橘若頭と怖がり姫

 息をひそめて隣室に耳を澄ませながら、希乃は兄が隣室を離れるときを待っていた。
 話題にしているのが希乃の知る藍紀と同一人物だというのは、まもなくわかった。兄が彼のことを話す口調は親しみがあって、彼と直接話しているときの雰囲気に通じていた。
「藍紀様の配下が問題の従妹たちを捕まえたそうですが……妹さんの行方は知らないとしらばっくれているそうです」
「そうだろうな。藍紀も身内同士で争うのは避けてきた。あの従妹どもも、藍紀が本気で自分たちを害することはないと甘く見ているんだろう」
 部下の言葉に同意してから、兄はふと感情を消して言う。
「……俺には理解できん理屈だ。血のつながりに何の価値がある? 身内は足の引っ張り合いしか記憶がない。希乃さえいれば……もし希乃が泣くようなことをしたなら、俺なら誰でも海に落としてやるがな」
 その言葉には、側近だけでなく希乃も息を呑む。
(私は……にいさまの本当の家族じゃない、よ……?)
 震える心で問いかけたくなるけれど、今は目を覚ましていることを知られるわけにはいかない。
「まあいい。藍紀には希乃を治療してくれた借りがある。……バーラウンジに三姉妹を招待しろ。船の主が美人と名高いお嬢様方に興味を持っているとでも言えば、あの自尊心の高い女どものことだ。酒の席にも乗って来るだろう」
「かしこまりました」
 兄が席を立つ物音に気づいて、希乃はまたベッドに戻った。
 兄は扉を開かなかったが、扉の前で小さくため息をつく。
「希乃はいつ俺と酒が飲めるようになるだろうな。……一生飲めなくてもいいか。希乃はミルクを飲んでるところでも、あんな娘どもの百倍はかわいいからな」
 兄は誰にともなくつぶやいて、側近を伴ってその場を立ち去って行った。
 希乃は兄が離れたことにつかのま考えをめぐらせて、けれど隣室には別の兄の部下が控えたままだと緊張する。兄は希乃がトラウマに直面するのを警戒していて、一人歩きを許してはくれないだろう。
 悩んだ末、希乃はそろそろと扉を開けて部下に声をかけた。
「あの……」
「お嬢様? どうされましたか」
 希乃はドレス姿ではないものの、パジャマから着替えてワンピース姿になっていた。いぶかしげに近づいた部下に、希乃は恐る恐る言った。
「少し……船に酔っちゃった、みたいなの」
「気づかず申し訳ありません。すぐに水と薬をお持ちします」
 部下は労わるように希乃に言葉を返したが、希乃は一生懸命に言う。
「ううん。ちょっと船の中を歩いたら、まぎれると思うから……散歩、してきてもいい……?」
「しかし……」
 部下はたやすく承諾してくれない様子で、希乃は言葉を選びながら続ける。
「さっき、悪い夢を見て……お腹、蹴られて、穴が空く夢……。このまま部屋にいると、息が詰まりそうで、怖いの……。せっかく連れてきてもらったのに、発作、起きたら……にいさまに悪いから」
 希乃の顔色が優れないのを部下も見て取ったのだろう。希乃の心と体が不安定なのは使用人なら誰もが知っていて、兄は希乃のわがままなら何でも聞いてやれと命じていた。
 希乃は小さい頃から遠慮の多い子どもで、わがままどころかめったに自己主張もしなかった。その希乃がためらいながらでも意思を口にしたのは違う理由があると、部下はいぶかしく感じるべきだったのかもしれない。
「……わかりました。散策にご一緒します。ただ酒の席にいる客には近寄りませんよう」
「あ、ありが、とう……」
 希乃は淡く笑って喜んだ。たぶん酒の席の客というのは、兄と彼が誘った女性たちに遭遇するのを警戒したのだろう。希乃は元よりトラウマのあった化粧室に行きたいだけで、兄にはみつからないことを願っていた。
 希乃はやっと外出許可をもらって、つかず離れずの距離を保つ部下を気にしながらも、船内を歩き始める。
 貴賓室の周りは潮騒だけが鳴っていたが、階下に近づくにつれ喧噪が耳に入る。夜通し酒や遊興を楽しむ人々であふれているのだろう。
(にいさまも、女性たちと……いるのかな。私といると子どもっぽい遊びばかりで……つまらないから、当然……だよね)
 兄から離れて行動したいと思ったのに、少し兄と離れただけで心もとなくなる。そんな自分は小さな子どものようだと、しょんぼりする。
(ううん。今は……トラウマの場所に行くのを、考えなきゃ)
 希乃はきゅっと口を引き結んで、寂しさを追い払う。
(家の人の目の前で化粧室に立ち入るのは、きっと許してもらえない……)
 宝坂のメモにあったのはカテリナ号化粧室とだけで、何階のどこという明示はない。たぶん兄や使用人は知っているのだろうが、兄は希乃をトラウマの場所に近づけないと言っていたのだから、訊いても教えてはもらえないだろう。
(……でも化粧室なのは確かなの。だから……とにかく近づいたときに、おもいきって飛び込む?)
 廊下を渡って甲板の近くを通りかかったとき、化粧室の表示が見えた。
 どきどきと心臓の音が鳴る。化粧室まで十メートルほどで、後ろをついてくる使用人との距離も同じくらい。隙をついて走り出せば……もしかしたら。
 息を吸って足に力を入れようとしたそのとき、希乃とすれ違って甲板に出て行った子どもがいた。
(あの子……!)
「お嬢様、どうされました?」
 思わず足を止めた希乃に、部下が問いかける。
 先ほどとは違う動悸がしていた。痛みに近い心臓の音は、子どもの頃に経験がある。
「お嬢様!」
 希乃は化粧室とは真逆の方……子どもの出て行った甲板に走る。
 扉を開けて甲板に出ると、その子どもは手すりに寄りかかるようにして座り込んでいた。希乃は慌ててその子に駆け寄って問いかける。
「大丈夫? ……その発疹、食物アレルギーに、似てる……よ?」
 食物アレルギーと口にすると、希乃の内側から震えが走った。全身の痛みとかゆみが蘇るようで、血の気が下がっていく思いがする。
「誰か、お医者さま……を」
 その子は顔や手に赤い発疹が出ていて、呼吸も苦しそうだった。希乃が使用人に振り向いて頼むと、その子は弱弱しく首を横に振る。
「呼ばないで、ください……。こんな情けない、体……誰にも見られたく、ない」
 体格は小学生くらいだがその言葉遣いは大人びていた。折れそうなくらいに細く小柄だが、見た目よりも大人なのかもしれないと希乃は思う。
 希乃は膝をついて目線を合わせながら、そっと問いかける。
「でも、とても痛くて、苦しいでしょう……? 私、知ってる、の……」
 希乃も小さい頃、一度アレルギーショックが起こってひどく苦しんだ。
 ……一度? その言葉に違和感があって、本当にそうだっただろうかとわからなくなる。
「だって、最近……」
 もっと大きくなってからもアレルギーが起こったような気がする。けれど希乃自身食べるものには臆病なくらい気を付けていて、兄だって身の回りの使用人だって、希乃にアレルギー食材を近づけるはずがないのに。
 ……だったら、誰かが意図的に、近づけたのだ。
――かわいくない生き物になったらいいわね。
 ふいに突き刺すような悪意の言葉が耳に蘇る。
「お待ちください。お嬢様、この方は見覚えが」
――全身の発疹でぼろぼろになって……死ぬこともあるそうね。
 使用人が近づいて来るのが、どこか遠い出来事のようだった。
「藍紀様の、妹の……」
(苦、しい……)
 その言葉の全部を聞く前に呼吸ができなくなって、希乃はふっと膝から崩れ落ちた。