希乃が司を振り切って、無我夢中で走った先は自室だった。
希乃の容態に何かあったとき踏み込めるよう、司の指示で自室には鍵がついていない。居候の身では仕方ないと不満を持ったことさえないけれど、今はどうして抵抗しておかなかったのかと悔やんだ。
「あ……っ」
息を切らして戻った自室には、使用人が入って来ていた。彼女は看護師の資格を持つ壮年の女性で、希乃を怖がらせないようにと司がきつく言いつけているからか、優しさを持って希乃を世話してくれていた。
でも司の命令には絶対服従で……嫌な予感を覚えたとおり、彼女の手にはあの植物図鑑があった。
「……だめ!」
希乃は蒼白になって、普段の彼女なら信じられない激しさで使用人の腕に飛びつく。
「いや、嫌ぁ! 捨てないで……っ。それしか、残ってないの……!」
希乃の必死の迫力に、使用人も驚いたようだった。一瞬腕が緩んだ隙に希乃は植物図鑑を取り返して、そのまま部屋を飛び出す。
心の中は混乱でぐちゃぐちゃだった。ただこの植物図鑑だけは守らなければという使命感に突き動かされて、靴下のまま庭に出て門を目指す。
「希乃っ!」
儚い逃走は数分で終わった。追いついて来た司に後ろから腕に封じ込められて、希乃はひぐっと喉を詰まらせる。
「こんな時間にどこに行く? 危ないから、夜は俺と一緒でないと屋敷を出ない約束だな? ……まさか、出て行くつもりだったんじゃねぇだろうな」
司の声は一段低くなったが、希乃が目にいっぱい涙をためているのを見て声色を和らげる。
「ああ、泣くな……怒ってない。怒ってないよ。希乃が靴も履かずに飛び出すから心配になっただけだ。さあ、ここは冷えるから部屋に戻ろうな」
司の声はもう元通りで、表情にも怒りはなかった。ただ希乃を離すつもりはないようで、一度も床に下ろすことなく抱いて部屋まで連れて戻った。
「慌てて怪我をしたりしてないか? 見せてみろ」
司は希乃をベッドに座らせると、土で汚れた希乃の靴下を脱がせて足をつかんだ。
司は昔から、希乃が小さな擦り傷を負っただけでも毎日傷を確かめて顔をしかめていた。暴力の世界にいる人のはずなのに、希乃には大きな声で叱ったことさえない。
「小せぇなぁ。赤ん坊みたいに白くて……握ったら折れちまうだろ、こんなの……」
司は希乃の足を取って独り言のようにつぶやくと、床に片膝をついたまま希乃を見た。
恵まれた長身の司と普通の高校生より小柄な希乃では、希乃がベッドに座らされても目線の高さは同じだった。希乃は植物図鑑を抱きかかえたまま、ごくんと息を呑んで身構える。
「希乃、冷えただろうから風呂に入っておいで。……それは置いてな」
「……や」
希乃が弱々しく声をもらすと、司は優しく言葉を重ねる。
「どうしたら渡してくれる? な、希乃。何でも買ってやる。図書館ごとくれてやってもいい」
希乃はふるふると首を横に振って、ベッドの上を後ずさった。けれど司は希乃の足を引いて、もう片方の手で希乃の手をつかむ。
希乃の身動きを完全に封じてしまうと、司は希乃の目もとらえて話しかける。
「……希乃がうちに来たときを覚えているよ」
希乃がぴくりと肩を揺らすと、司は希乃の手を温めるように包んで続ける。
「守られていない子どもの目をしていた。今よりずっと痩せて、ひどく暴力におびえていたな。希乃、そうさせたのは誰だ?」
司の鋭い追及に、希乃は小声で抵抗を口にする。
「私を叩いたのは……お父さんじゃない」
「だが希乃を守らなかった。あの家の主だというのに。のばらさんも守られないとわかったから、希乃は俺たちに助けを求めたんだろう?」
司の語る言葉の方が正しいとわかっていたから、希乃は心が破れそうだった。
父は希乃を守ってくれなかった。……母が暴力にさらされているのを知っても、手を差し伸べようとしなかった。だから希乃は橘家の門戸を叩いたのだから。
「希乃は小さかったから、あの男の正体が見えていなかっただけだ」
でも希乃だって子ども心に薄々気づいていた。父という人の、真実の姿を。
司は希乃が幼さゆえに言葉にできなかった、その事実を厳然と口にした。
「妻の目を盗んで、その妹を暴行して子どもを産ませた。……八歳の子どもの精神しかないのばらさんでは、たぶん何もわからなかっただろうに」
希乃の胸に激痛が走ったような気がした。自分が生まれたこと自体が母を傷つけたと……気づいてはいたけれど、言葉にして突きつけられたようだった。
「お……お父さんは優しかった!」
希乃は司の手を振り払うと、植物図鑑を守るように胸に抱いて体を丸めた。
「本当だもの! 嘘じゃない、の……!」
そう叫んで、希乃は子どものようにわんわんと泣いた。
それは父を庇うというより、自分の存在を守るための必死の抵抗だった。ガラスで作った存在意義というものを、そのガラスの欠片でぼろぼろに傷つきながら抱きしめるようだった。
「希乃……俺はこれ以上、希乃に傷ついてほしくないだけだ」
司は壊れそうな希乃の泣き声に、くしゃりと顔を歪めてつぶやく。
「……わかった。わかったよ、それは取り上げない」
司がそう約束しても、希乃は植物図鑑を抱いて体を丸めたまま泣き続けた。
「泣くな、希乃。いい子だ、な? 俺はお前が泣くのが一番つらいんだ……」
そんな希乃の頭を撫でて横に添い寝しながら、司はずいぶん長いことそうやって彼女をあやしていた。
希乃の容態に何かあったとき踏み込めるよう、司の指示で自室には鍵がついていない。居候の身では仕方ないと不満を持ったことさえないけれど、今はどうして抵抗しておかなかったのかと悔やんだ。
「あ……っ」
息を切らして戻った自室には、使用人が入って来ていた。彼女は看護師の資格を持つ壮年の女性で、希乃を怖がらせないようにと司がきつく言いつけているからか、優しさを持って希乃を世話してくれていた。
でも司の命令には絶対服従で……嫌な予感を覚えたとおり、彼女の手にはあの植物図鑑があった。
「……だめ!」
希乃は蒼白になって、普段の彼女なら信じられない激しさで使用人の腕に飛びつく。
「いや、嫌ぁ! 捨てないで……っ。それしか、残ってないの……!」
希乃の必死の迫力に、使用人も驚いたようだった。一瞬腕が緩んだ隙に希乃は植物図鑑を取り返して、そのまま部屋を飛び出す。
心の中は混乱でぐちゃぐちゃだった。ただこの植物図鑑だけは守らなければという使命感に突き動かされて、靴下のまま庭に出て門を目指す。
「希乃っ!」
儚い逃走は数分で終わった。追いついて来た司に後ろから腕に封じ込められて、希乃はひぐっと喉を詰まらせる。
「こんな時間にどこに行く? 危ないから、夜は俺と一緒でないと屋敷を出ない約束だな? ……まさか、出て行くつもりだったんじゃねぇだろうな」
司の声は一段低くなったが、希乃が目にいっぱい涙をためているのを見て声色を和らげる。
「ああ、泣くな……怒ってない。怒ってないよ。希乃が靴も履かずに飛び出すから心配になっただけだ。さあ、ここは冷えるから部屋に戻ろうな」
司の声はもう元通りで、表情にも怒りはなかった。ただ希乃を離すつもりはないようで、一度も床に下ろすことなく抱いて部屋まで連れて戻った。
「慌てて怪我をしたりしてないか? 見せてみろ」
司は希乃をベッドに座らせると、土で汚れた希乃の靴下を脱がせて足をつかんだ。
司は昔から、希乃が小さな擦り傷を負っただけでも毎日傷を確かめて顔をしかめていた。暴力の世界にいる人のはずなのに、希乃には大きな声で叱ったことさえない。
「小せぇなぁ。赤ん坊みたいに白くて……握ったら折れちまうだろ、こんなの……」
司は希乃の足を取って独り言のようにつぶやくと、床に片膝をついたまま希乃を見た。
恵まれた長身の司と普通の高校生より小柄な希乃では、希乃がベッドに座らされても目線の高さは同じだった。希乃は植物図鑑を抱きかかえたまま、ごくんと息を呑んで身構える。
「希乃、冷えただろうから風呂に入っておいで。……それは置いてな」
「……や」
希乃が弱々しく声をもらすと、司は優しく言葉を重ねる。
「どうしたら渡してくれる? な、希乃。何でも買ってやる。図書館ごとくれてやってもいい」
希乃はふるふると首を横に振って、ベッドの上を後ずさった。けれど司は希乃の足を引いて、もう片方の手で希乃の手をつかむ。
希乃の身動きを完全に封じてしまうと、司は希乃の目もとらえて話しかける。
「……希乃がうちに来たときを覚えているよ」
希乃がぴくりと肩を揺らすと、司は希乃の手を温めるように包んで続ける。
「守られていない子どもの目をしていた。今よりずっと痩せて、ひどく暴力におびえていたな。希乃、そうさせたのは誰だ?」
司の鋭い追及に、希乃は小声で抵抗を口にする。
「私を叩いたのは……お父さんじゃない」
「だが希乃を守らなかった。あの家の主だというのに。のばらさんも守られないとわかったから、希乃は俺たちに助けを求めたんだろう?」
司の語る言葉の方が正しいとわかっていたから、希乃は心が破れそうだった。
父は希乃を守ってくれなかった。……母が暴力にさらされているのを知っても、手を差し伸べようとしなかった。だから希乃は橘家の門戸を叩いたのだから。
「希乃は小さかったから、あの男の正体が見えていなかっただけだ」
でも希乃だって子ども心に薄々気づいていた。父という人の、真実の姿を。
司は希乃が幼さゆえに言葉にできなかった、その事実を厳然と口にした。
「妻の目を盗んで、その妹を暴行して子どもを産ませた。……八歳の子どもの精神しかないのばらさんでは、たぶん何もわからなかっただろうに」
希乃の胸に激痛が走ったような気がした。自分が生まれたこと自体が母を傷つけたと……気づいてはいたけれど、言葉にして突きつけられたようだった。
「お……お父さんは優しかった!」
希乃は司の手を振り払うと、植物図鑑を守るように胸に抱いて体を丸めた。
「本当だもの! 嘘じゃない、の……!」
そう叫んで、希乃は子どものようにわんわんと泣いた。
それは父を庇うというより、自分の存在を守るための必死の抵抗だった。ガラスで作った存在意義というものを、そのガラスの欠片でぼろぼろに傷つきながら抱きしめるようだった。
「希乃……俺はこれ以上、希乃に傷ついてほしくないだけだ」
司は壊れそうな希乃の泣き声に、くしゃりと顔を歪めてつぶやく。
「……わかった。わかったよ、それは取り上げない」
司がそう約束しても、希乃は植物図鑑を抱いて体を丸めたまま泣き続けた。
「泣くな、希乃。いい子だ、な? 俺はお前が泣くのが一番つらいんだ……」
そんな希乃の頭を撫でて横に添い寝しながら、司はずいぶん長いことそうやって彼女をあやしていた。


