希乃は司のことをにいさまと呼んでいた頃はあるが、眞をとうさまと呼んだことは一度もない。
極道の長たる眞が怖かったからでもあるし、司が希乃の世界のすべてだったからでもある。それに眞と司の間にあるのは父子の情愛とは程遠く、同じ家に住んでいながらビジネス上のような淡白な関係だった。
「助けるのが遅くなってすまなかったな。司の監視を振り切るのに手間がかかってしまった」
ただ眞が希乃に冷たいかというと決してそうではなく、顔を合わせたときには短くとも声をかけてくれるし、幼い日には身の回りの品をそろえてくれたりもした。希乃が成長するにつれて司が眞の手出しを嫌って、希乃に与えるものはすべて司が用意するようになっただけだ。
眞は希乃を自ら抱えて車に乗せると、三十分ほどのところにある家に連れて行った。
眞は若い頃、何人もの愛人を外に囲っていた時代がある。そのうちの一つなのだろうが、希乃は不思議とそこにそういう陰の空気を感じなかった。
そこは本邸や彼の資産を考えれば小さすぎるところで、懐かしいようなサザンカの垣根の広がる素朴な屋敷だった。玄関を上がると柱に背丈をはかった跡が刻まれていたり、ふすまの穴を桜の形の紙で補強していたり、生活の息遣いが見えた。
……小さな子どもが住んでいるのだろうか。まだ眞の腕に抱かれたまま希乃がぼんやりとそう思っていると、眞は希乃をリビングのソファーに下ろしてくれた。
眞は希乃の額に触れて、短く問う。
「熱は……体は痛くないか。医者を呼ぶか?」
希乃は声が出ない以上に心が折れていて、泣き叫んで誰かに助けを求める力が失われていた。希乃が弱く首を横に振ると、眞はかすかに目を伏せてつぶやいた。
「子どもに何てことをしたんだ、司」
表情のほとんど変わらない人で、組織の中では冷徹な面もあるが、眞は屋敷にやって来た頃から希乃には同情的だった。希乃が本当に幼いときは、自分の子どものように育てようとした素振りさえあった。
「……俺が言えたことじゃないか」
眞は一瞬目に宿した痛みを自嘲気味に消すと、隣室から服を持ってきてくれた。離れているからそれを着ろと言われて、部屋を出て行く。
渡されたのは淡いピンクのスウェットの上下で、小学生くらいの体格の希乃にも合っていた。やっぱりこの家には子どもがいるのだと思いながら着替え終わると、隣室から眞が戻って来る。
「ここでよく養生するように……と言いたいが、司に場所が割れるのは時間の問題だろう。情報戦であいつに勝つのは難しい」
希乃がうつろな目のままうなずくと、眞はソファーに掛けて言う。
「だが俺でも、おまえを司の手が届かないくらい遠くに逃がしてやることはできる。ただ決断する前に……おまえの意思が訊きたい」
……私の意思。希乃が眞を見上げると、彼は静かな目で話し始める。
「聞いてほしい。司がまだおまえと同じ、十八歳だった頃の話だ」
眞は淡々と過去を振り返る。
「俺は女遊びばかりして、生まれてきた子どもたちにも無関心だった。その中で司を後継者として引き取ったのは、ただ一番優秀だったからだった。……司は確かに優秀だ。勉学や身体能力だけじゃない。人を思い通りに動かせたし、人よりよほど簡単に金も動かしてみせた。……だからあの子が致命的に欠落しているものに気づけなかった」
あの子と司を呼んだ時、眞の声にまぎれもない哀しみが宿った。それを隠す素振りもなく、眞は言葉を続ける。
「司が十八歳のとき、おまえの母……のばらが屋敷にやってきた。おまえも覚えているだろう。俺はすぐにのばらに心を寄せるようになって、のばらとの平凡な生活に憧れるようになった。そのとき何気なく司に訊いたんだ。「俺がのばらと結婚して、希乃とおまえの四人で暮らさないか?」と」
眞はごくりと息を呑んで、目を歪めて告げる。
「あのときのあの子の顔が忘れられない。まるで能面のような無表情。あの子は何の感情もこもらない声で言ったんだ。……「いつ俺が親父の家族になった」と」
眞は一度言葉を切って、喉から苦しさをこぼすように言う。
「……手遅れだったのだと思った。俺はあの子に家族のぬくもりを教えてやれなかった。あの子は与え与えられる関係を知らない。愛されるということも理解できない」
そこで眞は哀しみと共に希乃をみつめて告げる。
「希乃。あの子にとっておまえはどれだけ魅力に映っただろうな。全部を司に明け渡すと言ったおまえは、司が世界の中心で、唯一。誰も奪えない司だけのもの。司がいないと死んでしまう弱い生き物。司は……そういう存在が、ずっと欲しかったに違いないんだ」
希乃もこくんと息を呑む。それが眞の言葉の肯定になった。
「だから、おまえをめいっぱい愛した。やり方はめちゃくちゃで、おまえの意思など無視していただろう。……すまない、希乃。おまえはそれでどれだけ苦しんだか。だがあの子はそういう一方通行の愛しか知らないんだ」
眞はうなだれるように目を伏せてつぶやく。
「許してくれなど、言わない。そばにいてやってくれとも頼めない。それでもあの子がおまえを愛しているのは、わかってやってくれ……」
そのとき、ふすまの向こうで子どもの足音が近づいて来た。希乃は不思議と懐かしいような思いになって、そちらの方に顔を向ける。
「まことさん、ばぁ! びっくりした?」
ころころとした笑い声と共に顔を覗かせたのは、壮年の女性だった。けれど表情が小さな子どものようにあどけなくて、屈託ない。
「うん?」
希乃は彼女を見上げたまま、急速に記憶が蘇るのを感じた。……私はこの人を知っている。その直感で、ソファーから立ち上がる。
「……きのちゃん?」
きょとんとした目で希乃を呼んだ、その人。……遠い昔に離れ離れになった母が、そこにいたのだった。
極道の長たる眞が怖かったからでもあるし、司が希乃の世界のすべてだったからでもある。それに眞と司の間にあるのは父子の情愛とは程遠く、同じ家に住んでいながらビジネス上のような淡白な関係だった。
「助けるのが遅くなってすまなかったな。司の監視を振り切るのに手間がかかってしまった」
ただ眞が希乃に冷たいかというと決してそうではなく、顔を合わせたときには短くとも声をかけてくれるし、幼い日には身の回りの品をそろえてくれたりもした。希乃が成長するにつれて司が眞の手出しを嫌って、希乃に与えるものはすべて司が用意するようになっただけだ。
眞は希乃を自ら抱えて車に乗せると、三十分ほどのところにある家に連れて行った。
眞は若い頃、何人もの愛人を外に囲っていた時代がある。そのうちの一つなのだろうが、希乃は不思議とそこにそういう陰の空気を感じなかった。
そこは本邸や彼の資産を考えれば小さすぎるところで、懐かしいようなサザンカの垣根の広がる素朴な屋敷だった。玄関を上がると柱に背丈をはかった跡が刻まれていたり、ふすまの穴を桜の形の紙で補強していたり、生活の息遣いが見えた。
……小さな子どもが住んでいるのだろうか。まだ眞の腕に抱かれたまま希乃がぼんやりとそう思っていると、眞は希乃をリビングのソファーに下ろしてくれた。
眞は希乃の額に触れて、短く問う。
「熱は……体は痛くないか。医者を呼ぶか?」
希乃は声が出ない以上に心が折れていて、泣き叫んで誰かに助けを求める力が失われていた。希乃が弱く首を横に振ると、眞はかすかに目を伏せてつぶやいた。
「子どもに何てことをしたんだ、司」
表情のほとんど変わらない人で、組織の中では冷徹な面もあるが、眞は屋敷にやって来た頃から希乃には同情的だった。希乃が本当に幼いときは、自分の子どものように育てようとした素振りさえあった。
「……俺が言えたことじゃないか」
眞は一瞬目に宿した痛みを自嘲気味に消すと、隣室から服を持ってきてくれた。離れているからそれを着ろと言われて、部屋を出て行く。
渡されたのは淡いピンクのスウェットの上下で、小学生くらいの体格の希乃にも合っていた。やっぱりこの家には子どもがいるのだと思いながら着替え終わると、隣室から眞が戻って来る。
「ここでよく養生するように……と言いたいが、司に場所が割れるのは時間の問題だろう。情報戦であいつに勝つのは難しい」
希乃がうつろな目のままうなずくと、眞はソファーに掛けて言う。
「だが俺でも、おまえを司の手が届かないくらい遠くに逃がしてやることはできる。ただ決断する前に……おまえの意思が訊きたい」
……私の意思。希乃が眞を見上げると、彼は静かな目で話し始める。
「聞いてほしい。司がまだおまえと同じ、十八歳だった頃の話だ」
眞は淡々と過去を振り返る。
「俺は女遊びばかりして、生まれてきた子どもたちにも無関心だった。その中で司を後継者として引き取ったのは、ただ一番優秀だったからだった。……司は確かに優秀だ。勉学や身体能力だけじゃない。人を思い通りに動かせたし、人よりよほど簡単に金も動かしてみせた。……だからあの子が致命的に欠落しているものに気づけなかった」
あの子と司を呼んだ時、眞の声にまぎれもない哀しみが宿った。それを隠す素振りもなく、眞は言葉を続ける。
「司が十八歳のとき、おまえの母……のばらが屋敷にやってきた。おまえも覚えているだろう。俺はすぐにのばらに心を寄せるようになって、のばらとの平凡な生活に憧れるようになった。そのとき何気なく司に訊いたんだ。「俺がのばらと結婚して、希乃とおまえの四人で暮らさないか?」と」
眞はごくりと息を呑んで、目を歪めて告げる。
「あのときのあの子の顔が忘れられない。まるで能面のような無表情。あの子は何の感情もこもらない声で言ったんだ。……「いつ俺が親父の家族になった」と」
眞は一度言葉を切って、喉から苦しさをこぼすように言う。
「……手遅れだったのだと思った。俺はあの子に家族のぬくもりを教えてやれなかった。あの子は与え与えられる関係を知らない。愛されるということも理解できない」
そこで眞は哀しみと共に希乃をみつめて告げる。
「希乃。あの子にとっておまえはどれだけ魅力に映っただろうな。全部を司に明け渡すと言ったおまえは、司が世界の中心で、唯一。誰も奪えない司だけのもの。司がいないと死んでしまう弱い生き物。司は……そういう存在が、ずっと欲しかったに違いないんだ」
希乃もこくんと息を呑む。それが眞の言葉の肯定になった。
「だから、おまえをめいっぱい愛した。やり方はめちゃくちゃで、おまえの意思など無視していただろう。……すまない、希乃。おまえはそれでどれだけ苦しんだか。だがあの子はそういう一方通行の愛しか知らないんだ」
眞はうなだれるように目を伏せてつぶやく。
「許してくれなど、言わない。そばにいてやってくれとも頼めない。それでもあの子がおまえを愛しているのは、わかってやってくれ……」
そのとき、ふすまの向こうで子どもの足音が近づいて来た。希乃は不思議と懐かしいような思いになって、そちらの方に顔を向ける。
「まことさん、ばぁ! びっくりした?」
ころころとした笑い声と共に顔を覗かせたのは、壮年の女性だった。けれど表情が小さな子どものようにあどけなくて、屈託ない。
「うん?」
希乃は彼女を見上げたまま、急速に記憶が蘇るのを感じた。……私はこの人を知っている。その直感で、ソファーから立ち上がる。
「……きのちゃん?」
きょとんとした目で希乃を呼んだ、その人。……遠い昔に離れ離れになった母が、そこにいたのだった。


