橘若頭と怖がり姫

 トラウマの場所を知った日の夜は、よく眠れなかった。
 まだその場所に立ったわけでもないのに、場所を口にしただけで心は震えた。それこそが心に傷跡が残っているからかもしれなかった。
 昼寝の後、兄は体調が悪いのではと心配して希乃をまたベッドに戻してしまった。兄は希乃の夕食も部屋に運ばせて一緒にとり、風呂の代わりに体も拭いてくれた。だから宝坂のメモはずっと鞄の中に仕舞ってある。
(一つ目の「西の離れ」なら、屋敷の中だから……。明日にでも、行けばいい……)
 引っかかるのは、家の中にトラウマの場所があるという事実だ。
 兄と使用人、時折主である兄の父と顔を合わせることはあるものの、屋敷の中は希乃にとって安息の場所だった。兄が希乃のために作ってくれた揺り籠のようなところで、心に傷を負うような事件が本当にあったのだろうか。
 そう思うと気になってますます眠れなくて、何度目かの寝返りを打つ。
(精神退行は、毎日進むのかな……)
 勉強しても知識を詰め込んでも、自分の中に空いた穴をすり抜けていくとしたら、一日だって時間はないのではないだろうか。
「……だめ」
 そうだとしたら今夜にでも消えてしまうものがある気がして、希乃は無意識に起き上がっていた。
 安心して子どもに還っていいと兄は言う。でも兄の子どもでもない自分が、ずっと兄に面倒をかけるわけにはいかない。
 ……兄にはいずれ、愛する女性と結ばれて、子どもにも恵まれてほしいと思う。
 そう思った途端にずくりと心は痛んだけれど、希乃の本心だった。
 自分にできることは、大人になって、この家を出て行くこと。まだその思考が残っているうちに、精一杯の行動をしなければならなかった。
 希乃はベッドから抜け出して、音を立てないように部屋の扉を開いた。
 時刻は日付をまたぐ頃で、夜の来客をたびたび迎えるこの屋敷でも、今夜は静まり返っていた。病人のような青白い月灯りが廊下に落ちていた。
 そっと足を進めながら思う。西の離れは、希乃が住んでいる母屋と廊下でつながっているものの、希乃自身は行き来した記憶がない。
 それは兄たちが好意を持って迎える客は母屋の客間に通すのに対し、西の離れは招かれざる客に対処する陰の場所だからだった。そこに導かれる客は大抵柄が悪い者たちで、希乃と決して会わせないように兄が気を配ってくれていた。
(そのお客さんと、私、まちがって対面してしまったのかな……)
 だからトラウマになったのだとしたら、自分は何て気が弱いのだろうとしょんぼりする。
 やっぱり子どものままじゃいけない。あるべき姿というのが何かはわからないけれど、少なくともこのまま子どもに還っていくのは違う……その思いで、希乃は西の離れまでたどり着いた。
「……あ」
 残暑の季節で、夜になってもそれなりに部屋の中に熱は残っている。それだというのに、その一角は季節に取り残されたように冷えきっていた。
 足を踏み入れてすぐに、後悔した。そこには色濃く暴力の跡が残っていたからだ。
 壊されたらしい障子の枠は取り払われていたが、土足で男たちが踏み荒らした足跡が消えずについたままだった。
 それで、壁に残った穴は……銃弾の跡、のように見えた。
 それらを見た途端、どくんと胸が大きく波打つ。
――希乃!
 兄が叫んだ声が、残響のように耳に蘇る。
 兄は……拳銃で撃ったのだ、誰かを。
 希乃を守るために、兄は限りなく自分に近い人を排除した。
「……間島、さま」
 名前を思い出して、かくんと膝をつく。
 そう、あのときも膝をついていた。自分などとは比べ物にならない、その血の力の前に屈服した。
 同じ姿勢を取って、じわじわと腹部が気になり始める。
 兄には言わなかったが、時々不思議に思っていた。希乃の腹には真新しい手術の跡がある。でも希乃はいつそんな怪我をしたのか、少しも覚えていない。
――お前まさか、司さんの子を……!
 激高した間島の声に、体が勝手に震え始める。
 瞬間、腹部に激痛が走って、希乃はその場にうずくまっていた。
「あ……ぅ、うぅ!」
 あの人こそが、兄の本当の血縁者だった。
 希乃が生まれたときに揺り籠を兄が覗き込んでいたというのは、兄の優しい嘘。……希乃はただの拾い子で、兄とはまったくの他人なのだ。
 体の痛みより心の痛みで、身が二つに引き裂かれそうな思いがした。
「希乃っ!」
 そのとき、廊下に倒れていた希乃のところに兄が駆け寄って来る。
「どうした! なんでこんなところに……! どこか痛むのか? 希乃……!」
 しきりに体をさすって声をかける兄に、希乃は悲痛な声を上げる。
「にいさま……ぁ! ごめ、ごめ……なさ……い……!」
「……希乃?」
 希乃は床に頭をすりつけるようにして謝る。
「関係、ないのに……! 私、妹じゃない……のに! お母様を、傷つけさせて、ごめ……なさい……!」
 何度も何度も謝る。ぽろぽろと涙が落ちてきて、床に染みを作る。
「忘れて、甘えて……わたし、わたし……」
 希乃は絞り出すようにその言葉を告げる。
「……お母様の、代わりに……死ねば、よか……」
「希乃」
 ふいに兄は希乃を強く腕に包んで、目を覗き込む。
「俺にはこの世界で、希乃より大事なものはないんだよ」
 そこに狂気的なほど澄んだ瞳をみつけて、希乃は一瞬喉を詰まらせる。
「あの女は死んではいない。でも、希乃が気に病むなら……今すぐ、殺してやろうか?」
「……にい、さま」
「痛みも苦しみも、俺が取ってやる。希乃が毎日楽しく過ごしてくれるのが俺の幸せだ。何度同じ時間に戻っても俺はあの女を撃つし、希乃を傷つけようとする者が現れたら、これからも何度だって同じことをするだろう」
 兄はくしゃりと顔を歪めて、希乃の涙に濡れた頬にそっと触れる。
「だから……な? 自分が死ねば、なんて言うな。そんなの、俺には一番つらい。万が一起こったときは俺は気が狂う。希乃、希乃……いい子だから、やめてくれ、な」
 兄は床に座り込んだまま、温めるように希乃を腕に抱いて、背中をさすり続ける。
 希乃がぎゅっと兄にしがみついても、落ち着くまで兄はそのままでいてくれた。そのなじみ深いぬくもりに、希乃は一生かかってもここから出られるようには思えなかった。
「……希乃。宝坂に、トラウマの場所を聞いたのか」
 やがて体を離して兄が告げた言葉に、希乃は首を横に振る。
「ちが……」
「宝坂が怒られると思ったんだな。大丈夫だ、叱らないよ」
 兄は落ち着いた声音で言って、希乃の心に添うように続ける。
「トラウマの場所を辿ってもいい。ただ行くときは俺が一緒だ。危ない時は俺が止める。それでどうだ?」
 優しい兄の言葉に、希乃は迷うようにうつむく。
「……うん。にいさまと一緒」
 やがてこくりとうなずいた希乃に、兄は安心したように希乃の頭を撫でたのだった。