司は希乃を膝の上に抱いて、幼児にするように匙を口に運んでやっていた。
「希乃、熱が出て苦しかったな。でも大人しくちゃんと寝ていて、えらかったぞ」
希乃はおいしくて食べているという様子ではない。うつろな目のまま、条件反射のように匙を迎え入れて飲み込む。
「お前はいつもとてもいい子だ。俺の言うことをなんでも聞いて、もみじみたいな手で一生懸命袖をつかんで、後をついて来て。いつまでもあどけない、小さな子どもみたいで」
コップを口につけてやれば、抵抗せず薬も飲み込む。希乃は司に決して逆らわない。
「……だから苦しくなったのか? 言ってくれ、希乃。何が悲しい?」
ぽたぽたっと、希乃の目から涙が落ちて司の手を濡らす。
「俺はお前の全部を守れていないか? 何を与えてやれていない? ……希乃、本当はお前がわがままでも、悪い子でもいいんだ。どんな子でもよそになんてやらない。お前はうちの子なんだから」
司は手で希乃の涙を拭って、その顔をのぞきこむ。
「なぁ、希乃? ……どうして俺の方を見ない?」
希乃の目線は司と合うことなく、ただ涙でにじんで所在をなくしていた。
司がため息をついて腕を緩めると、希乃はするりと腕から抜け出して机に向かう。そのまま教科書を開いて、泣きながら勉強を始めた。
熱が下がってからというもの、希乃は勉強ばかりしている。涙を落としながらでは効率も悪く、たびたび体調を悪くして机に突っ伏す。けれど司が抱き上げて机から引き離さない限り、夜遅くまで机に向かい続けた。
司は使用人を呼んで、低く言伝る。
「決して無理をさせないように。熱が出たり、息が苦しそうだったら無理やりにでも机から離して寝かせろ。気になることがあったらすぐに俺を呼べ」
そう言って気がかりそうに希乃をみつめてから、司は応接室の方に向かった。
すでに日は暮れていて、辺りには落ちた陽の光が斜めに差し込んでいた。渡り廊下を通って司が応接室に入ると、そこで待っていた藍紀が顔を上げる。
「希乃は、変わりない。……よくないという意味だ」
藍紀も眉を寄せて息をつく。司はソファーに腰を下ろしながら切り出した。
「宝坂を呼び寄せるという話はどうなった」
「宝坂さん自身は往診したいと言ってくれましたが……あちらの若頭に妨害されました。妻をトラブルに巻き込むなと」
司は喉の奥でうなって言葉を返す。
「兄貴は過保護だからな。俺が宝坂に圧力をかけたのも快く思っていないんだろう。希乃を宝坂に診せるのはあきらめた方がいいだろうな」
「では……」
藍紀は声をひそめてその選択肢を告げる。
「……また希乃さんを「治療」しますか?」
「その前に、気になることがあるんだ」
司はあまり喜ばしいことではないように事実を告げる。
「希乃の子ども還りが止まったように思う。教科書の問題が、あらかた解けるようになった。子どもじみた遊びをしなくなって、何よりあまり日中に眠らなくなった」
「……それは」
藍紀が司の手前喜ぶかどうか迷うと、案の定司は声を落としたまま続ける。
「だが少しも笑わなくなった。泣いてばかりだ。なぜ勉強しているかも気になる。……希乃は、うちを出て行くつもりでいるんじゃないか」
藍紀が黙って先を促すと、司は怒りを抑えるように低く告げる。
「許さねぇ。俺から離れるなど、絶対に。希乃の全部は俺のものだ。誰にも渡しはしない……」
司はそう言いかけて、ふいに暗い微笑を浮かべた。
「……ああ、そうか。そうだったか」
「司さん?」
「誰にも渡さない方法があるじゃないか。希乃も子ども扱いは嫌がっていた。考えてみれば触れ合いはそういう意味でしかしたことがなかった。もっと直接的に、深く、愛情を教えてやる方法があったのに……」
藍紀はその歯車が狂いだすような言葉に不穏なものを感じて、慎重に言葉をかける。
「希乃さんの心は子どもです。大人の扱いというのが女性として、という意味であったら……まだ待った方がいいように思います」
「待つさ」
司はさらりと答えて、けれど瞳からその不穏な光は消さなかった。
「……俺から離れない限りはな」
藍紀の気がかりは、それからまもなくして現実となった。
秋の暮れ、人寂しいような夜の最中に、ふらりと希乃は屋敷の外に出たのだった。
「希乃、熱が出て苦しかったな。でも大人しくちゃんと寝ていて、えらかったぞ」
希乃はおいしくて食べているという様子ではない。うつろな目のまま、条件反射のように匙を迎え入れて飲み込む。
「お前はいつもとてもいい子だ。俺の言うことをなんでも聞いて、もみじみたいな手で一生懸命袖をつかんで、後をついて来て。いつまでもあどけない、小さな子どもみたいで」
コップを口につけてやれば、抵抗せず薬も飲み込む。希乃は司に決して逆らわない。
「……だから苦しくなったのか? 言ってくれ、希乃。何が悲しい?」
ぽたぽたっと、希乃の目から涙が落ちて司の手を濡らす。
「俺はお前の全部を守れていないか? 何を与えてやれていない? ……希乃、本当はお前がわがままでも、悪い子でもいいんだ。どんな子でもよそになんてやらない。お前はうちの子なんだから」
司は手で希乃の涙を拭って、その顔をのぞきこむ。
「なぁ、希乃? ……どうして俺の方を見ない?」
希乃の目線は司と合うことなく、ただ涙でにじんで所在をなくしていた。
司がため息をついて腕を緩めると、希乃はするりと腕から抜け出して机に向かう。そのまま教科書を開いて、泣きながら勉強を始めた。
熱が下がってからというもの、希乃は勉強ばかりしている。涙を落としながらでは効率も悪く、たびたび体調を悪くして机に突っ伏す。けれど司が抱き上げて机から引き離さない限り、夜遅くまで机に向かい続けた。
司は使用人を呼んで、低く言伝る。
「決して無理をさせないように。熱が出たり、息が苦しそうだったら無理やりにでも机から離して寝かせろ。気になることがあったらすぐに俺を呼べ」
そう言って気がかりそうに希乃をみつめてから、司は応接室の方に向かった。
すでに日は暮れていて、辺りには落ちた陽の光が斜めに差し込んでいた。渡り廊下を通って司が応接室に入ると、そこで待っていた藍紀が顔を上げる。
「希乃は、変わりない。……よくないという意味だ」
藍紀も眉を寄せて息をつく。司はソファーに腰を下ろしながら切り出した。
「宝坂を呼び寄せるという話はどうなった」
「宝坂さん自身は往診したいと言ってくれましたが……あちらの若頭に妨害されました。妻をトラブルに巻き込むなと」
司は喉の奥でうなって言葉を返す。
「兄貴は過保護だからな。俺が宝坂に圧力をかけたのも快く思っていないんだろう。希乃を宝坂に診せるのはあきらめた方がいいだろうな」
「では……」
藍紀は声をひそめてその選択肢を告げる。
「……また希乃さんを「治療」しますか?」
「その前に、気になることがあるんだ」
司はあまり喜ばしいことではないように事実を告げる。
「希乃の子ども還りが止まったように思う。教科書の問題が、あらかた解けるようになった。子どもじみた遊びをしなくなって、何よりあまり日中に眠らなくなった」
「……それは」
藍紀が司の手前喜ぶかどうか迷うと、案の定司は声を落としたまま続ける。
「だが少しも笑わなくなった。泣いてばかりだ。なぜ勉強しているかも気になる。……希乃は、うちを出て行くつもりでいるんじゃないか」
藍紀が黙って先を促すと、司は怒りを抑えるように低く告げる。
「許さねぇ。俺から離れるなど、絶対に。希乃の全部は俺のものだ。誰にも渡しはしない……」
司はそう言いかけて、ふいに暗い微笑を浮かべた。
「……ああ、そうか。そうだったか」
「司さん?」
「誰にも渡さない方法があるじゃないか。希乃も子ども扱いは嫌がっていた。考えてみれば触れ合いはそういう意味でしかしたことがなかった。もっと直接的に、深く、愛情を教えてやる方法があったのに……」
藍紀はその歯車が狂いだすような言葉に不穏なものを感じて、慎重に言葉をかける。
「希乃さんの心は子どもです。大人の扱いというのが女性として、という意味であったら……まだ待った方がいいように思います」
「待つさ」
司はさらりと答えて、けれど瞳からその不穏な光は消さなかった。
「……俺から離れない限りはな」
藍紀の気がかりは、それからまもなくして現実となった。
秋の暮れ、人寂しいような夜の最中に、ふらりと希乃は屋敷の外に出たのだった。


