橘若頭と怖がり姫

 希乃は夢の中で、プディングを食べた。
 それは食べてはいけないものだと兄に固く言い聞かされていたものだった。希乃の体を痛めつけるもの、時には命にもかかわる危険なものなのだと。
 でも食べてしまったのは……それが楽園の果実のように、苦しみと共に希乃に知性を呼び戻してくれるものだと知っていたからだった。
「あう……っ!」
 体の内側からガラスの欠片が出てくるような痛みで、希乃は涙でぐしゃぐしゃな目を開く。
 視界が出来の悪いテレビのようで、希乃は体調が狂っているときそういう状態になる。希乃は暗がりの中にいて、心臓が脈打つたびに体に痛みが走った。
「いた……い、いたい……!」
「……希乃。痛み止めが切れたか」
 おそらくそこは車の中で、兄が希乃の体をすっぽりと後ろから包んでいた。兄は体をかきむしろうとする希乃の手を強く押さえていた。
「はなし、て……!」
「今はだめだ、希乃。顔も手も傷だらけなんだ。病院に着いたら麻酔をかけてやるからな……」
 絶え間ない痛みの中、もがきたいのに身動きがとれない。兄の言葉も分厚い膜の向こうで聞こえているようで、今は自分を押さえつける兄が憎かった。
 病院に着くまでどうにもできないとわかっていても、とてもじっとしていられる痛みではなかった。無意識に兄の手に爪を立ててしまって、兄を傷つけてしまっていた。
「若頭、手が……お預かりします」
「離れていろ。希乃が不安に思うだろうが。希乃の気がまぎれるなら、ひっかかれるくらいどうということもない」
 希乃を預かろうとする側近の言葉を切り捨てて、兄は希乃に優しく話しかける。
「じきに病院だよ。大丈夫だ。すぐ痛いのを取ってやる」
「いたい……よ、ぇぐ……」
「いい子だな、希乃。大丈夫だ、大丈夫……」
 希乃が泣いてももがいても、兄は怒ったり責めたりしなかった。病院に着くまで、ずっと子どもをあやすように希乃を励まし続けてくれた。
 記憶はそれくらいまでしか残っておらず、意識がはっきりしたのはカテリナ号に乗って三日後のことだった。
 希乃は屋敷の自室に戻って来ていて、枕元から兄がほっとした顔で覗き込んでいた。あれほど体を蝕んだ痛みもなく、希乃も頬を緩めようして……希乃の頬に触れた兄の手が包帯に巻かれているのに気づく。
「にいさま……! ごめ、なさい……!」
 希乃が兄の手を取って泣きながら謝ると、兄は首を横に振って言う。
「希乃の痛みがまぎれたならにいさまはそれでいい。それより希乃はもう痛くないか?」
「う、うん……私、またプディングを食べたわけじゃないのに、なんで……」
 希乃が混乱のままに言うと、兄は一つため息をついて返す。
「「また」……か。思い出しちまったんだな」
「あ……」
 希乃はこくんと息を呑んで、おずおずとうなずく。
 兄は少し思案して、希乃の疑問に答えてくれた。
「希乃はトラウマと同じ状況に直面して、体の記憶が揺さぶられたんだそうだ。実際にアレルギーは起きていないのに、過去の体の痛みを錯覚した」
「錯覚……」
「錯覚とはいえ、体をかきむしって大変だったんだ。よほどトラウマが心に傷をつけたんだな」
 兄は包帯の巻かれた手で希乃の頬を包んで、優しく告げる。
「希乃、トラウマに近づくのは二度とやめてくれ。俺はずっと希乃の側にいて、希乃を守ってやる。精神退行を止めるすべが他にないか、手を尽くして調べてみるから」
「にいさま……」
「な?」
 目を覗き込まれて、希乃の中に迷いが宿る。
 兄はむしろ、希乃の精神退行を望んでいた気もして……でも迷惑をかけられるのは兄だって嫌がるはず。そう考え直して、希乃はこくりとうなずいた。
「……うん。めいわく……かけないように、がんばるから」
「迷惑、な。俺は少しも困らないが。希乃がずっと子どもで、俺の手がいつも必要で何が悪い?」
「に、にいさま。だめ、私大人になるの……」
 希乃が慌てて主張すると、兄はくすくす笑って言った。
「冗談だよ。……そういうとこが子どもで、かわいいのな」
 兄の目にはどこも冗談を言っている素振りがなかったのが、ちらりと心に引っかかった。
「あの……藍紀先生の妹さんの、具合は?」
「ああ。あちらも屋敷に連れ帰って、手厚く看病されているらしい」
 希乃がそろそろと問いかけると、兄は何てことないように答える。
「藍紀が希乃に礼を言いたいそうだ。あの子の具合が落ち着いたら訪ねてくる」
「でも、私、何もしてない……よ?」
「希乃がみつけてくれなかったら、あの子のアレルギーショックはもっと酷くなっていたかもしれない。食べさせられたのはアーモンドで命に別状はなかったそうだが、それでも結構な発疹が出ていただろう?」
 希乃はあのときの様子を思い出してうなずく。自分も同じ経験があるから、あの子の痛みと苦しみは想像ができた。
 ふと希乃は顔を上げて、迷いながら言葉を告げる。
「あの、ね……」
「どうした?」
「私、あの子のお見舞いに、行ってもいい……?」
 自分のようなただの高校生の訪問が、あの子の力になるとは思えない。けれど別れ際にあの子が自分を厭うようなことを言っていたのが気になっていた。
「心配、だから……」
 ……自分と同じ悩みをあの子を抱えているのなら。アレルギーよりあの子の心を心配したのは、兄には言わなかった。
 兄は少し驚いたようだったが、柔く希乃の手を包んでうなずく。
「希乃が外出したいと自分から言うのは珍しいな。……いいだろう。元気になってきた証拠だからな」
「ありがとう……」
 希乃の回復を喜んでくれる兄に、希乃も笑い返す。
 トラウマに直面したのは痛みと苦しみもあったが、少し今まで見えなかった世界が広がったような気がしていた。