尚にとって家族は歪なものだったが、自分の帰属するものだと意識するくらいには愛していた。
「帰りに藤屋敷に寄ってくれ」
「かしこまりました」
迎えの車に乗るなり言った尚に、側近が心得たようにうなずいた。
走り出す車の中で、暮れだした陽を仰ぎながら思う。尚の帰りの時間としてはいつもよりずいぶん早いが、今日辺りは父も早くに戻りそうで、鉢合わせるだろうかと。
……多少憂鬱ではあるが、父も尚が幼い頃に比べればずいぶん穏やかになった。今更喧嘩もないだろうと思って、座席に背を預ける。
尚と父は、仲が良くない。尚が母と呼ぶ人は実の母ではなく、尚は母を傷つけた女から生まれた子どもだからだ。産みの母は既にこの世になく、尚は赤ん坊のときから今の母に引き取られて育った。
「来てくれたの、尚くん。忙しいのに気を遣ってくれたのね」
その経緯から考えると信じられないのだが、母は実の子のように尚を慈しんで育ててくれた。
「母さん、お茶はいいですから。その格好、横になっていたんでしょう?」
「いいの、いいの。尚くんの顔を見たら元気になったわ。何がいいかしら。尚くんが好きな……」
母は玄関まで出て尚を出迎えて、にこにこと相好を崩しながら居間に迎え入れる。自ら台所に茶葉を取りに行こうとする。
「親父に怒られますよ。だめです。座ってください。お茶は使用人に淹れさせます」
尚がはっきりと断ると、母はしゅんとして大人しくソファーに座った。こういうところが、いつまでも少女のようだと思う。
この家は父が母の静養のために建てた家で、母が何不自由なく暮らせるように家具の一つ一つまで注文をつけた代物だ。母が今座っているソファーだって、それだけで車が買える特注品だと聞いている。選別された使用人だって控えているのだから、母が身動きする必要すらないはずなのだ。
「お加減はいかがですか。……親父は病院の隣に家を買ったそうですが」
尚が使用人に手土産を渡すと、使用人が二人の前に給仕する。母は、かわいいスフレね、とはしゃいだ声を上げた。
「母さん」
「き、聞いてるわ。怒らないで。うれしかったの」
尚がため息をつくと、母はそろそろと答える。まるで親子が逆転しているようなやり取りはいつものことで、尚は気を取り直して言葉を重ねる。
「医者もそうした方がいいと言ったそうですね。俺からも病院の側に移るのをお勧めします」
「うん……」
「何か気がかりなことが?」
母が気乗りしないように見えたので、尚は不思議そうに聞き返す。すると母は困ったように言った。
「司さまを一人にしたくないの。いつもおかえりなさいって言ってあげたいの。尚くんが独立した今、それくらいしか私にできることはないから」
母は結婚してもう長い父のことを、未だに「司さま」と呼ぶ。それくらい父を仰いでいるのに、今のようにまるで父が小さな子どもであるように心配している素振りもある。
夫婦のことは当人たちしか理解できないのかもしれないが、昔から父と母の関係は尚にとって理解しがたかった。
尚が子どもの頃、父は母との間に強く子どもを切望していた。不本意な子だった尚ではなく、父が心から望んだ母に、できるだけ早く子が授かるように手を尽くしていた。
……けれど子が授からなかったのは、母が毒に近いものを飲んででも拒絶していたのだと、後から聞いた。
尚の立場を危うくしないように、母は自分の体を盾にしてでも、尚を守ってくれたのだ。
その感情の正体は知らないが、母が尚を愛してくれているのは、今まで一切疑ったことがなかった。
尚が熱を出したときの母の心配そうなまなざし、泣いたときに包んでくれたぬくもり、成長した今でも鮮明に思い出せる。
尚は目を伏せて、母に内心の憂いを気づかれないように言った。
「家で迎えてくれなくてもいい。……ただ、元気でいてほしいと。親父はそう言ったんじゃないですか?」
父も母が体を壊すことを恐れて、いつからか子のことを持ち掛けなくなったようだった。
母は考え込むと、やがて苦く笑って、そうね、とうなずく。
「病院の側に移るわ。尚くんも、心配させてごめんなさい」
「よかった」
「ああ、そうだわ」
母はふいに夢見るような目で微笑んで言う。
「それより、来月ね。……尚くんの結婚式、楽しみだわ」
尚は笑い返して、小さな不安を抱く。
母は尚を育てることを生きがいのようにして、たびたび寝込みながらも自分を叱咤して立て直してきた。尚が完全に自分の手を離れると……母はその体まで、弱ってしまわないだろうか。
「……希乃」
そのとき、戸口から呼び声が届いた。
いつ見ても、壮年に至ってなお隙なく彫像のように整った男だと思う。それだけ父は息子の目から見ても完璧で、仕事上では尊敬できる上司だった。
ただ父は尚に一瞥をくれただけで、まっすぐに母の元に歩み寄る。
「寝てないとだめだろう? 薬は飲んだか? 肩が冷えてる。こんな薄着で」
父は未だに母のこととなるとすべてが視界から消えてしまって、まるで小さな子どもの面倒を見るように母を構ってしまう。
母は父の姿をみとめると、子どもが母親をみつけたように屈託なく笑って言う。
「司さま、おかえりなさい。あのね、尚くんがスフレを買ってきてくれたの。司さまも一緒に食べましょう?」
「後で食べる。おまえは寝てるんだ。また熱を出したら……」
食べると一応言ってくれた辺り、無視に近い昔よりはずいぶん温厚になったな。そう思う余裕ができるくらいには、尚も大人になった。
だけど次の母の言葉には、尚も肝が冷えた。
「だめ。尚くんと仲良くして。……私がいなくなったら、尚くんと二人よ?」
それは家を去って引っ越すという意味なのに……一瞬、母が亡くなる想像をしてしまった。
息を呑んだ尚とは違って、父は当たり前のことのように言った。
「おまえが行くところどこにでも、俺はついていくさ」
……もしかしたら、と尚は思ったのだ。
「新しい家には俺も引っ越す。希乃を一人にするわけないだろう」
もし母が亡くなるようなことがあれば、父は……と恐ろしい想像をした尚を、誰が責められただろう。
「希乃、またお気に入りの家具をいっぱい入れてやろうな」
「ふふ、家から持って行くもので十分よ」
父はもう甘やかすように笑っていて、母もそれに柔らかく言い返していた。
父は死ぬまで母を離さず……死んでも離さないだろう。その想像に恐ろしさより、二人の情愛の深さを思ってしまう自分は、それでもこの家族を愛している。
「さ、ベッドでお休み。希乃……」
きっとその言葉は母が幼い日からかけられていて、子どもでなくなった今も日常に染みわたっているのだろう。
母を抱き上げて寝室に連れて行く父の背中は、どこまでも満ち足りていた。
「帰りに藤屋敷に寄ってくれ」
「かしこまりました」
迎えの車に乗るなり言った尚に、側近が心得たようにうなずいた。
走り出す車の中で、暮れだした陽を仰ぎながら思う。尚の帰りの時間としてはいつもよりずいぶん早いが、今日辺りは父も早くに戻りそうで、鉢合わせるだろうかと。
……多少憂鬱ではあるが、父も尚が幼い頃に比べればずいぶん穏やかになった。今更喧嘩もないだろうと思って、座席に背を預ける。
尚と父は、仲が良くない。尚が母と呼ぶ人は実の母ではなく、尚は母を傷つけた女から生まれた子どもだからだ。産みの母は既にこの世になく、尚は赤ん坊のときから今の母に引き取られて育った。
「来てくれたの、尚くん。忙しいのに気を遣ってくれたのね」
その経緯から考えると信じられないのだが、母は実の子のように尚を慈しんで育ててくれた。
「母さん、お茶はいいですから。その格好、横になっていたんでしょう?」
「いいの、いいの。尚くんの顔を見たら元気になったわ。何がいいかしら。尚くんが好きな……」
母は玄関まで出て尚を出迎えて、にこにこと相好を崩しながら居間に迎え入れる。自ら台所に茶葉を取りに行こうとする。
「親父に怒られますよ。だめです。座ってください。お茶は使用人に淹れさせます」
尚がはっきりと断ると、母はしゅんとして大人しくソファーに座った。こういうところが、いつまでも少女のようだと思う。
この家は父が母の静養のために建てた家で、母が何不自由なく暮らせるように家具の一つ一つまで注文をつけた代物だ。母が今座っているソファーだって、それだけで車が買える特注品だと聞いている。選別された使用人だって控えているのだから、母が身動きする必要すらないはずなのだ。
「お加減はいかがですか。……親父は病院の隣に家を買ったそうですが」
尚が使用人に手土産を渡すと、使用人が二人の前に給仕する。母は、かわいいスフレね、とはしゃいだ声を上げた。
「母さん」
「き、聞いてるわ。怒らないで。うれしかったの」
尚がため息をつくと、母はそろそろと答える。まるで親子が逆転しているようなやり取りはいつものことで、尚は気を取り直して言葉を重ねる。
「医者もそうした方がいいと言ったそうですね。俺からも病院の側に移るのをお勧めします」
「うん……」
「何か気がかりなことが?」
母が気乗りしないように見えたので、尚は不思議そうに聞き返す。すると母は困ったように言った。
「司さまを一人にしたくないの。いつもおかえりなさいって言ってあげたいの。尚くんが独立した今、それくらいしか私にできることはないから」
母は結婚してもう長い父のことを、未だに「司さま」と呼ぶ。それくらい父を仰いでいるのに、今のようにまるで父が小さな子どもであるように心配している素振りもある。
夫婦のことは当人たちしか理解できないのかもしれないが、昔から父と母の関係は尚にとって理解しがたかった。
尚が子どもの頃、父は母との間に強く子どもを切望していた。不本意な子だった尚ではなく、父が心から望んだ母に、できるだけ早く子が授かるように手を尽くしていた。
……けれど子が授からなかったのは、母が毒に近いものを飲んででも拒絶していたのだと、後から聞いた。
尚の立場を危うくしないように、母は自分の体を盾にしてでも、尚を守ってくれたのだ。
その感情の正体は知らないが、母が尚を愛してくれているのは、今まで一切疑ったことがなかった。
尚が熱を出したときの母の心配そうなまなざし、泣いたときに包んでくれたぬくもり、成長した今でも鮮明に思い出せる。
尚は目を伏せて、母に内心の憂いを気づかれないように言った。
「家で迎えてくれなくてもいい。……ただ、元気でいてほしいと。親父はそう言ったんじゃないですか?」
父も母が体を壊すことを恐れて、いつからか子のことを持ち掛けなくなったようだった。
母は考え込むと、やがて苦く笑って、そうね、とうなずく。
「病院の側に移るわ。尚くんも、心配させてごめんなさい」
「よかった」
「ああ、そうだわ」
母はふいに夢見るような目で微笑んで言う。
「それより、来月ね。……尚くんの結婚式、楽しみだわ」
尚は笑い返して、小さな不安を抱く。
母は尚を育てることを生きがいのようにして、たびたび寝込みながらも自分を叱咤して立て直してきた。尚が完全に自分の手を離れると……母はその体まで、弱ってしまわないだろうか。
「……希乃」
そのとき、戸口から呼び声が届いた。
いつ見ても、壮年に至ってなお隙なく彫像のように整った男だと思う。それだけ父は息子の目から見ても完璧で、仕事上では尊敬できる上司だった。
ただ父は尚に一瞥をくれただけで、まっすぐに母の元に歩み寄る。
「寝てないとだめだろう? 薬は飲んだか? 肩が冷えてる。こんな薄着で」
父は未だに母のこととなるとすべてが視界から消えてしまって、まるで小さな子どもの面倒を見るように母を構ってしまう。
母は父の姿をみとめると、子どもが母親をみつけたように屈託なく笑って言う。
「司さま、おかえりなさい。あのね、尚くんがスフレを買ってきてくれたの。司さまも一緒に食べましょう?」
「後で食べる。おまえは寝てるんだ。また熱を出したら……」
食べると一応言ってくれた辺り、無視に近い昔よりはずいぶん温厚になったな。そう思う余裕ができるくらいには、尚も大人になった。
だけど次の母の言葉には、尚も肝が冷えた。
「だめ。尚くんと仲良くして。……私がいなくなったら、尚くんと二人よ?」
それは家を去って引っ越すという意味なのに……一瞬、母が亡くなる想像をしてしまった。
息を呑んだ尚とは違って、父は当たり前のことのように言った。
「おまえが行くところどこにでも、俺はついていくさ」
……もしかしたら、と尚は思ったのだ。
「新しい家には俺も引っ越す。希乃を一人にするわけないだろう」
もし母が亡くなるようなことがあれば、父は……と恐ろしい想像をした尚を、誰が責められただろう。
「希乃、またお気に入りの家具をいっぱい入れてやろうな」
「ふふ、家から持って行くもので十分よ」
父はもう甘やかすように笑っていて、母もそれに柔らかく言い返していた。
父は死ぬまで母を離さず……死んでも離さないだろう。その想像に恐ろしさより、二人の情愛の深さを思ってしまう自分は、それでもこの家族を愛している。
「さ、ベッドでお休み。希乃……」
きっとその言葉は母が幼い日からかけられていて、子どもでなくなった今も日常に染みわたっているのだろう。
母を抱き上げて寝室に連れて行く父の背中は、どこまでも満ち足りていた。


