橘若頭と怖がり姫

 さやかが案内してくれた冷温室は、夏だというのに肌寒いくらいの体感だった。
 それとも兄の作ってくれた籠のような遊び場にいたうちに、季節はとっくに冬になっていたのだろうか。そう希乃が思ったくらい、そこは酷暑の外気を感じなかった。
「ここは養父が母のために作らせた冷温室なんですよ。体の弱い母が、夏でも花を楽しめるように」
「小さくてかわいい……淡い色も、きれいですね」
 高山植物は普通の鑑賞植物より手間がかかるだろうに、そこは隅々まで整えられた環境だった。澄んだ水が循環して、適度に肥料も与えられているのが見て取れる。 
 希乃がため息をついてみとれていると、さやかは声を落として告げる。
「外に出たら一日も経たずにしおれてしまう。……母みたいに、弱いんです」
 その声に苦さを感じて希乃が顔を上げると、隣に並んださやかは気がかりそうに希乃を見ていた。
「希乃さんも、兄の「治療」を受けたんですね」
「はい……。藍紀先生に、聞かれましたか」
「いいえ、兄は仕事の話は一切私にしません。……保養所の噴水で遊ぶ希乃さんを見たんです」
 さやかは目を伏せて静かに言う。
「あどけなくて、屈託なく笑って……今にも眠ってしまいそうに、無防備で。治療を受け始めた頃の母の姿と重なったんです」
「お母様と……」
 希乃ははっと息を呑んで、さやかに体の方向を向ける。
「……私、副作用で……子ども還りが、始まっているみたいなんです。にいさまに迷惑をかけて……どうにか止めなきゃと、思っていて。あの、元に戻るためには……トラウマを再現するしか、ないんでしょうか?」
 希乃が一生懸命願うように問うと、さやかは哀しげに眉を寄せて返す。
「希乃さんは、抗いたいのですね。……母は治療を施した養父に抗いませんでした。母は今の希乃さんよりずっと子どもに還っていて……でも、それが幸せそうにも見えるんです」
 希乃はそれを聞いてなお、首を横に振って言い募る。
「私も、兄のくれた世界に……浸りたいと思っていたことが、あります。けど、自分の体も管理できなくなるような……そんな私、にいさまのそばに、いちゃだめです……!」
「希乃さん……」
 さやかは希乃の真剣さを正面から受け止めてくれたようだった。じっと希乃をみつめ返して、考えをめぐらすように黙る。
 やがてさやかは慎重に言葉をかける。
「希乃さんのトラウマはどんなものですか?」
「よく、覚えてない……のです。でも、三つあるうちの、二つの場所には行きました。子ども還りが止まった実感は、ないです……けど」
「……最後の一つは?」
 問いかけられて、希乃はずっと気になっていた場所を告げる。
「青玉石倉庫……というらしいです」
 それを聞いた途端、さやかはさっと顔色を変えて口をつぐんだ。
「さやかさん?」
「……希乃さんは、そこで何があったかご存じないですか?」
 逆に問いかけられて、希乃はこくりとうなずく。
「知らない……名前、です。有名なところ……ですか?」
 希乃の素朴な疑問に、さやかは答えるのをためらったようだった。ごくんと息を呑んで、言葉を選びながら告げる。
「無理心中事件があった場所です。十年前、資産家の当主とその妻の遺体がみつかったそうです」
 十年前という言葉が、ずくんとした痛みを希乃に伝えてきた。
 どうして、自殺事件なんて遠い世界のことなのに。そう思ったのに、さやかの次の言葉で時が止まる。
「資産家の名前は……確か、青朽(あおくち)崇史(たかし)。広大な山林と果樹園を持っていました」
 …… 「あおくち」。その名字は記憶の蓋を急速に開く。希乃は胸に迫る感情に、目を見開いた。
「橘家とも古い付き合いがあったはずです。青玉石倉庫は事件後、橘家が引き取って管理しているそうですから」
「あ……」
 希乃は呼吸を求めるように細い息をして、思わずさやかの袖をつかむ。
「希乃さん?」
「その名前……ううん、でも、なんで、そんな大事なこと、今まで……」
 希乃は泣きそうな声でさやかに訴えかける。
「……私の、お父さんです……。青朽、崇史……さん! でも、亡くなったなんて、聞いてな……!」
「希乃さん!」
 希乃は呼吸ができなくなって、体を折ってうずくまる。
――希乃。この図鑑をあげよう。
 遠い昔、どこか遠い世界で聞こえた声が耳に蘇った気がして、希乃の視界は真っ暗に沈んだ。