橘若頭と怖がり姫

 ああ、水槽の中に入れられちゃったのだ。希乃は司の部屋で迎えた何度目かの目覚めのときに思った。
 そこは水も食べ物も、服も広々としたベッドもある。空調はいつも快適な温度で、窓の外には秋の花々が咲き、たくさんの本だってお絵描きの道具だって与えられている。もちろん、シャワールームやトイレまでついている。
 でも部屋の外に出る方法だけがない。
 絆創膏のように張られた小さな足首のシール。たったそれだけのものなのに、部屋を出ようとすると足が立たなくなってしまう。
――痛いのも重いのもかわいそうだからな。小さくて、おもちゃみたいな足かせにしてやろうな。
 司はそう言ったが、希乃はシールを見るたび気落ちした。確かに痛くも重くもないが、決して剥がせないのだ。まるでチップを埋め込まれたペットのようで、希乃は真綿で包むように管理されていた。
 そこが水槽の中だと思う理由はもう一つある。ここには鳥籠のような隙間がどこにもない。司が注ぐ全部を……彼が愛情だと言う行為まですべて、希乃は水を浴びるように受け入れるしかない。
「希乃、すっかり俺の匂いが染みついたな。いっぱい注いでやった甲斐があった」
 ベッドに横たわったままぼんやりと天井を見ていた希乃に、司は首筋に鼻を寄せて笑う。
「ああ、汗は希乃の匂いのままだ。まだ青い果物の蜜みたいな匂い。かじるとたまらなく甘い。……かじっていいか」
 希乃の答えを待たずに、司は希乃の足を折り曲げてその指先を口に含んだ。足指を舌と歯で遊ばれて、希乃はくすぐったいのと恥ずかしいので身じろぎする。
 その間も司の手は希乃の肌を滑り、時に柔く弾く。希乃の体で、司に触れられていないところはもうどこにもないくらいだけれど……明るい陽射しの中でそうされるのは、なんだか悪いことをしている気持ちになる。
「毎日こうしてやってるのに、まだ恥ずかしいのか? ……かわいいのな。こらえてるようで、目はとろけてる」
 希乃の体は司によってあまりにも慣らされてしまった。あっけなく追い上げられててしまって、一瞬息が詰まったかと思うと、体が弛緩する。
 司はそんな希乃を上から覗き込んで、目を細めながら言う。
「なぁ、希乃? もうおまえのしたことを少しも怒ってないよ。お前と毎日こうしていられて、夢みたいにうれしい。これから何を与えてやろうか、そればかり考えてる。何がいいかな……一緒にバージンロードを歩くか?」
 司は希乃の腹部に手を置いて、愛おしそうにそこを撫でる。
「その前に子どもがいいか? ……もうできてるかもしれんな。おまえに触れるとこんなにも心地いいんだ。じきに命も授かるさ」
 希乃が答えないままでいると、部屋の外からノックの音が聞こえた。仕事に出る時間だと、側近が呼びに来たのだろう。
 司は舌打ちをしたが、渋々身を起こして着替えに手を伸ばす。隙なくスーツを身に着けると、身を屈めてうつろな目で虚空を眺めている希乃の頭に触れる。
「希乃。愛しているよ。おまえがいれば何も要らない」
 司は身を屈めて希乃に深く口づける。長く長く、丹念に味わうように時間をかける。
「……帰ったら続きをしような」
 またノックの音が聞こえたとき、司は最後に希乃の口の端を吸って、やっと顔を離した。
 部屋に残った希乃は、ベッドに体を沈めたまま沈黙していた。
――いいさ。しゃべらなくたって、希乃なんだから。
 希乃は、まだ言葉を取り戻していない。けれど司はそれを気にする素振りはなく、今まで通り希乃に話しかけて、膝の上で食事を摂らせ、一緒に風呂にも入る。
 変わったのは、男女の……行為が加わったことなのだが、司はそれに何も抵抗がないらしい。子ども扱いしていた希乃を抱くのは、司にとって罪悪感も背徳感もないようだった。
「……あぁ、う……っ」
 でも、希乃にとっては違う。
 司が仕事に行った後、決まってバスルームにこもって一人で泣く。体ばかりが司を求めてうずく一方で、体に残った司の残滓を一生懸命取り除く。
「え……っく、えぐ、ぐす……っ」
 だって、怖かった。毎日のように体の奥深くに入られて、とめどなく欲を吐き出される。……その結果、どんな恐ろしい事態が起きるかわからない。
 宝坂や藍紀が心配したとおり、希乃の心はまだ子どもだった。自分が母親になる想像などまるでつかず、怖がって怖がって……化け物が腹を破って出て来る悪夢さえ見ていた。
 だからなのか、希乃はここに来て何度か熱を出していた。司が仕事に行った後、冷たい水ばかり被っているのが体に障ったのに違いないが、幸か不幸か、まだ誰にも気づかれていなかった。
 誰にも助けを呼べず、子どものように怯えて泣いていた。そんないつもの希乃の朝のことだった。
「……希乃、いるか?」
 司が仕事に出た後は、昼に側近が食事を差し入れるだけで、誰もやって来ることはなかった。それなのに扉を開けて、誰かが希乃を呼んだ。
 側近は扉を開け放つことはなく、内扉にそっと食事を入れるだけだ。司が帰って来るまで、緊急事態でもない限り側近でも中に入って来るのは許されていなかった。
 バスルームにいた希乃は、その異変にまだ気づいていなかった。冷たい床にうずくまって、体を赤くなるまでこすっていた。
 カチャ……とバスルームが開いたとき、初めて希乃は顔を上げた。
 逆光で、一瞬その人の顔が見えなかった。次第に目が慣れてきて、希乃は大きく目を見開く。
 鋼のような印象の男の人だった。大柄で手足にしっかりと筋肉がついていて、五十代という年齢を感じさせない頑健な人だった。
 ……でもその面差しも、雰囲気も、司と生き写しなのは、誰よりも血が近いからだろうか。
 彼は床にうずくまる希乃の前で屈んで、希乃にバスタオルをかけてやる。
「怖かったな。……もう大丈夫だ、希乃」
 司の父……(まこと)はそう言って、バスタオルごと希乃を抱き上げた。