暗い意識の底で、思い出したことがある。
父は、優しい人ではなかったこと。子どものような知性の母に繰り返しのしかかって希乃を生ませたのに、母が妻にいじめられるのを止めなかった。
希乃も、父の妻に虐待されるまま放っておかれていたこと。食事も服も満足に与えられず、八歳になっても希乃は言葉も知性も遅れていた。
父が植物図鑑を、与えてくれたこと。一体それが何になると言われたらそれまでだ。たった一冊の植物図鑑で愛情の証明になどならない。
そんな父に、八歳のあの日、希乃は復讐したのだ。
「お母さんを助けてください。大きくなったら私の全部で返しますから」
明瞭に言葉を話したのは初めてだったかもしれない。それくらい綺麗な言葉で、希乃は残酷な頼み事を告げた。
「……お父さんと奥さんを、殺してください」
母を助けるため、何をこの世から排除しなければいけないか。あのときの希乃は、たぶん遅れた知性で精一杯考えて、そう言ったのだ。
それを聞いた司は、正常な世界にはいない大人だった。しかも幸か不幸か、希乃の願いを叶えてしまう力を持っていた。
司は見惚れるほど鮮やかに笑って、希乃を抱き上げながら言った。
「約束だよ。……大きくなったら、全部をもらうからね」
司は部下に振り返って、命令に慣れた者の声音で言う。
「希乃をうちの子として育てる。食事も服も、何不自由ない生活も与える。愛情をかけて、何からも守る。だから」
司は高い高いをするように希乃を持ち上げて、目を細める。
「……今より前の記憶は、「治療」してやるように」
ああ、そうだと思う。希乃に最初に治療が施されたのは、このときだったのだ。
父に淡い思いを残さないよう……父を殺すと告げた希乃が大きくなったときに苦しまないよう、司はすべてを綺麗にしてくれた。
「承知しました。では」
「あと」
命令に動こうとした部下に、司は微笑んだまま言う。
「希乃の父親とその妻の始末は、俺がやる」
「……よろしいのですか」
「俺が手を下すのは初めてだな。だから意味がある」
司はまた希乃に目を戻して、狂ったように愛おしそうな目で笑いかけた。
「それでこそ、俺がこの子の「全部」だろう?」
あの日、司は確かに約束を守ってくれた。父とその妻は死に、母と希乃は救い出された。
……二度と償えない罪を、希乃と共有したのだから。
応接室に自分の足で戻ったのは、たださやかに迷惑をかけたくない一心からで、長くはもたないのがわかっていた。
「希乃?」
入ってきた希乃をひとめ見るなり司は眉をひそめて、蹴飛ばすように席を立つ。
「どうした、気分が悪いか?」
司は部屋を横切るなり、希乃の頬に手を当てて顔をのぞきこむ。
「寝かせる。藍紀、部屋を貸してくれ」
希乃は首を横に振ったが、藍紀も鋭い目で席を立った。司は希乃を抱き上げて、藍紀は立ったその足で先導していく。
「脈が速い……。呼吸音も乱れてますね。申し訳ない。食事が合わなかったのかもしれません」
連れて行かれた客室のベッドで、藍紀が診察をしてくれた。詫びた藍紀に、希乃はそれも首を横に振る。
「ケーキ、おいしかったです……。知らない家、緊張しただけ……」
希乃はそう言って、枕元にのろのろと手を伸ばす。
けれどその手は何も掴まないで宙に浮いたまま、希乃は弱い声で頼み込む。
「……帰り、たい」
「ああ。すぐ連れ帰ってやる。帰ろうな、希乃」
司はすぐにその手を取って応じてくれたが、ふと希乃の体が震えていることに気づく。
「希乃? ……泣いてるのか?」
その問いに答えず、希乃はまた小声で「帰りたい」とつぶやいた。
少し客室で休んだ後、希乃は司に連れられて帰路についた。
その夜から希乃は高熱を出して寝込んだ。好きだった食事も受け付けず、司が繰り返し水差しを口に含ませて看病してくれた。
「汗をかいて気持ち悪いだろう。今パジャマを替えてやるからな」
司が体を拭いて、着替えもさせてくれる。迷惑がる素振りもなく、使用人に任せることもない。小さい頃から変わらない看病風景で、今はそれに心が痛かった。
「お加減はいかがですか」
三日が過ぎる頃、藍紀が往診にやって来てくれた。そのときには希乃の熱は下がっていたが、ベッドに体を沈めてぼんやりと虚空を見ていた。
「何があったか教えてくれませんか。……さやかが何か言ったのでしょうか?」
希乃はゆるゆると首を横に振る。さやかは真実を取り戻すきっかけを与えてくれた。それに感謝こそすれ、何も彼女が悪いことはしていない。
長い沈黙の後、希乃は消え入りそうな声でつぶやく。
「……先生」
「はい」
うなずいた藍紀に、希乃はつうっと涙を落として言う。
「命の対価は……何で払えばいいでしょうか」
藍紀が目を細めて、続きを促すように希乃をのぞきこむ。
けれど希乃はそれ以上何も話さなかった。
「希乃さん?」
その日から、希乃は言葉を話せなくなったからだった。
父は、優しい人ではなかったこと。子どものような知性の母に繰り返しのしかかって希乃を生ませたのに、母が妻にいじめられるのを止めなかった。
希乃も、父の妻に虐待されるまま放っておかれていたこと。食事も服も満足に与えられず、八歳になっても希乃は言葉も知性も遅れていた。
父が植物図鑑を、与えてくれたこと。一体それが何になると言われたらそれまでだ。たった一冊の植物図鑑で愛情の証明になどならない。
そんな父に、八歳のあの日、希乃は復讐したのだ。
「お母さんを助けてください。大きくなったら私の全部で返しますから」
明瞭に言葉を話したのは初めてだったかもしれない。それくらい綺麗な言葉で、希乃は残酷な頼み事を告げた。
「……お父さんと奥さんを、殺してください」
母を助けるため、何をこの世から排除しなければいけないか。あのときの希乃は、たぶん遅れた知性で精一杯考えて、そう言ったのだ。
それを聞いた司は、正常な世界にはいない大人だった。しかも幸か不幸か、希乃の願いを叶えてしまう力を持っていた。
司は見惚れるほど鮮やかに笑って、希乃を抱き上げながら言った。
「約束だよ。……大きくなったら、全部をもらうからね」
司は部下に振り返って、命令に慣れた者の声音で言う。
「希乃をうちの子として育てる。食事も服も、何不自由ない生活も与える。愛情をかけて、何からも守る。だから」
司は高い高いをするように希乃を持ち上げて、目を細める。
「……今より前の記憶は、「治療」してやるように」
ああ、そうだと思う。希乃に最初に治療が施されたのは、このときだったのだ。
父に淡い思いを残さないよう……父を殺すと告げた希乃が大きくなったときに苦しまないよう、司はすべてを綺麗にしてくれた。
「承知しました。では」
「あと」
命令に動こうとした部下に、司は微笑んだまま言う。
「希乃の父親とその妻の始末は、俺がやる」
「……よろしいのですか」
「俺が手を下すのは初めてだな。だから意味がある」
司はまた希乃に目を戻して、狂ったように愛おしそうな目で笑いかけた。
「それでこそ、俺がこの子の「全部」だろう?」
あの日、司は確かに約束を守ってくれた。父とその妻は死に、母と希乃は救い出された。
……二度と償えない罪を、希乃と共有したのだから。
応接室に自分の足で戻ったのは、たださやかに迷惑をかけたくない一心からで、長くはもたないのがわかっていた。
「希乃?」
入ってきた希乃をひとめ見るなり司は眉をひそめて、蹴飛ばすように席を立つ。
「どうした、気分が悪いか?」
司は部屋を横切るなり、希乃の頬に手を当てて顔をのぞきこむ。
「寝かせる。藍紀、部屋を貸してくれ」
希乃は首を横に振ったが、藍紀も鋭い目で席を立った。司は希乃を抱き上げて、藍紀は立ったその足で先導していく。
「脈が速い……。呼吸音も乱れてますね。申し訳ない。食事が合わなかったのかもしれません」
連れて行かれた客室のベッドで、藍紀が診察をしてくれた。詫びた藍紀に、希乃はそれも首を横に振る。
「ケーキ、おいしかったです……。知らない家、緊張しただけ……」
希乃はそう言って、枕元にのろのろと手を伸ばす。
けれどその手は何も掴まないで宙に浮いたまま、希乃は弱い声で頼み込む。
「……帰り、たい」
「ああ。すぐ連れ帰ってやる。帰ろうな、希乃」
司はすぐにその手を取って応じてくれたが、ふと希乃の体が震えていることに気づく。
「希乃? ……泣いてるのか?」
その問いに答えず、希乃はまた小声で「帰りたい」とつぶやいた。
少し客室で休んだ後、希乃は司に連れられて帰路についた。
その夜から希乃は高熱を出して寝込んだ。好きだった食事も受け付けず、司が繰り返し水差しを口に含ませて看病してくれた。
「汗をかいて気持ち悪いだろう。今パジャマを替えてやるからな」
司が体を拭いて、着替えもさせてくれる。迷惑がる素振りもなく、使用人に任せることもない。小さい頃から変わらない看病風景で、今はそれに心が痛かった。
「お加減はいかがですか」
三日が過ぎる頃、藍紀が往診にやって来てくれた。そのときには希乃の熱は下がっていたが、ベッドに体を沈めてぼんやりと虚空を見ていた。
「何があったか教えてくれませんか。……さやかが何か言ったのでしょうか?」
希乃はゆるゆると首を横に振る。さやかは真実を取り戻すきっかけを与えてくれた。それに感謝こそすれ、何も彼女が悪いことはしていない。
長い沈黙の後、希乃は消え入りそうな声でつぶやく。
「……先生」
「はい」
うなずいた藍紀に、希乃はつうっと涙を落として言う。
「命の対価は……何で払えばいいでしょうか」
藍紀が目を細めて、続きを促すように希乃をのぞきこむ。
けれど希乃はそれ以上何も話さなかった。
「希乃さん?」
その日から、希乃は言葉を話せなくなったからだった。


