橘若頭と怖がり姫

 日を数えて待っていた藍紀とのカウンセリングの日、兄が一緒に行くと言ったので、希乃の内心は慌てていた。
「にいさま……私、一人でだいじょうぶだよ」
「心配なんだ。最近の希乃はあんなに毎日遊んでいたプールもやめて、教科書なんて開いているだろう? 俺が希乃を不安にさせるようなことをしたんじゃないかと思ってな」
 希乃は兄に隠れて勉強をしていたが、それも知られていて焦る。兄は昔から目ざとく、特に希乃の変化はどんな小さなものでもみつけてしまうから、隠し事など何もできないのだった。
「希乃は俺の宝物だ。希乃に何かあったらと気が気じゃない。だから、な? にいさまのためだと思って、一緒に行ってくれ」
 優しく言う兄の心遣いをうれしく思う一方で、今は心を占める悩みを兄に知られたくないと思う。
 希乃の精神退行は兄のせいではないが、いつか兄に面倒をかけるという不安から悩んでいるのは事実だ。しかも兄は希乃が退行しても何も構わないと藍紀に言っていたから、余計に困るのだ。
 結局兄の車に乗せられて保養所に来て、二人で診察室に入る。
「この間は大したもてなしも出来ずに悪かったな。今度うちのワインセラーに案内するよ」
「ありがとうございます。弟たちもワインが好きなのでね。一緒にお邪魔しますよ」
 兄と藍紀はこの間の張りつめた空気が嘘のように和やかに話していて、希乃自身がこの間の話を聞いていたとは言い出せなかった。
 ただあいさつが終わると、兄は厳しい声で藍紀に相談を持ち掛けた。
「近頃の希乃はあまり遊ばなくなった。勉強を始めたり、家事をしたいと言い出したり、落ち着かない。突然、うちの子でいさせてほしいと言ったりもする。俺は、希乃を不安にさせているんだろうか?」
「ふむ……」
 藍紀と兄の会話を、希乃はどきどきしながら聞いていた。
(どうにか……藍紀先生と、ふたりきりで話したい……)
「最近は希乃が泣いていないから安心してしまっていた。希乃は……顔が笑っているだけで、心は泣いているんじゃないだろうか。俺は何を与えたら、希乃が他の何も替えられない大事な子で、何も不安に思うことがないと教えてやれるだろう?」
 兄の後半の言葉は自問のようだった。希乃はそれを聞いていて、兄に心配をかけていた事実に胸が締め付けられた。
「ううん……。にいさまが足りないところ、ないよ……。いっぱいいっぱい、愛情をくれて……私、安心だよ……」
 希乃は精一杯言葉を告げたが、兄は納得していないようだった。希乃を視界に収めながらも、藍紀に訊ねる。
「もっといつも一緒にいてやって、触れ合った方がいいだろうか? たとえば一緒に風呂に入ったり、眠ったり」
「あ、う……」
 希乃はそれを聞いて言いよどむ。側にいる時間が増えれば、兄の目から勉強を隠すことができなくなる。兄はきっと希乃に遊び道具をふんだんに与えて、ますます子どもに還してしまうだろう。
 どうしたら、兄から離れて藍紀と話せるだろう。どうしたら……そう頭を悩ませていたら、藍紀と目が合った。
 藍紀は鋭い目で希乃をみつめていて、何かを待っているように見えた。希乃がまなざしに気づいたのを見届けると、ふっとその目が窓の外に走る。
(……もしかして)
「にい、さま……」
「なんだ、希乃?」
 希乃はこくんと息を呑んで、思い切って窓の外を指さす。
「外……噴水、楽しそう。遊んできて、いい……?」
 希乃が恐る恐る告げると、兄は甘やかすように笑って希乃の頭を撫でる。
「なんだ、退屈したんだな? よしよし……いいよ、遊んでおいで。ただ日焼けしないように、帽子をちゃんと被ってな。人が見てるかもしれないから服は濡らしたらだめだぞ。水に浸るのは足だけって、にいさまと約束な?」
 まるで子ども扱いのその言葉に、希乃はもどかしい思いがしながらもうなずく。
 希乃は逸る気持ちを抑えながら、診察室を出た。そのまま廊下を歩いて、いつか来たことがあるおぼろげな記憶の方に向かう。
「……希乃さん?」
 そこは宿直室があって、宝坂が休憩していた。希乃はくしゃりと顔を歪めて、先生、と震え声で呼ぶ。
 宝坂は希乃を座らせようとしたが、時間がないからと、希乃は立ったまま言葉を投げかける。
「私、子ども還りしていて……どうしたらいいか、わからなくて……!」
 宝坂の目が鋭くなって、彼女も立ち上がる。希乃はそれに力を得て、知りたい情報を告げた。
「強いショックを与えたら元に戻るって、藍紀先生、言ってました……。痛くても、つらくてもいいです……。どんなことをしたら、私、元に戻るんでしょうか……!」
 宝坂はぐっと言葉に迷ったようだった。希乃がすがるようにみつめていると、宝坂は希乃に歩み寄って目を覗き込む。
「本当にいいのですか。希乃さんは、かつて酷い体と心の痛みで治療を受けました。ショックを与えるということは、その痛みが戻って来るということですよ」
 希乃は一瞬怯んだものの、ごくんと息を呑んで自分を落ち着かせる。
 希乃は顔を上げて、一生懸命に言葉を告げた。
「いい、です……。だって、にいさまに、面倒をかけたくない……! お願い、お願いします……!」
「……あなたは」
 宝坂は涼しげな面立ちを苦しそうに歪めて、ぽつりとつぶやく。
「あなたの世界は、お兄様によって狭められているというのに……その箱庭だけを、愛するのですね……」
 希乃はその言葉を理解した上で、受け入れた。小さく微笑んでうなずく。
「にいさまが、私の……ぜんぶ、だから。お願いします、先生……。教えて、ください……」
「希乃さん……」
 宝坂は迷った末、苦い口調で教えてくれた。
「……トラウマを、再現することです」
 希乃は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「治療は、あなたのトラウマを上書きしたものです。……命の危険があるので、決してトラウマの状況を完全に再現してはいけません。できるとしたらせいぜい、同じ場所に行くくらいでしょう」
「トラウマの場所に、行く……」
 それは一体、どこ……と問おうとしたとき、宝坂は廊下の方に目を走らせた。
 廊下を誰かが歩いて来る足音が聞こえた。兄と藍紀らしい声が重なって聞こえる。
 宝坂は急いで手元にメモをしたためると、希乃の手に握らせる。
「一人になったときに見てください。……あなたの意思が、実りますよう」
 そう言って、宝坂は奥に続く扉から抜けて出て行った。