橘若頭と怖がり姫

 屋敷の中で起こった暴力の記憶は、希乃の心を確かに揺さぶった。 
 兄に付き添われて西の離れから自室に戻ったときは、震えてはいたが日常から外れた実感はなかった。けれど兄に頭を撫でられて眠りについて……翌朝、異変に気付いた。
「う……どうし、よう……どうしよう……!」
 悪夢に目覚めた希乃は、おねしょをしていた。そんなことは遠い昔のことで、自分の体が子どもに還ってしまったようでひどく怖かった。
「希乃、こんなところでどうした?」
「……に、にいさま、見ちゃ、だめ……!」
 朝食の時間になっても食卓に来ない希乃をいぶかしんだのか、兄が様子を見にやって来る。希乃はパジャマとシーツを洗面所で洗いながら泣いていて、兄に知れてしまった。
 使用人がやるから大丈夫だとなだめられて、希乃はダイニングルームに連れてこられた。
 兄は仕事に出る時間も少し遅らせて、優しく希乃にさとす。
「おねしょは、希乃がこの家に来たばかりの頃にもあったんだ。ひどく怖い思いをしたんだと医者は言っていた。落ち着いたらちゃんと治るから、心配は要らないんだよ」
「でも……こんなの、小さい子ども、で……」
「今の希乃は弱った状態なんだ。恥ずかしくなんてない。……だから治るまで俺と一緒に寝るか?」
 兄がまるで冗談とは取れない口調で告げた提案を聞いて、希乃は慌てる。
「そんな、こと……」
「俺は構わないぞ。小さい頃はそうしてやっただろう? しがみつくものがあると希乃は安心するみたいで、かわいかった。すぐパジャマも替えてやれるし……」
「い、いい。ひとりで寝る……から」
 もう一緒に寝るつもりでいる兄を何とか留めて、仕事に行ってもらった。
 希乃は使用人に申し訳なくて、洗濯を手伝わせてほしいと頼んだけれど断られてしまった。しょんぼりとした思いで自室に戻って来て、ここのところの日課で教科書に向き合う。
「解けない……」
 やはりというか、すぐに精神年齢が回復するはずもなかった。解けなくなった問題はやはり解けず、希乃を落胆させた。
 けれどその日は日中うとうとする時間が減った。昼過ぎになると起きていられないほどの眠気が襲ってきたのに、今日は椅子にかけたまま少しまどろむだけで済んだ。
 夜に帰ってきた兄は、一緒に寝てやると言ったけれど、希乃はどうにか一人でベッドにもぐりこんだ。
 そんな希乃に、兄は苦笑して何かを差し出す。
「これ……は?」
「希乃が小さい頃、俺がいないときのためにベッドに置いてやったものだよ」
 それは両手で抱えられないほど大きなうさぎのぬいぐるみで、小さい希乃がぎゅっとしがみついたからか、右耳がへしゃげていた。その愛嬌のある顔立ちに、希乃は自然と頬を緩める。
「よく……眠れそう」
「こんなのが俺の代わりになってほしくないんだがな。……寂しかったら呼べよ。いつでも一緒に寝てやるから」
 兄はちょっとだけ不機嫌そうに言って、希乃の頭を撫でて去っていった。
 その夜も、やっぱり悪夢を見た。腹を蹴られて、泣きながら痛みに目を覚ました。
 ただ幸い、おねしょはしないで済んだ。ぎゅっとぬいぐるみにしがみついて、朝を迎えた。
 ずくんとした腹部の痛みだけは日中になっても消えなかった。兄にそれは打ち明けられずに、おねしょは大丈夫だったよ、と消え入るような声で報告した。
「希乃、宝坂が渡したものを見せてくれるか?」
 夕食の席で、兄は希乃にそう言った。希乃が肩掛け鞄に何かを隠していたことは気づいていたらしく、希乃は兄に隠し事はできないのだと改めて思った。
 希乃は部屋から肩掛け鞄を持ってくると、兄にメモを手渡す。
「「西の離れ」と「カテリナ号化粧室」か……」
「にいさま、その……」
 希乃はメモを見て思案する兄に、恐る恐る問いかける。
「私、その……カテリナ号化粧室に、行ってみても、いい……?」
 それを聞いた兄は、心配そうに目をかげらせて問い返した。
「怖い思いをしたばかりだろう。……心配だな。希乃、どこか痛んだり苦しかったりはしないか?」
「う……うん。もう、どこも痛くない、よ……」
 本当は昨夜から腹部が痛むとは言えずに、希乃は答える。
 兄はじっと希乃をみつめて、まだ心配そうに眉を寄せていた。気づかれてしまっただろうかと、希乃はひやりとする。
「……まあいい。連れて行ってやるよ。カテリナ号化粧室な」
「ありがとう……」
 希乃はほっとして顔を綻ばせると、ふとメモに目を落として首を傾げる。
「でも……」
「ん? どうした?」
「この、三つ目の場所……わからなかったの」
 希乃は不思議そうに、兄に問いかける。
「……「三、青玉石(せいぎょくせき)倉庫」って、どこだろう?」
 そのとき兄は鋭く目を細めて、首を横に振った。
「ここは連れて行ってやれない」
「え……」
「危険なところなんだ。……希乃の住んでいる世界とは違う」
 兄はそう言って、希乃の頭を甘やかすように撫でる。
「希乃が元気になったら、カテリナ号は乗せてやるつもりでいた。にいさまと行こうな? かわいい服を着せて、おいしいものを食べさせてやるから」
「うん……」
 先ほどまでの鋭い拒絶とは違って、兄はもういつも通りだった。腕を広げて、おいでというように目で呼ぶ。
「希乃はいつも、綺麗な世界にいないとな……」
 兄は希乃を膝に乗せると後ろから包んで、誓うようにつぶやいた。