司は以前から、居候の子どもには度が過ぎた暮らしぶりを希乃に与えてくれていた。
ホテルのスイートルームのような広々とした洋室に、柔らかい絹地の張られたソファー、大型テレビ、体の成長に合わせて何度も替えてくれた立派な机と椅子。それとお姫様が眠るような紗に囲われたベッドが、寝込みがちな希乃を包んできた。
ただしそこは過剰なほどの庇護の手の中でもあった。室温も湿度も完全に調節されて、希乃の心音や呼吸に異変があればすぐに部屋の外の使用人と司の携帯に通報されるようにもなっていた。
当の希乃はというと、司に与えられたたくさんの高価なおもちゃは壊したらいけないと手を触れなかった。希乃の一番の楽しみは、橘家に逃げ込んだときに腕に抱いていた、ぼろぼろの植物図鑑を見ることだった。
「希乃、ただいま。夕飯は食べたか?」
声をかけられて、希乃はとっさに植物図鑑を閉じていた。
振り向くと、司は普段通り黒スーツで引き締まった体躯を包み、未だ仕事帰りの緩んだ空気もなく毅然と立っていた。
「まだ……です。最近、司さま……お仕事前にお屋敷に戻っていらっしゃるから」
希乃がその精悍な立ち姿に気おくれしながら言うと、司は照れくさそうに笑ってうなずく。
「……俺を待っていてくれたか。この習慣を始めてよかったな」
三者面談から戻って以来、司は希乃と一緒に食事を取るようになった。
司は朝が早いし、夜は夕食を取ってからも仕事がある。体調を崩しやすい希乃とは生活リズムが違って当然なのに、希乃にひとりで食事をさせたくないと習慣を変えたのだった。
二人でリビングに行くと、テーブルには既に二人分の膳が用意されていた。司は支度を整えた使用人たちを下がらせると、二人で向かい合って食事を始める。
「希乃、こっちのドレッシングも試してごらん。レモンをかけると味が変わる」
「は、はい……」
司は食の細い希乃のために、毎回味付けや材料を変えさせて料理を勧める。時には希乃の皿に自ら取り分けて、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
「卵で倒れてから、食事そのものに臆病になったな。もっと早く、こうして側で見て世話してやればよかったな……」
いくつかの食物アレルギーのある希乃と一緒では不都合もあるだろうに、司は希乃と同じ料理を好んで食卓に出させた。
そもそもこのテーブル自体、三者面談の後に入れた二人の食事専用のものだった。今までは客を招くときの重厚な長テーブルを使っていたが、それでは希乃の食事を世話できないからと、小さめの丸テーブルに変えさせたのだった。
「土産があるんだ。そこの箱、開けてごらん」
食事も終わり際、希乃がちゃんと食べているのを見届けた後、司は壁に立てかけた縦長の箱を示した。
ハイブランドのロゴの入ったリボン付きの箱はどう見ても値段の張るもので、希乃は緊張しながらふたを開く。
「希乃は色が白いからな。きっとよく似合う」
中から出てきたのは初夏の空を思わせる淡いブルーのワンピースで、希乃の好きな優しい肌触りの生地で仕立てられていた。
希乃は汚したらいけないと慌てて箱に仕舞いながら、首を横に振る。
「私……もらえません」
「気に入らなかったか?」
「服……制服があれば、足りていて……それにもう、いっぱい……」
司はこれまでも希乃に不自由がないように服を買ってくれた。けれどここのところの司は、それでは全然足りないとばかりに希乃に土産を買って来る。
司は立ち上がると、希乃にワンピースをあてがって目を細める。
「今まであまり外に連れ出してやらなかったからな。行く場所の数だけ服は要るんだ。今のままじゃまるで足りない。……希乃」
司は希乃の目をみつめて、甘やかすように希乃の頭に触れる。
「俺は希乃にいっぱいいっぱい、愛情をかけてやりたい。希乃がいつも綺麗な服を着て、おいしいものを食べて、安心した顔で笑うところが見たい。かわいくて……俺の懐で、誰の手も要らないように保護してやりたいんだ」
希乃はその庇護の感情に恐れを感じながら、頭を撫でられるのは止められなかった。自分をずっと守ってくれたこの大きな手に、自分は全部を返すのではなかったの?……そんな思いを抱く。
「足りないもの、全部俺が与えてやる。希乃の心の傷が塞がるまで……塞がっても、いつまでだって懐に抱いていてやる。だから……」
希乃は吸い寄せられるようにその胸に寄りかかろうとして、その言葉を耳にする。
「……あの植物図鑑は、もう捨ててもいいな?」
希乃は頭から冷水をかぶったように震えて、さっと顔色を変えた。
「や……い、や……」
「希乃」
「あれ、は……」
希乃はふらふらと後ずさったが、司は構わず距離を詰めた。やがて背中に壁が当たって、司は希乃の横に手をつく。
「希乃が来てすぐ、代わりの植物図鑑を買ってやったな? 他にも希乃が好きな本をたくさんそろえた。……はらわたが煮えくり返るくらい、気に入らねぇ。俺の希乃が、いつまでも他の男の与えたものなんかを宝物にしてるのが」
司はもう少しも笑わずに希乃を見下ろしていた。彼の裏の顔が透けて見えるような低い声を出して、希乃を追い詰める。
「な? いい子だから、希乃……」
「……嫌ぁ!」
希乃は自分にこんな声が出せたのかと思うほど、激しい拒絶の声を上げていた。
「嫌、嫌ぁ……! 絶対に手放さない! あれは、あれだけは……」
「き、希乃」
希乃は精一杯の力で司の胸を叩いて、司の下から抜け出す。
「……お父さんがくれた、の……!」
そうして司が呼び止める声も聞かず、希乃はその場から走り去った。
ホテルのスイートルームのような広々とした洋室に、柔らかい絹地の張られたソファー、大型テレビ、体の成長に合わせて何度も替えてくれた立派な机と椅子。それとお姫様が眠るような紗に囲われたベッドが、寝込みがちな希乃を包んできた。
ただしそこは過剰なほどの庇護の手の中でもあった。室温も湿度も完全に調節されて、希乃の心音や呼吸に異変があればすぐに部屋の外の使用人と司の携帯に通報されるようにもなっていた。
当の希乃はというと、司に与えられたたくさんの高価なおもちゃは壊したらいけないと手を触れなかった。希乃の一番の楽しみは、橘家に逃げ込んだときに腕に抱いていた、ぼろぼろの植物図鑑を見ることだった。
「希乃、ただいま。夕飯は食べたか?」
声をかけられて、希乃はとっさに植物図鑑を閉じていた。
振り向くと、司は普段通り黒スーツで引き締まった体躯を包み、未だ仕事帰りの緩んだ空気もなく毅然と立っていた。
「まだ……です。最近、司さま……お仕事前にお屋敷に戻っていらっしゃるから」
希乃がその精悍な立ち姿に気おくれしながら言うと、司は照れくさそうに笑ってうなずく。
「……俺を待っていてくれたか。この習慣を始めてよかったな」
三者面談から戻って以来、司は希乃と一緒に食事を取るようになった。
司は朝が早いし、夜は夕食を取ってからも仕事がある。体調を崩しやすい希乃とは生活リズムが違って当然なのに、希乃にひとりで食事をさせたくないと習慣を変えたのだった。
二人でリビングに行くと、テーブルには既に二人分の膳が用意されていた。司は支度を整えた使用人たちを下がらせると、二人で向かい合って食事を始める。
「希乃、こっちのドレッシングも試してごらん。レモンをかけると味が変わる」
「は、はい……」
司は食の細い希乃のために、毎回味付けや材料を変えさせて料理を勧める。時には希乃の皿に自ら取り分けて、甲斐甲斐しく世話を焼いた。
「卵で倒れてから、食事そのものに臆病になったな。もっと早く、こうして側で見て世話してやればよかったな……」
いくつかの食物アレルギーのある希乃と一緒では不都合もあるだろうに、司は希乃と同じ料理を好んで食卓に出させた。
そもそもこのテーブル自体、三者面談の後に入れた二人の食事専用のものだった。今までは客を招くときの重厚な長テーブルを使っていたが、それでは希乃の食事を世話できないからと、小さめの丸テーブルに変えさせたのだった。
「土産があるんだ。そこの箱、開けてごらん」
食事も終わり際、希乃がちゃんと食べているのを見届けた後、司は壁に立てかけた縦長の箱を示した。
ハイブランドのロゴの入ったリボン付きの箱はどう見ても値段の張るもので、希乃は緊張しながらふたを開く。
「希乃は色が白いからな。きっとよく似合う」
中から出てきたのは初夏の空を思わせる淡いブルーのワンピースで、希乃の好きな優しい肌触りの生地で仕立てられていた。
希乃は汚したらいけないと慌てて箱に仕舞いながら、首を横に振る。
「私……もらえません」
「気に入らなかったか?」
「服……制服があれば、足りていて……それにもう、いっぱい……」
司はこれまでも希乃に不自由がないように服を買ってくれた。けれどここのところの司は、それでは全然足りないとばかりに希乃に土産を買って来る。
司は立ち上がると、希乃にワンピースをあてがって目を細める。
「今まであまり外に連れ出してやらなかったからな。行く場所の数だけ服は要るんだ。今のままじゃまるで足りない。……希乃」
司は希乃の目をみつめて、甘やかすように希乃の頭に触れる。
「俺は希乃にいっぱいいっぱい、愛情をかけてやりたい。希乃がいつも綺麗な服を着て、おいしいものを食べて、安心した顔で笑うところが見たい。かわいくて……俺の懐で、誰の手も要らないように保護してやりたいんだ」
希乃はその庇護の感情に恐れを感じながら、頭を撫でられるのは止められなかった。自分をずっと守ってくれたこの大きな手に、自分は全部を返すのではなかったの?……そんな思いを抱く。
「足りないもの、全部俺が与えてやる。希乃の心の傷が塞がるまで……塞がっても、いつまでだって懐に抱いていてやる。だから……」
希乃は吸い寄せられるようにその胸に寄りかかろうとして、その言葉を耳にする。
「……あの植物図鑑は、もう捨ててもいいな?」
希乃は頭から冷水をかぶったように震えて、さっと顔色を変えた。
「や……い、や……」
「希乃」
「あれ、は……」
希乃はふらふらと後ずさったが、司は構わず距離を詰めた。やがて背中に壁が当たって、司は希乃の横に手をつく。
「希乃が来てすぐ、代わりの植物図鑑を買ってやったな? 他にも希乃が好きな本をたくさんそろえた。……はらわたが煮えくり返るくらい、気に入らねぇ。俺の希乃が、いつまでも他の男の与えたものなんかを宝物にしてるのが」
司はもう少しも笑わずに希乃を見下ろしていた。彼の裏の顔が透けて見えるような低い声を出して、希乃を追い詰める。
「な? いい子だから、希乃……」
「……嫌ぁ!」
希乃は自分にこんな声が出せたのかと思うほど、激しい拒絶の声を上げていた。
「嫌、嫌ぁ……! 絶対に手放さない! あれは、あれだけは……」
「き、希乃」
希乃は精一杯の力で司の胸を叩いて、司の下から抜け出す。
「……お父さんがくれた、の……!」
そうして司が呼び止める声も聞かず、希乃はその場から走り去った。


