橘若頭と怖がり姫

 司の目は真っ先に希乃を見て、視界に収めるように眞と子どもをちらりと眺めた。
「生きていたか。跡取りの座を狙う誰かの仕業だと思っていたが、親父の策略だったとはな」
 司は無表情のまま淡々と言って、興味がなさそうに付け加える。
「「それ」を跡取りにしたければ、どうぞ好きなように。配下も資産も十分にある。……組ごと、すぐに俺が飲み込んでやるさ」
「俺も組長の地位に固執するつもりはない。今すぐお前に組を譲ってもいい」
 眞はそう言い返して、ただわずかな情を含めて司を見返した。
「だから頼む。この子の命は助けてやってくれないか。お前と同じ血が流れる子どもなんだ……お前は父親で」
「俺に家族はいない」
 司は感慨のこもらない声で断定して、すっと手を上げる。
 眞に拳銃の先を向ける。二人の間には数メートルもなく、何も遮るものもなかった。
「父も母も子もいない。どこかの勘違い女の中に吐き出したものが「それ」なだけだ。俺はそれに何の感情も持ち合わせていない」
「司……」
「それより、希乃だ」
 司は先ほどから希乃に目を合わせたまま逸らさなかった。包丁を持ったまま青い顔で細く呼吸を重ねている希乃を案じるように、ここにきて初めて声を和らげて話しかける。
「希乃、おまえの腕では俺にかすり傷も負わせられないよ。……どうした、怒っているのか? 狂うくらい愛してやると言っておきながら、おまえを残して仕事になど行ったから。……ごめん、悪かった。もっといつも側にいるから。べたべたに構って、不安になんてさせないから。だからその手に持ったものをこちらによこせ、な? いい子だから、希乃……」
 一歩近づこうとした司に、希乃はごくんと息を呑んだ。
 震える手で包丁を……自分の首に挟んで、声を絞り出す。
「……私と約束して。そうでないなら、死にます」
 言葉を話したのは一か月ぶりだった。喉から出たのはあまりに頼りなく、今にも消え失せそうな細い声だった。
 けれど司に効果はあったようだった。司は一瞬身をひきつらせて、眉を寄せる。
「約束?」
「私にこの子を……司さまの子を、育てさせて」
 司は心外というように、軽く首を横に振って言う。
「だめだ。おまえの体はこれからいつも俺に愛されて、俺の子をたくさん産むためのものだ。おまえの子だ、どの子も天使みたいにかわいいだろうな。……でもな、育てるのは使用人に任せておけ。おまえはただ俺に愛されていればいい」
 司はその未来に酔ったようにまた一歩前に踏み出す。
 そのとき、希乃は軽く包丁を引いた。そこから玉のような血があふれて、ぽたぽたっと希乃の手を濡らす。
「希乃! やめろ、何をしてる!」
「……約束してって言った!」
 思わず叫んだ司に、希乃は絞り出すように言う。
「司さまの子を育てさせてって言った! ……聞いてくれないなら、今度はもっと深く切る!」
 司はびくりと体を震わせて、なだめるように言葉を続ける。
「落ち着け、希乃。どうしてそんなことを言うんだ。それはおまえには何の関係もない……」
「……「それ」じゃない。まっさらな、赤ちゃんなの。私と一緒で、誰にも望まれなかったけど……一生懸命暗い道を通って、生まれてきたの」
 司は理解できないとばかりに首を横に振った。希乃は確かな意思を持った声で続ける。
「わかってくれなくてもいい。だけど私は、愛してあげたい。司さまに、家族を……作ってあげたい」
 何もできない自分は、父とその妻のいる世界に行くくらいしか罪を償う方法がないと思っていた。
 でも司に何か返すことができるなら、その罪を背負ったまま生き続けてもいい。彼に家族を作って、彼を一生、家族ごと愛していられたなら……自分が生まれた価値もあった気がした。
「叶わないなら、死んでも、いいの……」
「希乃!」
 ぐっと手に力をこめた希乃に、司は彼らしくもなく声を震わせた。
「やめろ……血が、希乃、やめてくれ……頼む」
 希乃は微笑んで、もう一度包丁を引いた。
 その瞬間、司は拳銃を投げ捨てて希乃に手を差し伸べた。希乃から包丁を取り上げたが、そのときには希乃の首からはだらだらと血が流れていた。
「約束する……! その子を育てていい! 他にもなんでも与えてやる! 全部おまえの望むとおりにする……だから、だから死ぬな! 希乃!」
 司は希乃の傷口にシャツを押し付けて必死に止血する。側近が医師を呼びに走る。けれど希乃の意識は薄れていって、呼吸は浅くなっていく。
「つかささま……」
「しゃべるな、希乃! 医者はまだか! くそ、血が止まらないのはなんでだ……!」
 希乃は弱弱しく司を見上げながら、小さく言う。
「私、ずいぶん言ってなかった。……つかささま、好き。私の、ぜんぶ……」
 自由を奪われた日々も、体を蹂躙された悲しさも、司のものでいられるなら、本当はそれでよかったのだ。
 ……八歳のときからずっと、自分を包むこの身勝手な人が、好きでたまらなかったのだから。
 好き……と、誓いのような、呪いのような言葉を最後に告げて、意識は途切れた。
 それが永遠の別れになったとしても構わないと思えるほど、彼の腕の中はやっぱり心地よかった。