兄が用意してくれたドルチェはどれも希乃の大好きなものばかりで、とても食べきれないとわかっていても残すのが惜しかった。
(このままにいさまのくれるものに、甘えていたら……子どもの世界に埋もれてしまうのに)
兄は抗いがたい多幸感を希乃に降り注ぐように与えてくれて、希乃の世界はいっぱいになってしまう。
子どもに還るというのは、おねしょのように自分で自分の体が管理できなくなるということだ。ただでさえ勉強も働くこともできないのに、兄に迷惑をかけるようになったら耐えられない。
「希乃? ……よしよし、もうおやすみの時間だからな」
だからトラウマを再現して退行を止めようとしたのに、希乃の体は勝手に兄に甘えてしまおうとする。
ディナーの後、兄は船の中にあるプラネタリウムに希乃を連れてきてくれた。ゆったりとしたソファー席を独占して、二人だけで満天の星空を見た。
希乃は流血や暴力が苦手だから、子ども向けの易しいプログラムだった。希乃の好みに合わせたそれは大人の兄ではつまらないのに、兄は終始優しく希乃の髪を梳いて、時々希乃に話しかけては、愛おしそうに希乃の目線の先を追っていた。
そうしているうちに希乃はうとうとしてしまって、プログラムの途中からは記憶もあいまいだった。近頃は九時にもなると眠くなって、兄にベッドの中に入れられてしまう。
「ごめ……なさ、起き、る……の」
「いいんだよ、寝ておいで。希乃のためのベッドで休もうな……」
兄は微笑してささやくと、希乃を起こさないように抱き上げてどこかに歩き出した。
使用人が先導した部屋は、貴賓室と呼ばれるような豪奢な部屋だった。ペルシャじゅうたんが敷かれて、窓からは絵画のように海が覗く。そこのふかふかのベッドに、兄はそっと希乃を下ろした。
「とろんとした顔して……なんて、かわいいのな。そんな顔、誰にも見せたらだめだからな」
どうにか起きなければと思うのに、自分を包む兄のまなざしの優しさに埋もれてしまう。兄はすぅすぅと安らかな息をついている希乃の頬を繰り返し撫でて、陶酔したようにつぶやく。
「……ああ、待ち遠しい。子どもになったら、もう俺の手の中からどこも出さないで済むんだ」
兄は希乃が眠ったと思ったのだろう。意識が途切れる直前、そう言ったのが聞こえた気がした。
夢の中で、希乃は迷子になっていた。生クリームとチョコレートとフルーツのお城から、どこかへ帰ろうと必死になっていた。
どこへ帰るんだ、ここが希乃の家なのに。兄の慈しむような声が聞こえて、希乃はとっさに首を横に振る。
私……よそものなの。にいさまの、ほんとうの家族じゃないの……。涙をあふれさせるようにそう訴えて、希乃は目を覚ました。
辺りを見回せばそこは船の貴賓室で、希乃はドレスからパジャマに着替えさせられていた。暗闇の中で足元を淡い灯りが照らしていて、子守歌のような潮騒が聞こえる。
時刻はよくわからないが、まだ日が昇る前であるのは確かだった。そっと足を床に落として部屋を横切り、扉を細く開く。
「……確かに女三人に囲まれていたのを見たんだな?」
隣室で兄が側近に話しているのが聞こえて、とっさに希乃は扉を閉める。
けれど辺りが静かだからか、扉の近くで耳を澄ますと声は聞こえてきた。
「はい。彼女らに連れられて化粧室に向かったと……」
「だがその後姿を見た者はいないと。……まさか海に投げ込まれたんじゃないだろうな」
「さすがにそこまでは。藍紀様が発狂しますよ」
藍紀と聞いて、希乃は保養所の藍紀を思い出す。彼も名家の出身と聞いていたから、今夜この船に乗っているのだろうか?
兄は短く思案すると、低い声音で命じる。
「うちの部下も出して捜索してやれ。……藍紀の妹に何かあったら血が流れる」
「承知しました」
ふいに兄がこちらに歩いて来る足音が聞こえて、希乃は慌ててベッドに引き返す。
ベッドにもぐりこんで目を閉じた希乃は、兄がそっと扉を開ける音を聞いた。希乃が眠っているのを確認したのか、兄は側近を振り向いて告げる。
「希乃には知らせるなよ。……化粧室で女が複数なんて、トラウマの再現そのものだからな」
側近がうなずく気配を感じながら、希乃は気づかれないように息を呑んだ。
(……トラウマを……再現、できる?)
扉はすぐに閉じられたものの、希乃の心は震えた。
兄と側近が遠ざかっていく足音が高鳴る心臓の音と重なる。希乃はその間、一生懸命ここを抜け出す方法を考えていた。
(このままにいさまのくれるものに、甘えていたら……子どもの世界に埋もれてしまうのに)
兄は抗いがたい多幸感を希乃に降り注ぐように与えてくれて、希乃の世界はいっぱいになってしまう。
子どもに還るというのは、おねしょのように自分で自分の体が管理できなくなるということだ。ただでさえ勉強も働くこともできないのに、兄に迷惑をかけるようになったら耐えられない。
「希乃? ……よしよし、もうおやすみの時間だからな」
だからトラウマを再現して退行を止めようとしたのに、希乃の体は勝手に兄に甘えてしまおうとする。
ディナーの後、兄は船の中にあるプラネタリウムに希乃を連れてきてくれた。ゆったりとしたソファー席を独占して、二人だけで満天の星空を見た。
希乃は流血や暴力が苦手だから、子ども向けの易しいプログラムだった。希乃の好みに合わせたそれは大人の兄ではつまらないのに、兄は終始優しく希乃の髪を梳いて、時々希乃に話しかけては、愛おしそうに希乃の目線の先を追っていた。
そうしているうちに希乃はうとうとしてしまって、プログラムの途中からは記憶もあいまいだった。近頃は九時にもなると眠くなって、兄にベッドの中に入れられてしまう。
「ごめ……なさ、起き、る……の」
「いいんだよ、寝ておいで。希乃のためのベッドで休もうな……」
兄は微笑してささやくと、希乃を起こさないように抱き上げてどこかに歩き出した。
使用人が先導した部屋は、貴賓室と呼ばれるような豪奢な部屋だった。ペルシャじゅうたんが敷かれて、窓からは絵画のように海が覗く。そこのふかふかのベッドに、兄はそっと希乃を下ろした。
「とろんとした顔して……なんて、かわいいのな。そんな顔、誰にも見せたらだめだからな」
どうにか起きなければと思うのに、自分を包む兄のまなざしの優しさに埋もれてしまう。兄はすぅすぅと安らかな息をついている希乃の頬を繰り返し撫でて、陶酔したようにつぶやく。
「……ああ、待ち遠しい。子どもになったら、もう俺の手の中からどこも出さないで済むんだ」
兄は希乃が眠ったと思ったのだろう。意識が途切れる直前、そう言ったのが聞こえた気がした。
夢の中で、希乃は迷子になっていた。生クリームとチョコレートとフルーツのお城から、どこかへ帰ろうと必死になっていた。
どこへ帰るんだ、ここが希乃の家なのに。兄の慈しむような声が聞こえて、希乃はとっさに首を横に振る。
私……よそものなの。にいさまの、ほんとうの家族じゃないの……。涙をあふれさせるようにそう訴えて、希乃は目を覚ました。
辺りを見回せばそこは船の貴賓室で、希乃はドレスからパジャマに着替えさせられていた。暗闇の中で足元を淡い灯りが照らしていて、子守歌のような潮騒が聞こえる。
時刻はよくわからないが、まだ日が昇る前であるのは確かだった。そっと足を床に落として部屋を横切り、扉を細く開く。
「……確かに女三人に囲まれていたのを見たんだな?」
隣室で兄が側近に話しているのが聞こえて、とっさに希乃は扉を閉める。
けれど辺りが静かだからか、扉の近くで耳を澄ますと声は聞こえてきた。
「はい。彼女らに連れられて化粧室に向かったと……」
「だがその後姿を見た者はいないと。……まさか海に投げ込まれたんじゃないだろうな」
「さすがにそこまでは。藍紀様が発狂しますよ」
藍紀と聞いて、希乃は保養所の藍紀を思い出す。彼も名家の出身と聞いていたから、今夜この船に乗っているのだろうか?
兄は短く思案すると、低い声音で命じる。
「うちの部下も出して捜索してやれ。……藍紀の妹に何かあったら血が流れる」
「承知しました」
ふいに兄がこちらに歩いて来る足音が聞こえて、希乃は慌ててベッドに引き返す。
ベッドにもぐりこんで目を閉じた希乃は、兄がそっと扉を開ける音を聞いた。希乃が眠っているのを確認したのか、兄は側近を振り向いて告げる。
「希乃には知らせるなよ。……化粧室で女が複数なんて、トラウマの再現そのものだからな」
側近がうなずく気配を感じながら、希乃は気づかれないように息を呑んだ。
(……トラウマを……再現、できる?)
扉はすぐに閉じられたものの、希乃の心は震えた。
兄と側近が遠ざかっていく足音が高鳴る心臓の音と重なる。希乃はその間、一生懸命ここを抜け出す方法を考えていた。


