宝坂は以前希乃の医師だったが、何かの事情で希乃の担当から外したと兄から聞いたことがある。
彼女は希乃との距離が近すぎたと兄は言っていた。「にいさまは希乃を独り占めしたいんだ」と笑った兄に、希乃もそれ以上を訊かないで受け入れていた。
だから宝坂は希乃の心の内を知っていると信じられた。希乃は宝坂にもらったメモを肩掛け鞄の奥に大事に仕舞って、帰りの車に乗り込んだ。
「噴水は楽しかったか?」
「うん……」
「はは、そうだな。足だけって約束だったのに、スカートの裾まで濡らして。しょうがないなぁ?」
宝坂の元を離れた後、急いで噴水に足を入れたために服を少し濡らしてしまった。でも兄はそんな希乃を怒るどころか愛おしそうに目を細めて、車の中で自ら着替えまでさせてくれた。
「ごめ、なさい……」
「教育的には怒るところなんだろうけどな。俺にはだめだ。希乃が楽しく遊んでたら、何でも許してやりたくなる」
今の希乃は兄の運転する車の後部座席で、所在なさげに丸くなっていた。そんな希乃をミラーごしに見ている、兄は上機嫌そのものだけれど。
「今度、もっと広いプールに連れて行ってやろうな。おもちゃをいっぱい浮かべて、おいしい果物とジュースを用意して。夏の海は日焼けするから連れて行ってやれないが、リゾートの気分がたっぷり味わえるホテルを貸し切ってやるからな」
次の遊びの計画を立てている兄の声を聞きながら、希乃はそうっと肩掛け鞄に手を触れた。
今すぐにメモの中身を見たい。でも兄に気づかれてしまったら、メモを取り上げられてしまって、宝坂も兄に叱られるかもしれない。
「希乃? ……ああ、寝たか」
目を閉じてじっとしていたら、兄が優しい声でつぶやくのが聞こえた。
「かわいい、かわいいのな……。遊び疲れて眠るなんて、前はなかった。……安心して子どもに戻れ、希乃。おもちゃも遊び場も、俺が全部用意してやるからな……」
それは深い慈愛の言葉だったけれど狂気もはらんでいて、希乃は目を閉じたまま震えた。
一度も目を開くことができないまま車は屋敷に着いて、兄が抱き上げようとしたところで希乃は自分で起き上がった。
「希乃、このままお昼寝しような?」
「ううん。勉強……しないと」
希乃が固い表情で答えると、兄は子どもを甘やかすように続ける。
「水に濡れて、思うより疲れているよ。勉強なんていつでもできるじゃないか。な? 抱いていってやるから」
兄はそう言って、希乃が歩くこともさせずに部屋まで抱いて連れて行った。
(私……このままじゃ、本当に子どもになっちゃう)
希乃は兄の腕の中で、水に濡れたせいではない寒気に襲われていた。兄は本気で希乃を子どもにしようとしていて、しかも希乃の体はそれに甘えようとしている。
その証拠に、希乃はまたうとうとし始めていた。ベッドに辿り着いたときは、兄の顔の輪郭もあいまいだった。
「や……」
ただ、兄が希乃の肩から鞄を抜き取ろうとしたとき、わずかに意識が冴えた。希乃はむずかるように肩掛け鞄を引き寄せる。
「ん……よしよし。取り上げないよ。希乃のお気にいりの千代紙が入ってるもんな。おやすみ……希乃」
兄はそれを希乃の子どもっぽい甘えだと見てくれたらしい。肩掛け鞄をそっと希乃の手に戻した。ブランケットをかけて、優しく頭を撫でて去っていった。
希乃はしばらく、どうにもならない眠気に飲まれようとしていた。まるで幼児の世界にいるように、眠気が頭を離れてくれない。そんな自分が恐ろしくなりながら、一生懸命体を起こそうとした。
早く起きないと、兄が戻って来てしまうかもしれない。……自分は永遠に、子どもの世界から出られないかもしれない。その恐怖心から、無理やり目を覚ました。
ベッドから抜け出したときは、五十分ほど経っていた。お昼寝の時間は希乃の体のために一時間ほどと兄が決めていて、もう少ししたら兄が様子を見に来てしまう。
希乃は廊下に人気がないのを確かめてから、恐る恐る肩掛け鞄の蓋を開いた。
宝坂は綺麗な字で、三つのトラウマの場所を記してくれていた。
「「一、西の離れ」……屋敷の中にも、トラウマの場所が、ある……?」
それは意外ではあったが、すぐにその場所に行けるなら幸運かもしれなかった。
「「二、カテリナ号化粧室」……カテリナ号は、にいさまが持ってる豪華客船、だ……」
この船も、兄に頼めば乗せてもらえるかもしれない。そう思って、最後の場所に目を走らせる。
「……三、青……」
そのとき、廊下から足音が近づくのが聞こえて、希乃はさっとメモを鞄に仕舞った。
慌てて代わりに千代紙を取り出して、折り紙で遊んでいるふりをする。
「希乃、よく眠れたか? ……希乃?」
戸口から顔を覗かせた兄は、つと眉を寄せて側に屈みこむ。
「どうした、冷えたか。あんまりいい顔色じゃないな」
「あ……」
希乃自身、自分に起きている変化に戸惑っていた。
トラウマの場所を口にしただけで震えている自分が、ひどく情けなく感じていた。
彼女は希乃との距離が近すぎたと兄は言っていた。「にいさまは希乃を独り占めしたいんだ」と笑った兄に、希乃もそれ以上を訊かないで受け入れていた。
だから宝坂は希乃の心の内を知っていると信じられた。希乃は宝坂にもらったメモを肩掛け鞄の奥に大事に仕舞って、帰りの車に乗り込んだ。
「噴水は楽しかったか?」
「うん……」
「はは、そうだな。足だけって約束だったのに、スカートの裾まで濡らして。しょうがないなぁ?」
宝坂の元を離れた後、急いで噴水に足を入れたために服を少し濡らしてしまった。でも兄はそんな希乃を怒るどころか愛おしそうに目を細めて、車の中で自ら着替えまでさせてくれた。
「ごめ、なさい……」
「教育的には怒るところなんだろうけどな。俺にはだめだ。希乃が楽しく遊んでたら、何でも許してやりたくなる」
今の希乃は兄の運転する車の後部座席で、所在なさげに丸くなっていた。そんな希乃をミラーごしに見ている、兄は上機嫌そのものだけれど。
「今度、もっと広いプールに連れて行ってやろうな。おもちゃをいっぱい浮かべて、おいしい果物とジュースを用意して。夏の海は日焼けするから連れて行ってやれないが、リゾートの気分がたっぷり味わえるホテルを貸し切ってやるからな」
次の遊びの計画を立てている兄の声を聞きながら、希乃はそうっと肩掛け鞄に手を触れた。
今すぐにメモの中身を見たい。でも兄に気づかれてしまったら、メモを取り上げられてしまって、宝坂も兄に叱られるかもしれない。
「希乃? ……ああ、寝たか」
目を閉じてじっとしていたら、兄が優しい声でつぶやくのが聞こえた。
「かわいい、かわいいのな……。遊び疲れて眠るなんて、前はなかった。……安心して子どもに戻れ、希乃。おもちゃも遊び場も、俺が全部用意してやるからな……」
それは深い慈愛の言葉だったけれど狂気もはらんでいて、希乃は目を閉じたまま震えた。
一度も目を開くことができないまま車は屋敷に着いて、兄が抱き上げようとしたところで希乃は自分で起き上がった。
「希乃、このままお昼寝しような?」
「ううん。勉強……しないと」
希乃が固い表情で答えると、兄は子どもを甘やかすように続ける。
「水に濡れて、思うより疲れているよ。勉強なんていつでもできるじゃないか。な? 抱いていってやるから」
兄はそう言って、希乃が歩くこともさせずに部屋まで抱いて連れて行った。
(私……このままじゃ、本当に子どもになっちゃう)
希乃は兄の腕の中で、水に濡れたせいではない寒気に襲われていた。兄は本気で希乃を子どもにしようとしていて、しかも希乃の体はそれに甘えようとしている。
その証拠に、希乃はまたうとうとし始めていた。ベッドに辿り着いたときは、兄の顔の輪郭もあいまいだった。
「や……」
ただ、兄が希乃の肩から鞄を抜き取ろうとしたとき、わずかに意識が冴えた。希乃はむずかるように肩掛け鞄を引き寄せる。
「ん……よしよし。取り上げないよ。希乃のお気にいりの千代紙が入ってるもんな。おやすみ……希乃」
兄はそれを希乃の子どもっぽい甘えだと見てくれたらしい。肩掛け鞄をそっと希乃の手に戻した。ブランケットをかけて、優しく頭を撫でて去っていった。
希乃はしばらく、どうにもならない眠気に飲まれようとしていた。まるで幼児の世界にいるように、眠気が頭を離れてくれない。そんな自分が恐ろしくなりながら、一生懸命体を起こそうとした。
早く起きないと、兄が戻って来てしまうかもしれない。……自分は永遠に、子どもの世界から出られないかもしれない。その恐怖心から、無理やり目を覚ました。
ベッドから抜け出したときは、五十分ほど経っていた。お昼寝の時間は希乃の体のために一時間ほどと兄が決めていて、もう少ししたら兄が様子を見に来てしまう。
希乃は廊下に人気がないのを確かめてから、恐る恐る肩掛け鞄の蓋を開いた。
宝坂は綺麗な字で、三つのトラウマの場所を記してくれていた。
「「一、西の離れ」……屋敷の中にも、トラウマの場所が、ある……?」
それは意外ではあったが、すぐにその場所に行けるなら幸運かもしれなかった。
「「二、カテリナ号化粧室」……カテリナ号は、にいさまが持ってる豪華客船、だ……」
この船も、兄に頼めば乗せてもらえるかもしれない。そう思って、最後の場所に目を走らせる。
「……三、青……」
そのとき、廊下から足音が近づくのが聞こえて、希乃はさっとメモを鞄に仕舞った。
慌てて代わりに千代紙を取り出して、折り紙で遊んでいるふりをする。
「希乃、よく眠れたか? ……希乃?」
戸口から顔を覗かせた兄は、つと眉を寄せて側に屈みこむ。
「どうした、冷えたか。あんまりいい顔色じゃないな」
「あ……」
希乃自身、自分に起きている変化に戸惑っていた。
トラウマの場所を口にしただけで震えている自分が、ひどく情けなく感じていた。


