
私は台所へ逃げ込んだ。どういう仕組みで狐耳が出るのかな?それにしても驚いた景久くんの顔、面白かったなぁ。
ひとしきり笑って、私はお茶を入れてリビングに戻った。景久くんの狐耳は消えて、お皿も空になっている。
「もっと食べる?」
景久くんは首を横に振った。そして「ごちそうさまでした。…美味しかったです」と呟いた。
「どういたしまして。口に合って良かった」
景久くんは照れたのか、テレビに視線を向けた。CMが終わって音楽番組になる。段々と景久くんの目が輝き始めた。
「歌番組が好きなの?」
「…この歌が、好きなんです」
「わかる。サビに入る前のスピード感が良いよね」
景久くんの顔がパッと晴れ渡る。が、唇は閉じたままだ。
「私ね、聴くのも好きだけど、歌うのも好きなんだ」
でも最近はちょっと寂しい。誰かと歌ってみたいから。
友達を誘うと「紗夏は上手いから一緒に歌うのヤだよ〜。それよりソロで聞きたい」って言ってくれる。正直嬉しい。でも私も誰かと歌って、ハモったりアドリブを入れて、楽しさを共有してみたい。
「景久くんは?」
「え…」
「歌うのは好き?」
テンションが上がったのか、景久くんが身を寄せてくる。私の肩に身体が当たった。ん、距離近くない?
「近いですか?」
どうやら顔に出ていたらしい。きまりが悪そうに景久くんは視線を逸らした。
「……癖なんです。話す時は身体を近づけて、耳元で話すように言われてるので」
「え?」
なんで?
「その癖、直した方がいいかも」
「どうしてですか?」
「近いとさ、勘違いする子だっているよ。その子にも景久くんにも良くない」
無自覚な美形だめ、ぜったい。
「ひい御祖父様」
「ん?」
今なんて言った?
「ひい御祖父様に言われてるんです。もうお歳なので近寄って話して欲しいって」
「あ、そういうこと。もー心配したじゃん」
力が抜けた。景久くんは目を一本線にして笑う。
「…心配、か。紗夏って早とちりだな」
「へ?」
いきなりのタメ。小学生のコミュニケーションって分からない。注意しようかと思ったが、嬉しそうに笑うのでそのままにしておいた。
睫毛から琥珀色の瞳が見え隠れする。宝石みたいに綺麗だ。
じっと見ていると景久くんの頬が赤くなった。
「紗夏…見すぎ」
「わぉっ!」
甘ったるい声にドキッとした。
「ごめんね、綺麗な目だから見とれちゃった」
「…ん」
掠れた景久くんの声が響く。黒髪から狐耳がぴょこぴょこ動いた。
なんか可愛いな。
景久くんは頬を染めて何も言わない。テレビの音が大きくなったような気がした。
私はソワソワと落ち着かなくなった。何か、何か話をしないと。
「あ、そうだ。苺は好き?」
冷蔵庫の中に入っていた。大切なお客様が来ると、我が家の食卓は潤う。
景久くんは、ぽわわ〜んとした顔で黙っていた。
聞いてる?
「ねぇ好き?」
苺。
「…初めてだからよく分からないけど、ドキドキする」
何が?
「もしかして苺を食べるのは初めてなの?」
「……」
景久くんの眉間に皺が寄る。「苺が好きってことか…?」と呟くと、顔にムッとした表情を重ねた。黒髪から尖りに尖った狐耳が出る。ツンツンツーン! と毛が逆立っていた。
「別に!」
「ああ…そう、分かった。待ってて」
分からない。私は台所へと避難した。ああいう歳頃の子って、天気みたいに機嫌が変わるのかな。というより狐族の男の子がそうなの?
クラスメイトの不知火くんも顔が赤くなったと思えば、私にツーンとした態度を取ってくる。また美形だから余計に冷たく見えるんだよね。あ〜、ヤな事を思い出した。
「もうっ不知火めっ、勝手に出てくるな!」
苺を洗い、ヘタを取っていると何やら玄関が騒がしい。母親が帰って来たようだ。
「ただいま~」
能天気な母親の声に私はホッとした。やっと子守りから解放される。苺の皿を持ってリビングに行くと、景久くんは礼儀正しく母親に接していた。
君はオセロか。いきなり黒から白に変わらないでよ。
「景久くん、苺」
「紗夏お姉さま。ありがとうございます」
紗夏お姉さま?
唖然としていると母親は「礼儀正しいのね」なんてすっかり騙されている。
私は呆れて景久くんの頭を撫でた。つい力が強くなったのは気のせいだ。この際、髪も乱してやろう。えいっえいっ。
スッキリしたが景久くんは睨んでいた。鋭い視線が訴える。『人が大人しくしてれば…』
おお~怖っ!
ここは逃げるが勝ちだ。時計を見るとまだカラオケには間に合う時間だった。
「お母さん、もういいよね。出かけてもいい?」
「助かったわ、ありがとう。気を付けてね」
「景久くん。またね」
景久くんは黙ったままだった。乱れた髪と感情が消えた瞳。凛とした花がしおれたような顔。
私の視界の隅にグラスが二つ光った。私のは半分お茶が残っている。もう一つは空だ。
あんな態度をとっていても…景久くんは喉が渇くほど緊張してたんだ。
それはそうだよね。知らない私と二人きり。慣れたと思ったらまた別の人。寂しいバトンタッチが、なんだかできない。
「景久くんも一緒に来る? カラオケ」
糸目をパチパチとさせた後、景久くんは嬉しそうに笑った。が、すぐに真顔になる。
「迷惑なので家にいます」
「ウザかったら誘わない。迷惑じゃないよ」
「……」
「さっき音楽番組を見て楽しそうにしてたじゃん。ね、行こ」
「…いいの?」
「もちろん」
「…ありがとう」
花ひらくように笑う。景久くんは苺を食べ終えると、私の隣に来て手を握ってきた。ふわりと甘酸っぱい果肉の香り。
母親が「カラオケに連れて行くなんて。財閥の御曹司なのよ」と言ってきたが「遊びも大切じゃん。それに景久くん退屈そうだったよ」と反論した。
「ところでさ、狐族の財閥とウチってどういう関係?」
妙に気になった。
「おばあちゃんの友達。そこの代表がきつねうどんが大好きなんですって。ほらよく出前注文を受けるでしょ」
「あー」
「普通の生活を勉強させたいみたい…なんだけどね」
うどん屋は祖母が営んでいる飲食店だ。私も時々はバイトに行く。そういえばすっごいタワーマンションに出前したことがあったなぁ。
「紗夏、くれぐれも景久くんを丁重におもてなししてね。GPS持たせてるから少しは安心だけど、気をつけて」
「はいはーい、わかった」
「ハイは一回!」
「はーい」
玄関にコンバースのスニーカーと景久くんの革靴が並んでいる。
財閥の息子…か。
身に付けるものでドレスコードが線引きされる。
人間と狐族。一般庶民と富裕層。踵で感情を押し込んで玄関を出た。
外は茜色が広がっていた。桜の花びらが白く煌めいている。景久くんは白いカッターシャツに黒のカーディガンを羽織っていた。襟元に刺繍が刻まれている。オーダーメイドかな?
「私から離れないでね」
迷子にさせたら大変だと手を繋いだ。景久くんは何が嬉しいのかクスクスと笑う。
「紗夏ってさ…」
「ん?」
「紗夏って誰にでも優しいのか?」
スマホの通知音が鳴る。ラインだ。見ると志穂からだった。
【用事は終わった? 紗夏の歌を聴きたいよー】
「ごめん、なんて言ったの?」
景久くんに視線を戻すと、笑顔のまま首を小さく振った。
◇
カラオケ店に入り、部屋の前に立った。薄いドアから盛り上がってるのが分かる。
扉に手をかけると景久くんが繋いだ指に力を込めてきた。震えている。緊張してるのか。
私は入るのを止めて扉から手を離した。
「景久くんは、こういう店に入ったことがある?」
「うん」
嘘だな…顔が真っ白だ。
分かったのは景久くんってすごく強がる。タメ口なのも、最初は素っ気なかったのも、弱く見られたくないからなんだね。
それに話す時に距離が近い。ひょっとして一番会話をするのは、曾御祖父さんなの?友達は何も言わないのかな。
私はジップパーカーを脱いで、景久くんに着せた。袖が余ったので一つ折る。上品なシャツが隠れて、カラオケに入りやすい格好になった。
「急に連れてきてごめんね。怖かったらパーカーを被ったらいいよ」
「怖くない」
「そう? 私はね、カラオケは楽しいけど部屋に入る時さ、怖い時もあるよ。だって視界が一瞬暗くなるもん。でもそれって普通だよ」
「……」
さらさらの前髪から覗く、琥珀色の瞳が揺れた。
「…服を借りてもいいのか?」
「うん着てて。パーカーはね、御守り! ドキドキしたらフードを被って耳を隠して」
「……」
「どうしたの?」
「今まで…人の種族は裏があるって思ってた」
「なにそれ」
「紗夏みたいにバカばっかりな人間だと安心だ」
「なにそれ!!」
景久くんが何かを言いかけた時、サウンドが倍になった。空気の震動で声が掻き消される。部屋にいた誰かが扉を開けたらしい。カラオケの音がワッと盛り上がる。
部屋にいる志穂が私を見て手を挙げた。私は口角を上げて、結んだ髪をサラッと下ろす。
「紗夏、待ってた。一曲歌って!」
「おっけい! さ、景久くん入ろう。楽しいよ」
「うん…」
「みんなースペシャルゲストの景久くんだよー」
「おー!美少年じゃん。おいでおいでー」
色とりどりのジュースが並んでいる。氷がきらきらと光った。
友達の一人がはしゃぐ。
「なんか紗夏の弟みたいで可愛いねー」
「そうそう弟みたいな感じで…、んんっ!」
繋いだ手に力が一瞬だけ加わる。
「何すんの。痛いじゃん」
「…俺は弟じゃない。子供扱いするな」
「どっからどう見ても…だよ」
景久くんは素早くフードを被った。
「すぐに大人になる。追いつく、から」
全く聞こえない。景久くんは何をブツブツ言って…もしかして呪文?
「あのさ、狐族って魔法が使えたりするの?」
「は?」
曲の前奏が流れてきた。スピード感のあるメロディー。さっき景久くんと音楽番組で聴いた――。
「好きな歌だ」
景久くんの声が弾ける。スクリーンに釘付けになっていた。じわじわと口角が上がり、嬉しそうに私を見つめる。
薄暗い部屋の中で、琥珀色の瞳が輝いた。
「紗夏! ここって歌える部屋なのか? …俺、歌いたい! なぁ一緒に歌おう!」
初めて景久くんの素顔を見たような気がした。
「よーし歌おっ!」
「うん!」
外野なんて気にしない。遠慮なんてしない。勢いよく景久くんは部屋に入った。怖がっていたのが嘘のようだ。スクリーンに映るアーティストと歌詞を目で追っている。
私達はマイクを持った。景久くんの唇が静かに開く。息を呑む細い音。
景久くんは透明感のある声なのに、突き抜ける力強さがあった。声量もあってすごく上手い。
本気で歌わないと飲まれる。
私は耳を澄ませてメロディーラインを掴んだ。五線譜に声をのせる。私の歌声を聞いて景久くんの目が見開き、そして笑顔になる。
みんな何かを言ってるけど全く聞こえない。声と声だけが重なる。音符記号が一つの線になり、心地よいメロディーになる。
歌いながら聞き入ってると、景久くんの声につられそうになった。でも絶対に負けたくない。感情を込めて深く声を放つと、今度は景久くんがつられそうになったのか苦しそうに、でもどこか嬉しそうに私を見た。
ドレスコードが、ほどかれていく。
人間と狐族。住む世界が違うとか、年齢の差なんて飛び越して私と景久くんは熱唱した。
歌い終わると色んな感情が溢れて止まらなかった。この感覚って何?
景久くんも同じだったようで私を見つめてくる。もう一回歌いたい。確かめたい。
アンコール!という声を受けて、続けて熱唱した。光の中にいるみたいだ。
一緒に歌うって、なんて楽しいんだろう。
友達のリクエストが続々と入る。その流れで景久くんと熱唱していた。
急に私のスマホが鳴る。無視をしたがまた鳴る。さらに鳴る。……しつこいな!
見るとお母さんからのラインだった。――私は天を仰いだ。
【早く帰って来いのスタンプ】✕3
「もうこんな時間!景久くん帰ろう!」
「…え」
「ごめん帰るー!お金は明日学校で払うから」
「いらないよー。紗夏と景ちゃんのスペシャルライブありがと!また明日ねー」
「Oh,yeah!ありがと」
私は景久くんを連れて店を出た。外気に触れても心臓が騒いでいる。高揚が醒めない。堰を切ったように景久くんが話し出した。
「紗夏も歌うのが好きなのか?」
「うん」
「俺と同じだ」
景久くんは照れくさそうに笑って、私の手をギュッと握ってきた。
「紗夏、また一緒に歌おう。そうだ今度の土曜日」
黒塗りの車が歩道に横付けされた。エンブレムで高級車だと解る。
景久くんがその車を見て急に黙った。ハザードの光が景久くんの瞳を彩る。
「どうしたの?」
「…寒いからこのパーカーを借りてもいいか?」
「良いけど…」
熱気が肌にまとわりつく。
暑くないの?そう聞こうとしたが、車のドアが開いた。運転席から年配の男性が降りてきた。こちらを見ている。
「今日は楽しかった。またな」
「え?」
「ぜったいに…紗夏に会いに行くから」
景久くんが車へ向かった。そこで私は漸く気がついた。迎えが来たんだ。運転手さんが恭しく車のドアを開ける。
景久くんが車に乗ろうとすると、男性が何かを忠告した。景久くんは首を横に振った。何やら揉めている。私が駆け寄ると景久くんは振り返った。
男性はその一瞬の隙をついた。景久くんが着ていたパーカーを剥ぎ取る。景久くんの口が「あっ」と戦慄いた。
「紗夏から借りた!まだ、まだ着ていたい!」
「駄目です」
「…どうして?車の中だけでいいから」
男性は淡々と話した。
「例え車内でも身だしなみは大切です」
「……」
「勉強だと思って我慢して下さい」
男性は丁寧に私のパーカーをたたみ、返してくれた。深くお辞儀をしてきたので私も咄嗟に頭を下げる。悪い人ではなかった。厳しい口調だったが目元は穏やかだ。
男性は景久くんの元へ戻り、背中に手を添えた。車に乗れって事だろう。
「景久くん。また家においでよ」
私は手の中のパーカーを握った。
景久くんは背中を向けたままだった。俯き、肩が少し震えている。
「来なかったら私が会いに行くから。待ってて」
ゆっくりと景久くんは振り返った。無理に口角を上げた、大人の顔。
「紗夏、またな。ぜったいにぜったいに、またな」
ふわりと風に乗って狐の尻尾が現れた。尖った狐耳も。さざ波のようにきらきらと光る。
景久くんは力いっぱい手を振って、車に乗り込んだ。
ハザードランプが消える。走り去って車が見えなくなっても、私はいつまでもそこに佇んでいた。
◇
景久くんはすぐに来るだろう――そんな私の予想は完全に外れて、二週間経っても景久くんは来なかった。
「紗夏~。マック寄ろうよ」
「今日はやめとく」
「えー」
「ごめん、また明日」
景久くんの家は出前で何度か行ったことがある。私から会いに行ってみようか…。
歩いているとスマホが鳴った。お母さんからのラインだ。
【至急、帰宅せよ】
今日こそ絶対に断る。【用事があるから】とタップする。迷いなく送信。
【帰宅せよ】
【悪いけど無理】
【高い牛乳を買ってきて。ほら早く!】
……私が大人になろう。
私は渋々とコンビニに向かい、牛乳を買った。
店を出て歩いていると私の横に車が止まる。エンブレムが眩しい高級車。スモークガラスが下がっていく。
「紗夏!」
「…景久くん」
車から景久くんが降りてきた。熱烈にハグされて、私は牛乳が入った袋を落としてしまった。景久くんの綺麗な狐耳が間近にある。ふわっと爽やかな春の香りがした。
あれ?予想を遥かに越えて、すっごく嬉しいんだけど。
動揺して、景久くんの身体を離してしまった。つい距離を取る。景久くんは私の戸惑いを察することなく、嬉しそうに話し出した。
「今日は紗夏の家でホットケーキを食べるんだ」
「へ~。…えっ!」
「今日は俺が紗夏の顔を描いてやるよ。チョコレートペンで練習したから」
「あ〜そのための高い牛乳、か」
「紗夏」
「ん?」
「何でもない。…ただ呼んでみたかった」
景久くんの頬がうっすらと赤い。…なんなの。この雰囲気。私にまで伝染るじゃん。
俯いて、コンビニの袋をギュッと握った。
「早く行こうぜ。ホットケーキを一緒に作ろう。楽しみにしてたんだ」
気軽な声に力が抜けた。
私に会うのが楽しみじゃなくて、ホットケーキかぁ…。ま、そんなもんだよね。
「行こっか」
「うん! あとさ、また一緒に歌おう! 紗夏と歌って一つになったみたいで、すごく楽しかったんだ」
「わかる、私も」
景久くんは嬉しそうに笑った。狐の尻尾がピョコン!と顔を出す。
「あっ、尻尾がでてるよ」
「……触ってみるか?」
「いいの?」
「紗夏なら……いいよ」
「じゃあ遠慮なく」
年齢や狐族なんて関係なく、私は景久くんといるのが楽しいのかもしれない。
「わぁ、サラサラだ…」
撫でていると尻尾が動いて、私の手に絡まる。なんだか握手みたいだ。
帰宅途中のクラスメイトが、私達を見ているが気にならない。それくらい手触りがいい。
「夢みたいに、ふわふわ…」
「おい、何やってんだよ白石!」
「…え?」
振り返るとクラスメイトの不知火湊斗くんがいた。走って来たのか、どこか焦っているようだった。いつもの冷たい表情が消えている。
不知火くんは私と景久くんを見て、顔を険しくさせた。
「白石。今すぐ手を離せ」
「…な、何でよ」
なんか怖くない?
鋭い目が私を見据える。
「狐族の……男の尻尾を触ってもいいのは、恋人か配偶者だけだ!」
びっくりして思わず手を離した。
「景久くんごめん、知らなかったの」
「ん、紗夏ならいいよ。…だって紗夏は俺の、と、特別だから」
「ふぇっ!?」
私の鼓動が一気に跳ね上がった。
「は?」
不知火くんの声が氷点下になる。
「この二週間、紗夏に会うことだけを考えてた。…だから俺の、特別」
小さな沈黙の後、景久くんは不知火くんを一瞥する。
「あのさ、誰か知らないけどさっさと帰れよ。それに急に大きな声を出すな。曾御祖父さまが言ってたぞ。女の子には優しくしなさいって」
わぉ、曾御祖父さま推せる。…会ったことないけど。
「…白石の知り合いか?」
「うん」
「生意気な子供だな」
確かに。
心で頷いていると、景久くんが身を寄せてきた。相変わらず近い。
「早く紗夏の家に行きたい」
「そうだね、行こっか」
「白石の、家…?」
不知火くんが怪訝な顔で呟いた。それに対して、景久くんは何故か勝ち誇った笑みになる。
「紗夏の家でホットケーキを食べる。その後は暗い部屋に行くんだ」
暗い部屋?カラオケのことかな。景久くんが私にきらきらとした目を向けてきた。
「あの日、暗い部屋で俺たち一つになったよな。二人でもう一度してみたい。身体が熱くなって、全力疾走したみたいに気持ち良かったんだ」
「うん、確かに」
二人の声がハモって一つになった。私も景久くんと歌ってみたい。
話を聞いていた不知火くんの表情が歪む。何故か青ざめていた。
「暗い部屋で一つになるって、何だよそれ…」
双眼が暗くなっていく。ビリビリと空気が震えて、不知火くんの黒い短髪が少しずつ逆立つ。そこに尖った狐耳が現れた。
「白石、そいつから離れろ」
爛々とした目。開いた唇からは鋭い牙が見えた。
母親からのラインに私は天を仰いだ。即、返信をする。
【何か用?】
【帰宅せよ】
【今からカラオケ】
母親が【0点】のスタンプを送信してきた。
やだ帰んない、とタップして―消した。
母親の頼みを断ると後が怖い。【了解、帰る】と返信する。【100点】のスタンプ音が虚しく響いた。
「紗夏、どうしたの」
隣にいる志穂が話しかけてきた。
「お母さんから、帰ってきてってラインがきた」
「えー」
今日は高校の友達数人とカラオケ…だった。志穂は「先に用事を済ませてきなよ。待ってるからね」と行ってしまった。
下ろした黒髪をヘアゴムでまとめる。トボトボと帰路についた。
◇
「狐族のお子さんを預かることになったの。頼むわね」
まだ靴も脱いでないんですけど。
「女の子?」
「ご子息よ。12歳」
「え〜ヤダ。狐族の男の子ってさ、何考えてるのか分かんないもん」
狐族はスタイルが良くて美形だ。クラスの女子は楽しくて気が合うけど、男子は少し違う。中でも私にだけ冷たい不知火くんのせいで苦手意識があった。クールな切れ長の目を思い出してムムッとなる。
「そんなこと言わないの。少しの間だけでいいから。銀行に行きたいのよ」
お母さんの手が通帳とカードを掴む。
「ちゃんとおもてなししてね。お得意のご子息よ。くれぐれも…」
「私、友達と遊ぶって言ったよね」
「ああ~忙しいっ…じゃ!」
台風のように出て行った。私は溜め息をついて部屋に入る。綺麗な男の子が正座をしてテレビを見ていた。
わぉ、この子が狐族か。
外見は人間だけど狐にもなれる。要は獣人ハーフだ。狐族は人間世界で隠れて生きていたけど、この国のトップが狐族になってから世の中は変わった。
男の子は私に気がつくと会釈をしてきた。利発そうな顔つき。糸目から『お前、誰?』っていう視線を遠慮なくぶつけてくる。警戒心、剥き出しだ。
「何の番組を観てるの?」
私は優しい声を出して隣に座った。怪しい奴じゃないよ。私は母親の奴隷…いやいや、私は白石紗夏。君の名は?
「九条景久です」とソプラノの声が返ってきた。さらりとした前髪から値踏みする視線。
化かされ…いや、バカにされてる?
景久くんはテレビに視線を戻した。
会話終了。その横顔から沈黙の圧を感じるが私は負けじと話を続けた。
「その番組、面白いよね」
テレビの音量が上がる。音が聴こえないだろ、黙れよ。そう言ってるような横顔。
一気に空気が凍った。
「その態度さぁ…!」私は叫んだ――もちろん心の中で。
まだ子供だ。それに景久くんも私の家に来たくなかっただろう。知らない家に預けられて知らない人に説教されるなんて泣きっ面に蜂だ。
私は立ち上がり、台所へと向かった。
お腹が空いた。
冷蔵庫を漁り、適当な材料でオムライスを作った。景久くんも食べるだろう。
ケチャップで^•ﻌ•^の絵を描いた。
リビングに持っていくと、景久くんの姿勢は変わらないままだ。狐くん、よく躾られてるね。態度は悪いけど。
「足を崩して気楽にしたら」
「別にいいです」
「そ。オムライスを作ったから一緒に食べよう」
「いりません」
返事をした瞬間、お腹の音が盛大に鳴った。私じゃない。
景久くんの耳が可哀想なくらい真っ赤になっている。スルーしよう。
「アレルギーってある? ないなら食べてくれると助かるかな」
「…いただきます」
お、可愛い。根は素直なんだ。
景久くんは皿を受けとると糸目をパチパチさせた。ケチャップの絵を見て驚いている。
「上手いでしょ? 景久くんの顔だよ」
つい名前呼びしてしまった。…まあ、いいか。図々しいくらいのノリでいこう。
景久くんは無言でオムライスにスプーンを差し込む。一口もぐもぐと食べた。
「美味しい?」
「……」
まさかの無視?…いや、違うな。私の声が聞こえなかったんだ。ポジティブにいこう!
テレビとスプーンの音をBGMに私はオムライスを食べ始めた。しばらくするとお茶を忘れたことに気がつく。
ふと景久くんを見た。食べる手が止まっている。不味かったのかと思ったがそうじゃない。
^•ﻌ•^ 絵文字が綺麗に残っていた。スプーンを入れるのをためらっている。
「可愛いとこあるじゃん」
笑うと景久くんは顔を真っ赤にさせた。黒髪から狐耳がピン!と出てくる。
「わぁっ狐の耳!」
「あっ見るなっ」
「へ〜可愛いね。あ、動いた」
「見るなってば」
私は台所へ逃げ込んだ。どういう仕組みで狐耳が出るのかな?それにしても驚いた景久くんの顔、面白かったなぁ。
ひとしきり笑って、私はお茶を入れてリビングに戻った。景久くんの狐耳は消えて、お皿も空になっている。
「もっと食べる?」
景久くんは首を横に振った。そして「ごちそうさまでした。…美味しかったです」と呟いた。
「どういたしまして。口に合って良かった」
景久くんは照れたのか、テレビに視線を向けた。CMが終わって音楽番組になる。段々と景久くんの目が輝き始めた。
「歌番組が好きなの?」
「…この歌が、好きなんです」
「わかる。サビに入る前のスピード感が良いよね」
景久くんの顔がパッと晴れ渡る。が、唇は閉じたままだ。
「私ね、聴くのも好きだけど、歌うのも好きなんだ」
でも最近はちょっと寂しい。誰かと歌ってみたいから。
友達を誘うと「紗夏は上手いから一緒に歌うのヤだよ〜。それよりソロで聞きたい」って言ってくれる。正直嬉しい。でも私も誰かと歌って、ハモったりアドリブを入れて、楽しさを共有してみたい。
「景久くんは?」
「え…」
「歌うのは好き?」
テンションが上がったのか、景久くんが身を寄せてくる。私の肩に身体が当たった。ん、距離近くない?
「近いですか?」
どうやら顔に出ていたらしい。きまりが悪そうに景久くんは視線を逸らした。
「……癖なんです。話す時は身体を近づけて、耳元で話すように言われてるので」
「え?」
なんで?
「その癖、直した方がいいかも」
「どうしてですか?」
「近いとさ、勘違いする子だっているよ。その子にも景久くんにも良くない」
無自覚な美形だめ、ぜったい。
「ひい御祖父様」
「ん?」
今なんて言った?
「ひい御祖父様に言われてるんです。もうお歳なので近寄って話して欲しいって」
「あ、そういうこと。もー心配したじゃん」
力が抜けた。景久くんは目を一本線にして笑う。
「…心配、か。紗夏って早とちりだな」
「へ?」
いきなりのタメ。小学生のコミュニケーションって分からない。注意しようかと思ったが、嬉しそうに笑うのでそのままにしておいた。
睫毛から琥珀色の瞳が見え隠れする。宝石みたいに綺麗だ。
じっと見ていると景久くんの頬が赤くなった。
「紗夏…見すぎ」
「わぉっ!」
甘ったるい声にドキッとした。
「ごめんね、綺麗な目だから見とれちゃった」
「…ん」
掠れた景久くんの声が響く。黒髪から狐耳がぴょこぴょこ動いた。
なんか可愛いな。
景久くんは頬を染めて何も言わない。テレビの音が大きくなったような気がした。
私はソワソワと落ち着かなくなった。何か、何か話をしないと。
「あ、そうだ。苺は好き?」
冷蔵庫の中に入っていた。大切なお客様が来ると、我が家の食卓は潤う。
景久くんは、ぽわわ〜んとした顔で黙っていた。
聞いてる?
「ねぇ好き?」
苺。
「…初めてだからよく分からないけど、ドキドキする」
何が?
「もしかして苺を食べるのは初めてなの?」
「……」
景久くんの眉間に皺が寄る。「苺が好きってことか…?」と呟くと、顔にムッとした表情を重ねた。黒髪から尖りに尖った狐耳が出る。ツンツンツーン! と毛が逆立っていた。
「別に!」
「ああ…そう、分かった。待ってて」
分からない。私は台所へと避難した。ああいう歳頃の子って、天気みたいに機嫌が変わるのかな。というより狐族の男の子がそうなの?
クラスメイトの不知火くんも顔が赤くなったと思えば、私にツーンとした態度を取ってくる。また美形だから余計に冷たく見えるんだよね。あ〜、ヤな事を思い出した。
「もうっ不知火めっ、勝手に出てくるな!」
苺を洗い、ヘタを取っていると何やら玄関が騒がしい。母親が帰って来たようだ。
「ただいま~」
能天気な母親の声に私はホッとした。やっと子守りから解放される。苺の皿を持ってリビングに行くと、景久くんは礼儀正しく母親に接していた。
君はオセロか。いきなり黒から白に変わらないでよ。
「景久くん、苺」
「紗夏お姉さま。ありがとうございます」
紗夏お姉さま?
唖然としていると母親は「礼儀正しいのね」なんてすっかり騙されている。
私は呆れて景久くんの頭を撫でた。つい力が強くなったのは気のせいだ。この際、髪も乱してやろう。えいっえいっ。
スッキリしたが景久くんは睨んでいた。鋭い視線が訴える。『人が大人しくしてれば…』
おお~怖っ!
ここは逃げるが勝ちだ。時計を見るとまだカラオケには間に合う時間だった。
「お母さん、もういいよね。出かけてもいい?」
「助かったわ、ありがとう。気を付けてね」
「景久くん。またね」
景久くんは黙ったままだった。乱れた髪と感情が消えた瞳。凛とした花がしおれたような顔。
私の視界の隅にグラスが二つ光った。私のは半分お茶が残っている。もう一つは空だ。
あんな態度をとっていても…景久くんは喉が渇くほど緊張してたんだ。
それはそうだよね。知らない私と二人きり。慣れたと思ったらまた別の人。寂しいバトンタッチが、なんだかできない。
「景久くんも一緒に来る? カラオケ」
糸目をパチパチとさせた後、景久くんは嬉しそうに笑った。が、すぐに真顔になる。
「迷惑なので家にいます」
「ウザかったら誘わない。迷惑じゃないよ」
「……」
「さっき音楽番組を見て楽しそうにしてたじゃん。ね、行こ」
「…いいの?」
「もちろん」
「…ありがとう」
花ひらくように笑う。景久くんは苺を食べ終えると、私の隣に来て手を握ってきた。ふわりと甘酸っぱい果肉の香り。
母親が「カラオケに連れて行くなんて。財閥の御曹司なのよ」と言ってきたが「遊びも大切じゃん。それに景久くん退屈そうだったよ」と反論した。
「ところでさ、狐族の財閥とウチってどういう関係?」
妙に気になった。
「おばあちゃんの友達。そこの代表がきつねうどんが大好きなんですって。ほらよく出前注文を受けるでしょ」
「あー」
「普通の生活を勉強させたいみたい…なんだけどね」
うどん屋は祖母が営んでいる飲食店だ。私も時々はバイトに行く。そういえばすっごいタワーマンションに出前したことがあったなぁ。
「紗夏、くれぐれも景久くんを丁重におもてなししてね。GPS持たせてるから少しは安心だけど、気をつけて」
「はいはーい、わかった」
「ハイは一回!」
「はーい」
玄関にコンバースのスニーカーと景久くんの革靴が並んでいる。
財閥の息子…か。
身に付けるものでドレスコードが線引きされる。
人間と狐族。一般庶民と富裕層。踵で感情を押し込んで玄関を出た。
外は茜色が広がっていた。桜の花びらが白く煌めいている。景久くんは白いカッターシャツに黒のカーディガンを羽織っていた。襟元に刺繍が刻まれている。オーダーメイドかな?
「私から離れないでね」
迷子にさせたら大変だと手を繋いだ。景久くんは何が嬉しいのかクスクスと笑う。
「紗夏ってさ…」
「ん?」
「紗夏って誰にでも優しいのか?」
スマホの通知音が鳴る。ラインだ。見ると志穂からだった。
【用事は終わった? 紗夏の歌を聴きたいよー】
「ごめん、なんて言ったの?」
景久くんに視線を戻すと、笑顔のまま首を小さく振った。
◇
カラオケ店に入り、部屋の前に立った。薄いドアから盛り上がってるのが分かる。
扉に手をかけると景久くんが繋いだ指に力を込めてきた。震えている。緊張してるのか。
私は入るのを止めて扉から手を離した。
「景久くんは、こういう店に入ったことがある?」
「うん」
嘘だな…顔が真っ白だ。
分かったのは景久くんってすごく強がる。タメ口なのも、最初は素っ気なかったのも、弱く見られたくないからなんだね。
それに話す時に距離が近い。ひょっとして一番会話をするのは、曾御祖父さんなの?友達は何も言わないのかな。
私はジップパーカーを脱いで、景久くんに着せた。袖が余ったので一つ折る。上品なシャツが隠れて、カラオケに入りやすい格好になった。
「急に連れてきてごめんね。怖かったらパーカーを被ったらいいよ」
「怖くない」
「そう? 私はね、カラオケは楽しいけど部屋に入る時さ、怖い時もあるよ。だって視界が一瞬暗くなるもん。でもそれって普通だよ」
「……」
さらさらの前髪から覗く、琥珀色の瞳が揺れた。
「…服を借りてもいいのか?」
「うん着てて。パーカーはね、御守り! ドキドキしたらフードを被って耳を隠して」
「……」
「どうしたの?」
「今まで…人の種族は裏があるって思ってた」
「なにそれ」
「紗夏みたいにバカばっかりな人間だと安心だ」
「なにそれ!!」
景久くんが何かを言いかけた時、サウンドが倍になった。空気の震動で声が掻き消される。部屋にいた誰かが扉を開けたらしい。カラオケの音がワッと盛り上がる。
部屋にいる志穂が私を見て手を挙げた。私は口角を上げて、結んだ髪をサラッと下ろす。
「紗夏、待ってた。一曲歌って!」
「おっけい! さ、景久くん入ろう。楽しいよ」
「うん…」
「みんなースペシャルゲストの景久くんだよー」
「おー!美少年じゃん。おいでおいでー」
色とりどりのジュースが並んでいる。氷がきらきらと光った。
友達の一人がはしゃぐ。
「なんか紗夏の弟みたいで可愛いねー」
「そうそう弟みたいな感じで…、んんっ!」
繋いだ手に力が一瞬だけ加わる。
「何すんの。痛いじゃん」
「…俺は弟じゃない。子供扱いするな」
「どっからどう見ても…だよ」
景久くんは素早くフードを被った。
「すぐに大人になる。追いつく、から」
全く聞こえない。景久くんは何をブツブツ言って…もしかして呪文?
「あのさ、狐族って魔法が使えたりするの?」
「は?」
曲の前奏が流れてきた。スピード感のあるメロディー。さっき景久くんと音楽番組で聴いた――。
「好きな歌だ」
景久くんの声が弾ける。スクリーンに釘付けになっていた。じわじわと口角が上がり、嬉しそうに私を見つめる。
薄暗い部屋の中で、琥珀色の瞳が輝いた。
「紗夏! ここって歌える部屋なのか? …俺、歌いたい! なぁ一緒に歌おう!」
初めて景久くんの素顔を見たような気がした。
「よーし歌おっ!」
「うん!」
外野なんて気にしない。遠慮なんてしない。勢いよく景久くんは部屋に入った。怖がっていたのが嘘のようだ。スクリーンに映るアーティストと歌詞を目で追っている。
私達はマイクを持った。景久くんの唇が静かに開く。息を呑む細い音。
景久くんは透明感のある声なのに、突き抜ける力強さがあった。声量もあってすごく上手い。
本気で歌わないと飲まれる。
私は耳を澄ませてメロディーラインを掴んだ。五線譜に声をのせる。私の歌声を聞いて景久くんの目が見開き、そして笑顔になる。
みんな何かを言ってるけど全く聞こえない。声と声だけが重なる。音符記号が一つの線になり、心地よいメロディーになる。
歌いながら聞き入ってると、景久くんの声につられそうになった。でも絶対に負けたくない。感情を込めて深く声を放つと、今度は景久くんがつられそうになったのか苦しそうに、でもどこか嬉しそうに私を見た。
ドレスコードが、ほどかれていく。
人間と狐族。住む世界が違うとか、年齢の差なんて飛び越して私と景久くんは熱唱した。
歌い終わると色んな感情が溢れて止まらなかった。この感覚って何?
景久くんも同じだったようで私を見つめてくる。もう一回歌いたい。確かめたい。
アンコール!という声を受けて、続けて熱唱した。光の中にいるみたいだ。
一緒に歌うって、なんて楽しいんだろう。
友達のリクエストが続々と入る。その流れで景久くんと熱唱していた。
急に私のスマホが鳴る。無視をしたがまた鳴る。さらに鳴る。……しつこいな!
見るとお母さんからのラインだった。――私は天を仰いだ。
【早く帰って来いのスタンプ】✕3
「もうこんな時間!景久くん帰ろう!」
「…え」
「ごめん帰るー!お金は明日学校で払うから」
「いらないよー。紗夏と景ちゃんのスペシャルライブありがと!また明日ねー」
「Oh,yeah!ありがと」
私は景久くんを連れて店を出た。外気に触れても心臓が騒いでいる。高揚が醒めない。堰を切ったように景久くんが話し出した。
「紗夏も歌うのが好きなのか?」
「うん」
「俺と同じだ」
景久くんは照れくさそうに笑って、私の手をギュッと握ってきた。
「紗夏、また一緒に歌おう。そうだ今度の土曜日」
黒塗りの車が歩道に横付けされた。エンブレムで高級車だと解る。
景久くんがその車を見て急に黙った。ハザードの光が景久くんの瞳を彩る。
「どうしたの?」
「…寒いからこのパーカーを借りてもいいか?」
「良いけど…」
熱気が肌にまとわりつく。
暑くないの?そう聞こうとしたが、車のドアが開いた。運転席から年配の男性が降りてきた。こちらを見ている。
「今日は楽しかった。またな」
「え?」
「ぜったいに…紗夏に会いに行くから」
景久くんが車へ向かった。そこで私は漸く気がついた。迎えが来たんだ。運転手さんが恭しく車のドアを開ける。
景久くんが車に乗ろうとすると、男性が何かを忠告した。景久くんは首を横に振った。何やら揉めている。私が駆け寄ると景久くんは振り返った。
男性はその一瞬の隙をついた。景久くんが着ていたパーカーを剥ぎ取る。景久くんの口が「あっ」と戦慄いた。
「紗夏から借りた!まだ、まだ着ていたい!」
「駄目です」
「…どうして?車の中だけでいいから」
男性は淡々と話した。
「例え車内でも身だしなみは大切です」
「……」
「勉強だと思って我慢して下さい」
男性は丁寧に私のパーカーをたたみ、返してくれた。深くお辞儀をしてきたので私も咄嗟に頭を下げる。悪い人ではなかった。厳しい口調だったが目元は穏やかだ。
男性は景久くんの元へ戻り、背中に手を添えた。車に乗れって事だろう。
「景久くん。また家においでよ」
私は手の中のパーカーを握った。
景久くんは背中を向けたままだった。俯き、肩が少し震えている。
「来なかったら私が会いに行くから。待ってて」
ゆっくりと景久くんは振り返った。無理に口角を上げた、大人の顔。
「紗夏、またな。ぜったいにぜったいに、またな」
ふわりと風に乗って狐の尻尾が現れた。尖った狐耳も。さざ波のようにきらきらと光る。
景久くんは力いっぱい手を振って、車に乗り込んだ。
ハザードランプが消える。走り去って車が見えなくなっても、私はいつまでもそこに佇んでいた。
◇
景久くんはすぐに来るだろう――そんな私の予想は完全に外れて、二週間経っても景久くんは来なかった。
「紗夏~。マック寄ろうよ」
「今日はやめとく」
「えー」
「ごめん、また明日」
景久くんの家は出前で何度か行ったことがある。私から会いに行ってみようか…。
歩いているとスマホが鳴った。お母さんからのラインだ。
【至急、帰宅せよ】
今日こそ絶対に断る。【用事があるから】とタップする。迷いなく送信。
【帰宅せよ】
【悪いけど無理】
【高い牛乳を買ってきて。ほら早く!】
……私が大人になろう。
私は渋々とコンビニに向かい、牛乳を買った。
店を出て歩いていると私の横に車が止まる。エンブレムが眩しい高級車。スモークガラスが下がっていく。
「紗夏!」
「…景久くん」
車から景久くんが降りてきた。熱烈にハグされて、私は牛乳が入った袋を落としてしまった。景久くんの綺麗な狐耳が間近にある。ふわっと爽やかな春の香りがした。
あれ?予想を遥かに越えて、すっごく嬉しいんだけど。
動揺して、景久くんの身体を離してしまった。つい距離を取る。景久くんは私の戸惑いを察することなく、嬉しそうに話し出した。
「今日は紗夏の家でホットケーキを食べるんだ」
「へ~。…えっ!」
「今日は俺が紗夏の顔を描いてやるよ。チョコレートペンで練習したから」
「あ〜そのための高い牛乳、か」
「紗夏」
「ん?」
「何でもない。…ただ呼んでみたかった」
景久くんの頬がうっすらと赤い。…なんなの。この雰囲気。私にまで伝染るじゃん。
俯いて、コンビニの袋をギュッと握った。
「早く行こうぜ。ホットケーキを一緒に作ろう。楽しみにしてたんだ」
気軽な声に力が抜けた。
私に会うのが楽しみじゃなくて、ホットケーキかぁ…。ま、そんなもんだよね。
「行こっか」
「うん! あとさ、また一緒に歌おう! 紗夏と歌って一つになったみたいで、すごく楽しかったんだ」
「わかる、私も」
景久くんは嬉しそうに笑った。狐の尻尾がピョコン!と顔を出す。
「あっ、尻尾がでてるよ」
「……触ってみるか?」
「いいの?」
「紗夏なら……いいよ」
「じゃあ遠慮なく」
年齢や狐族なんて関係なく、私は景久くんといるのが楽しいのかもしれない。
「わぁ、サラサラだ…」
撫でていると尻尾が動いて、私の手に絡まる。なんだか握手みたいだ。
帰宅途中のクラスメイトが、私達を見ているが気にならない。それくらい手触りがいい。
「夢みたいに、ふわふわ…」
「おい、何やってんだよ白石!」
「…え?」
振り返るとクラスメイトの不知火湊斗くんがいた。走って来たのか、どこか焦っているようだった。いつもの冷たい表情が消えている。
不知火くんは私と景久くんを見て、顔を険しくさせた。
「白石。今すぐ手を離せ」
「…な、何でよ」
なんか怖くない?
鋭い目が私を見据える。
「狐族の……男の尻尾を触ってもいいのは、恋人か配偶者だけだ!」
びっくりして思わず手を離した。
「景久くんごめん、知らなかったの」
「ん、紗夏ならいいよ。…だって紗夏は俺の、と、特別だから」
「ふぇっ!?」
私の鼓動が一気に跳ね上がった。
「は?」
不知火くんの声が氷点下になる。
「この二週間、紗夏に会うことだけを考えてた。…だから俺の、特別」
小さな沈黙の後、景久くんは不知火くんを一瞥する。
「あのさ、誰か知らないけどさっさと帰れよ。それに急に大きな声を出すな。曾御祖父さまが言ってたぞ。女の子には優しくしなさいって」
わぉ、曾御祖父さま推せる。…会ったことないけど。
「…白石の知り合いか?」
「うん」
「生意気な子供だな」
確かに。
心で頷いていると、景久くんが身を寄せてきた。相変わらず近い。
「早く紗夏の家に行きたい」
「そうだね、行こっか」
「白石の、家…?」
不知火くんが怪訝な顔で呟いた。それに対して、景久くんは何故か勝ち誇った笑みになる。
「紗夏の家でホットケーキを食べる。その後は暗い部屋に行くんだ」
暗い部屋?カラオケのことかな。景久くんが私にきらきらとした目を向けてきた。
「あの日、暗い部屋で俺たち一つになったよな。二人でもう一度してみたい。身体が熱くなって、全力疾走したみたいに気持ち良かったんだ」
「うん、確かに」
二人の声がハモって一つになった。私も景久くんと歌ってみたい。
話を聞いていた不知火くんの表情が歪む。何故か青ざめていた。
「暗い部屋で一つになるって、何だよそれ…」
双眼が暗くなっていく。ビリビリと空気が震えて、不知火くんの黒い短髪が少しずつ逆立つ。そこに尖った狐耳が現れた。
「白石、そいつから離れろ」
爛々とした目。開いた唇からは鋭い牙が見えた。

