橘若頭と怖がり姫

 自分に精神退行が起こっていると聞いて、希乃はここのところの生活をよく思い出そうとした。
 毎日は遊んで、ごはんを食べて、眠るという繰り返しで、それは小さな子どもの生活だと真っ先に気づいた。希乃の年頃なら必ずこなしているはずの、ある行為が全く無い。
(そう、だ……。勉強……してないし、働いてもいない……)
 希乃は病気がちで高校を退学したと兄から聞いていたが、今の希乃は独学すらしていない。家事もしておらず、もちろんアルバイトもしていない。
「あの……私、ごはん作るのとか……洗濯とか、手伝う……」
 けれど希乃がおずおずと厨房や洗濯場に行ったら、使用人は驚いた様子で首を横に振った。
「お嬢様にそんなことはさせられません! とんでもないことです」
「でも……私、働いてない、から……。ごめ、なさい、ずっと気づかなくて……」
 希乃が眉を寄せて謝ると、使用人は子どもを見守る目で微笑む。
「お嬢様はお体を大切になさって、よく食べて、眠って……いつも楽しいことをなさっていればいいのですよ。お嬢様が笑ってお過ごしなら、若頭は満足でいらっしゃいます」
 まるで子どもで構わないと言われているようで、希乃は困惑した。
 結局使用人は何一つ家事を希乃にさせてはくれなかった。とぼとぼと自室に戻る間、希乃は心に決める。
(せめて、勉強をしなきゃ……)
 自室に着くと、希乃は机の前に座って高校の教科書を開いた。
 高校に通っていた頃のことはおぼろげだが、国語や歴史が苦手で、生物や化学が好きだった気がする。そのどちらでもない数学は、退学してから時間が経ったとはいえ、多少は覚えているはずだった。
「……解け、ない?」
 ところが教科書に附属している問題がもどかしいほど解けない。ノートを見れば数か月前の自分は解いた形跡があるのに、思考回路がうまくつながらないようだった。
 焦って他の教科書を開いては問題を解いてみる。漢字や歴史の年号も思い出せない。でもそういう単純記憶より、数式の解き方のような複雑なものの違和感が強かった。決して苦手ではなかったはずなのに、見えない壁に思考がぶつかるように解けないのだ。
(やっぱり、退行……してる……)
 それに気づいて、しばらく震えが止まらなかった。恐怖が喉奥から這い上って来て、冷たい汗がこめかみに滲む。
(どうしたら止められる? どうしたら……!)
 これからも自分から知識や思考といったものが抜けていくとしたら、それはどこまで進むのだろうか。……もしかしたら、赤ん坊にまで戻ってしまうのでは。そう思ったとき、希乃は首を横に振っていた。
(……だめ! にいさまに、迷惑をかけてしまう……!)
 きっと優しい兄は、そんな希乃でも面倒を見ようとしてしまう。忙しくて、子どもを構っている暇などない人なのに。
(大人に、ならなきゃ……)
 希乃は兄の手を煩わせたくない一心で、それが正解かもわからないまま、かじりつくように問題を解き続けた。
「希乃、今日はプールで遊ばなかったんだってな。具合でも悪いのか?」
 夜、仕事から帰ってきた兄は気がかりそうに問いかけてきた。希乃は兄に心配をかけたくなくて、ふるふると首を横に振る。
「プール入ると、眠く……なっちゃうから。だいじょうぶ……元気、だよ」
「顔色が悪いな。熱でもあるんじゃないか」
 兄は希乃の額に触れてから、目を覗き込むように両頬を包む。
「……誰かに何か言われたのか?」
 希乃の目が揺れているのを見て取ったのか、兄は声を低める。希乃は慌てて否定しようとしたが、ふいに兄は言葉を重ねた。
「希乃、俺はいつだって希乃の味方だ。どうした? 何でも言ってごらん」
 手を差し伸べるような声色に、希乃の心がじわりと滲む。
 一日中、退行しているかもしれないと怯えながら勉強していて、体も心も疲れていた。張りつめていたものが、兄の言葉で氷解する。
「にいさま……私」
「ああ」
「一生懸命、お勉強する……家のお手伝いも、する。……だから」
 希乃は涙をこくんと飲んでつぶやく。
「……大人になる。だから、このおうちの子で、いさせて」
 兄はその言葉に一瞬だけ鋭い目をしたが、すぐに希乃に両腕を差し伸べた。
 兄は希乃を優しく腕に包み込んで、ぽんぽんと背をなでる。
「希乃はずっとうちの子だよ。勉強も家の手伝いも、何にも要らない。希乃がこうして俺を待っていてくれるだけでいい」
 希乃が肩を震わせていると、兄は落ち着かせるようにゆっくりと背をさする。
「……希乃がうちから出ようとしたって、決して離しはしない」
 その夜、兄は使用人を集めて、希乃を不安にさせるようなことをするなと叱責したらしい。
 後でそれを聞いた希乃は、誰にも何も言われていないと兄に訴えたけれど、兄は「希乃が心安く暮らせる家を整えるのが使用人たちの仕事だ」と柔くなだめられた。
 翌日、希乃のところにやって来た兄は、十冊ほどのスケッチブックと百種類ほどのクレヨンを携えていた。
「希乃、新しいお絵描き帳だよ。クレヨンも新しいのにしてやろうな。……そうだ、壁に描いてもいいように、お絵描き専用の部屋を作ってやろうか?」
 兄は希乃の子どものような遊びを止めるどころか、好んで遊べるよう惜しみなく与えるのをやめない。
(藍紀先生は……強いショックを与えれば、元に、戻るって……)
 希乃は藍紀の言葉を頼りに、明日に迫ったカウンセリングを待ち望んだ。