橘若頭と怖がり姫

 希乃は八歳で母と離れ離れになって、どこに母がいるのかも知らないまま過ごしてきた。
 子どもの頃は屋敷の離れにいると聞いていたけれど、眞は時々母を連れ出しているようで、いつしか離れにいないようにも感じていた。体の弱い人だったから、もしかしたら……もう亡くなっているのかもしれないとさえ悲観していた。
「きのちゃんね? すてきなおねえさんになったのねぇ」
 でも今目の前に、母は記憶の中の母のまま存在している。
 確かに年齢は重ねている。それにガリガリにやせ細っていた昔に比べれば正常な体つきになって、青かった顔色もほのかに朱が差している。
 ……母が笑っている。そのことに胸が震えて、同時に足から力が抜けた。
「きのちゃん?」
 希乃の足首には司に貼られたシールが残っていて、立つことができなかった。眞がそれに気づいて、希乃の足元に屈みこむ。
「筋肉の動きを阻害する拘束器具だ。長く使うと足が麻痺するぞ。こんなものを使われていたか……」
 眞は部屋の外に控えていた側近に言って、アルコールらしい瓶とガーゼを持ってこさせた。眞はそれを受け取ると、手ずからガーゼにアルコールを染みこませて希乃の足首を擦る。
「……きのちゃん」
 まもなくシールは剥がれて、希乃の足は自由に動くようになった。けれど立ち上がれなかったのは、母が希乃を抱きしめて一緒にうずくまったからだった。
「きのちゃん、げんきない。あおいかお、かわいそう。よしよし……だいじょうぶだよ」
 懐かしい匂いとぬくもりが希乃を包み込んで、その優しさに泣きそうになった。子どもの頃も、よく母は細い体で希乃を抱きしめて、こうして背中をさすってくれたのだ。
「いい子、いい子……ね? のばらがいっしょだよ。こわくないよ……」
 母の精神は幼く、希乃を自分の産んだ子だと理解できていない。けれど希乃のことを「年少のおともだち」だと思っていて、自分が庇ってやらないといけない、弱いこどもだと思っていた。そしてそれを、今も覚えているようだった。
 ……それで、十分だった。知性が足りなくても、母だけが希乃の母だ。世間の母親のように、自分を育て、養ってくれなくてもいい。そのまなざしもぬくもりも、そっと希乃に寄り添って……愛してくれていると、わかっていたから。
 希乃から離れようとしない母を見て、眞がそっと声をかける。
「のばら、ごめんな。希乃とお話ししたいことがあるんだ。少しお部屋で遊んできてくれないか?」
 眞が母にかけた声、それは子ども扱いではあったが労わりと優しさが満ちていて、希乃はほっと安堵した。希乃の父は欲望ばかりを母に向けて、決して二人の間に温かい空気はなかったのだから。
「うん、いいよ。……まことさん、やさしいの。きのちゃん、いじめないもの」
 それに応じた母にも眞への信頼が見えて、希乃はちくんと胸が痛んだ。母はとっくに眞と一緒に暮らす日々に馴染んでいて、もう自分が助ける必要はないのだとわかった。
 母のことがずっと気がかりだったけれど、眞のところにいれば母は大丈夫だ。それならもう……自分は父のいる世界に行ってもいいのではと思った。
 お金を稼ぐこともできないなら、自分にできることは何もない。あとは父とその妻を殺した対価をこの命で払う。それが胸にある希乃の最後の望みだ。
 今まで愛情を注いでくれた司に、何も返せないのが心残りではあるけれど……。そう思っていたとき、隣室で子どもの泣き声が聞こえた。
「ああ、おなかがすいたのね。よしよし……」
 慌てて母がぱたぱたとそちらに足を向ける。元気いっぱいの泣き声に希乃は顔を上げて、まじまじと眞を見ていた。
 眞はどこか慈しむような目で隣室を見やって、希乃に目を戻す。
「……そのことも話しておかないとな。一緒においで、希乃」
 眞は希乃を連れて隣室に入る。
 そこにはベビーベッドが置かれていて、母がお包みごと何かをあやしていた。入ってきた眞と希乃に気づくと、母は体の向きを変えてそれを見せてくれる。
「……っ!」
 それは生まれてまもない赤ちゃんだった。生えそろっていない柔らかい髪と、泣いたばかりの澄んだ目が、まだこの世界のものとは思えないほど繊細だった。
 でも希乃がその子を見て衝撃を受けたのは、その顔立ちが……希乃の知るたった一人の人と、そっくりだったから。
 眞は神妙にうなずいて、希乃にその答えを告げる。
「司の子だ。……だが母親はもう亡くなった」
 希乃がなぜという目を向けると、眞は母に聞こえないように小声でつぶやく。
「母親は、希乃に毒を盛ったそうだ。そのことで司に怒りを買って、薬物に漬けられた。俺にはこの子を助け出すので精いっぱいだった」
 眞は声をひそめたまま続ける。
「この子も司にみつかったら命はない。若頭としての立場を危うくするからだ。俺は司を跡取りから追いやるつもりはないが……今さらそれを言っても、司に信じてはもらえないだろう」
 自嘲気味に眞がそう言ったのを、希乃は目を見開いて聞いていた。
 希乃は司の子だという赤ちゃんを目の前にして、世界が塗り替わるような衝撃を感じていた。今まで考えたこともない可能性、それがその子から光のようにあふれて見えた。
 もしかしたら、できるだろうか。……自分にも司のために、できることがあるだろうか。
 そう思って、ただ立ちすくんでいたときだった。
「……眞様! 申し訳ありません! ……司様の手勢に屋敷が取り囲まれています!」
 突然、ふすまを開け放って側近が駆け込む。眞がさっと顔色を変えて振り返った。
「希乃だけでも逃がす。抜け穴は?」
「いいえ……もう……!」
 側近が無念そうに首を横に振る。眞は低くうなって、眉を寄せた。
「希乃?」
 そのとき、希乃はそっと眞の袖を引いた。屋敷の奥を指さして、母だけはこの場から外してほしい、と身振りで伝える。
 できるかどうかわからない。けれどやらなければいけなかった。自分と司の子どもと……彼自身のために、希乃は戦うつもりだった。
 バンッと玄関が外から破られたとき、希乃は眞と、司の子と共に居間に留まっていた。慌ただしく屋敷が踏み荒らされる音が聞こえて、震えが止まらなかった。
 眞の側近たちが制圧されていく中、奇妙に静かな足音が近づいて来る。
 やがてしんと静まり返った屋敷で、ふすまが滑るように開く。
「……何のつもりだ、希乃」
 司が無表情を向けた先。……希乃は包丁を手に、そこに立っていた。