橘若頭と怖がり姫

 希乃が長く寝付いたという病気から目覚めて、一月が経った。
 季節は夏の終わりだった。外気が厳しい暑さに包まれる頃、希乃は庭のプールにいた。
「こーら、希乃。プールは一日一時間までだと言っただろう? こんなに体が冷えてるじゃないか」
「ひゃ……っ。にいさま、く、くすぐったい、よ……っ」
 兄にバスタオルで包まれて抱き上げられて、希乃は笑い声交じりに震える。
 今年の夏は、兄が希乃のために作ってくれたプールで遊ぶのが楽しかった。庭に設置されたそれは希乃が日焼けしないようにひさしで覆われて、転んだり怪我をしないように大理石で組み立てられた立派なものだ。
「にいさまとの約束を守らなかったな。そういう悪い子にはどうするか覚えてるか?」
 希乃の泳ぎは拙いが、希乃がしているのは水風船やおもちゃの動物を浮かべての他愛ない水遊びだ。そんな遊びに夢中になる希乃に、兄はくすくす笑いながらからかう。
 希乃はこくんと喉を鳴らして、そろそろと問いかける。
「……おやつ抜きの刑?」
「いいや、希乃にはいっぱい食べさせたい。……お布団でお昼寝の刑だ」
 兄の言葉を聞いて、希乃はしゅんと顔をしぼませる。
「私、もう元気……だもの。お昼寝、しなくても……」
「だめだ。プールの後は座ったままうとうとしてるだろう? 体は思うより疲れてるんだ。お布団で寝なさい」
 希乃を抱える兄の足は、既に希乃の部屋の方に向いている。希乃はどうすることもできずに、そのまま連れて行かれた。
 希乃は部屋に隣接する風呂場に入って、最後の抵抗とばかりにつぶやく。
「だって……最近、気づくと眠たくて……遊べない……」
「大病を患ったばかりなんだ。そういうこともあるさ」
 兄は苦笑して、ほら、ばんざいは?と促す。
 希乃はそろそろと手を上げると、手慣れた兄にあっという間にパジャマに着替えさせられてしまった。
 兄によって布団に入れられた希乃は、もうだいぶまぶたが重かった。添い寝する兄は、愛おしそうに目を細めて希乃を見下ろす。
「今日もよく遊んだな……おやすみ、希乃」
 大きな手でそっと髪を梳かれて、希乃はその心地よさの中で意識を手放した。
 遊んで、ごはんを食べて、眠って……希乃の毎日は、揺り籠にいるように穏やかだった。
――それでいいんだよ。希乃が笑ってるのが何よりだ。
 心を引っかかれることも、痛みに泣くこともない。兄がとても満ち足りた表情でそう言うから、希乃もうれしかった。
 それでいいのかなと小さな疑問を抱くこともある。私は本当に昔からこうだったのかなと思いを馳せることも。ただそういうとき、頭はもやがかかったようになって、気が付くとうとうとしている。
 そうするとベッドで目が覚めて、兄が眠ってしまった希乃をベッドに戻してくれたのを知る。それで兄は希乃に笑うのだ。
――おはよう、希乃。今日もにいさまと遊ぼうな?
 ……どこかに何かを忘れてきたような、そんな違和感は気のせいだろうか?
 希乃が昼寝から目覚めたとき、辺りは少し暗くなり始めていた。ひぐらしの声が遠くで響いていて、庭木が風にさざめく音が聞こえていた。
 夕食までまだ少し時間がある。部屋で遊んでいてもよかったのだが、喉が渇いていた。希乃はベッドを抜け出して、廊下に出た。
 渡り廊下を歩いて台所に向かう途中、客間の方の灯りが気になった。誰か来ているのだろうかと、普段はさほど気にしないのになぜか意識が引かれた。
「……では、希乃の心は子どもに還っているということか」
 兄の声が聞こえて、希乃はぴくりと肩を震わせる。
 希乃の中の何かの感情の弦が、兄の言葉に反応する。
「そうです。以前お話ししたとおり、治療の副作用として精神年齢の退行が起こることがあります。先日の希乃さんの心理テストで、その傾向が見られました」
 兄と対面しているのは、医師の藍紀のものだった。希乃は週に一度、藍紀の元でカウンセリングを受けていて、確かに先週心理テストを受けていた。
 精神年齢の退行。それが自分に起こっていると聞いて、希乃の中にひやりとした恐怖が忍び寄る。
「最近、以前は見向きもしなかった折り紙やお絵描きに夢中になっていて、よく……眠るようになったなとは、思っていたが……」
 兄は記憶を辿るように言って、ひととき考えに沈んだようだった。
 ただ考え込んだ時間はそれほど長くなかった。ふっと息を漏らして、兄は笑ったようだった。
「……いいさ」
「司さん?」
「希乃が元気に笑っている。今が幸せな証だ。精神退行のどこが悪い?」
 兄は晴れやかに言って、機嫌よく言葉を続ける。
「希乃は希乃だ。子どもになったって、赤ん坊になったって、かわいいうちの子だ。俺がずっと世話をする。今のままでいい」
「ご本人の意見も聞いてみた方がいいのではないでしょうか」
 藍紀の方は兄と同じ意見ではなかったようで、やんわりと異論を述べる。
「強いショックを与えれば、今なら元に戻る可能性も高いです。このままだと、年齢退行が進んで……」
「……希乃の心を乱すことは許さねぇ、藍紀」
 兄はふいに声を低めて鋭く告げる。
「今の希乃は何にも怯えていない。泣いていない。……食事も摂れないほど痩せて弱っていくなど、二度と繰り返さない。これ以上干渉するなら、希乃はもうお前の保養所に通わせないが、いいか」
「しかし……」
 藍紀は何か言おうとして口をつぐむ。それを見て、兄は淡々と宣告した。
「賢明だな。……そうだ。俺から希乃を取り上げようとするなら、命は無いと思え」
 希乃は夏だというのに足元から震えが走って来て、考えるより踵を返していた。
 どくんどくんとうるさく鳴る心臓の音を聞きながら、足早にその場を後にする。
 このままだと、年齢退行が進む……強いショックを与えれば、今なら……。
(どうしよう、どうしよう……)
 兄と藍紀の言葉が、鈍い痛みを持って頭に響いていた。