橘若頭と怖がり姫

 命の対価は命でしか払えないというのが、希乃の幼くて純粋な思考が出した答えだった。
 父とその妻を殺めたことを、今も後悔していない。司に感謝もしている。でもその罰は受けるべきで、自分に何ができるかを考えた。
 ……でも何も、できることがなかった。
 体が弱く、高校も卒業できなかった希乃には、稼ぐ手立ても財産もなかった。あったとしても父とその妻は二度と戻ってはこない。希乃は無力だった。
 それならこの世を去るのを自然と考えたが、その前に司のことが思い浮かんだ。
 司にもらった、慈愛と労わりと無数の贈り物は、本当にうれしかった。何かの価値があるわけでない自分を、かわいい、愛おしいと何度も言って、触れて、慈しんでくれた。
 司に何か返したい。何でも持っている彼に自分が返せるものなど程度が知れている。でもたとえば誰にとっても価値があるものなら、少しは喜んでもらえるのではと思った。
 それで彼が今まで自分にくれた数字の形。お金を返すことを思った。
 海の近くに大きな繁華街があるのは知っていた。一度も一人で出歩いたことはなかったが、西へ行けば行くほど風俗街に入って行くとも聞いていた。
――ここから西の門は入ったらだめだからな。
 月のない夜、希乃は司にそう言われていた西門の下をくぐった。
 途端、左右を毒々しいネオンサインが囲む。ずっと寝込んでいた体は重く、煙草の匂いだけで咳が止まらなくなりそうだった。
 でも体が壊れるのは、もうどうでもよかった。ずっと思うままにならない体を抱えてきた。それが最後に金銭に変わるなら、満足だった。
 西の繁華街は放射線状ではなく、まがりくねった路地が迷路のように走っていた。すえた匂いと、どこか異界じみた暗さが立ち込める。
 歩きながら、子どもの姿をたびたびみつけた。中学生くらいの女の子たちが、明らかに中年の男に手を引かれてどこかに消える。希乃が彼女らの消えた先を目で追うと、バーのような入口がいくつか並んでいた。
 どうやらそういうところに客を連れ込んで、お金をもらうらしい。それをぼんやりと理解して、自分も小学生くらいに見えるからできるだろうかと思う。
 ……行こう。奇妙に波のない心でバーのような入口をくぐると、そこは確かに風俗店だった。中学生くらいの胸やヒップを露わにした少女たちが、お酒を飲みながら男性客にべったりとくっついていた。
 奥のトイレは扉がついておらず、便器に座った男の上に女の子がまたがって腰を揺らしていて……そこから先は、希乃には見るに堪えなかった。
「何の用?」
 希乃が蒼白になりながら入口で立っていると、カウンターにいる金髪のバーテンダーの男が声をかける。
 ……働いてお金を稼ぐと決めたの。希乃はそう思い直して、ここに来た目的を果たそうとする。
 希乃が喉をおさえて首を横に振ると、男はいぶかしげに問う。
「しゃべれない?」
 希乃はうなずいて、それで自分と、お店を交互に指す。
「ここで、働きたい?」
 男はそう言って、希乃はそれにもうなずく。
「ずいぶん育ちが良さそうな子なのになぁ」
 男は鼻で笑って、にやにやと笑いながらからかうように言う。
「ここは乳首なめられたり、お尻に指突っ込まれたり、大事な毛むしられたりするの。お嬢ちゃんにできんの?」
 希乃は生理的な汗がにじんで震えた。そんなこと、今まで生きていた人生で考えたこともなかった。司は希乃に触れることはあっても、それは看病と慈しみ以外ではなかったから。
 でもここではそういう行為が常識なのだ。ためらっていてはいけないと……こくりとうなずく。
 そうしたら男は機嫌がよくなって、獲物を狙う目で言った。
「……じゃあ脱いで。俺が今言ったこと全部やってみるから」
 男は希乃が抵抗できない立場だと見抜いたようだった。弱者の空気をまとう希乃を味わってやろうとする、捕食者の顔をしていた。
 希乃はおずおずと男の元に歩み寄ると、震える手でブラウスのボタンを外し始める。
 手はかじかんでもいないのに、なかなかボタンが外せなかった。希乃に焦れたのか、男が短く命じる。
「スカートも。下着も脱げ」
 希乃はスカートのホックも取ったが、ぱさりとスカートが落ちて白い下着が人目にさらされたのがあまりに恥ずかしくて、その場に立ちすくむ。
「もたもたすんな! そのまま穴に突っ込むぞ!」
 急にやくざの声音になって怒鳴った男に、希乃は涙を浮かべてひくっと体を引きつらせる。
 怖い、怖い怖い……! このままでは乱暴に女を散らされそうで、希乃は哀れな防衛本能で下着を下ろした、そのときだった。
「……はは、しょうがないよなぁ? 希乃はこの間まで、下着だって俺が替えてやってたもんな?」
 凄みのある笑い声が耳元で響いて、希乃の体が上着で包まれる。
 希乃の身動きを封じるように上着ごと肩に担がれて、そのなじみ深いぬくもりに一瞬安堵した自分がいた。
「お、おまえ……」
「脱ぎ方なんて知らないんだなぁ? いい、いい。これからも俺が世話してやる」
 そろそろと希乃が顔を動かすと、目だけが少しも笑っていない司の表情が見えた。
 希乃を肩に担いだまま、司は笑いながら男に歩み寄る。
 そのまま、男の胸倉をつかんで壁に叩きつけた。
「がっ!」
「……余分なことを希乃に吹き込みやがって。害虫が」
 鼻血を出した男の胸倉から手を離すと、司は背後に来ていた側近に言い捨てる。
「掃除しとけ。……希乃は確保した。帰る」
「は。お車の準備ができております」
 司は側近の言葉にうなずくと、後は興味を失ったように踵を返した。その肩の上で、希乃は力をなくしたようにうなだれる。
 お金、稼げなかった。その無力感で息をついた希乃は、司に目を向ける。
 地下世界の陰を頬に受けて、司は能面のような無表情をしていた。……彼が本気で怒っていると、希乃にもわかったのだった。