橘若頭と怖がり姫

 保養所で初潮を迎えた希乃は、自分の体の変化に戸惑っていた。
 それは自然な体の変化であるはずなのに、自分の体が自分のものではないようで、怖いとさえ思った。希乃に女性の体の仕組みを教える身近な女性もいなかったから、初めて直面した事態に混乱した。
「希乃、帰るぞ。手を……希乃?」
 藍紀が治療の延期を告げた後、兄はいつものように希乃の手を取ろうとした。
 けれど希乃はびくんと過剰に反応して、怯えたように距離を取る。
「ごめ……にいさま。なんだか、私……くさい、気がする、の……」
 兄と手をつなぐのも抱き上げられるのも当たり前なのに、今は兄に触れてほしくなかった。自分の体が汚いものになったようで……先ほどお手洗いで感じた血の匂いが、鼻について仕方がない。
 兄は怪訝そうに眉を上げて、少し屈みこんで希乃と目線を合わせながら言う。
「希乃……そんなの俺は感じないよ。ごめんな、変なこと言ったのは謝る。希乃はずっと希乃で、初潮くらいで変わらない。……な? だからいつもみたいに手をつないで、俺と帰ろう?」
 兄は優しく手を差し伸べたが、希乃はどうしてもその手を取れなかった。すがるような目で兄の手をみつめながらも、怖がって距離を取るばかりだった。
「希乃、いい子だから……」
 しびれを切らした兄は、子どもをあやすような力加減で希乃の手をつかんだ。それだけだったのに、希乃は全身でぶるぶると震え出していた。
「ぅ、えっく、えぅ……っ」
 希乃は冷たい汗を額から流して、引きつるように泣きだす。さすがに兄も希乃の精神状態が尋常でないと気づいたのか、顔をしかめて藍紀や宝坂に視線を送った。
「……今夜はここで希乃さんをお預かりしてもいいですか。今はお兄様と距離を置かれた方がいいかと」
 宝坂の声は平静に戻っていたが、心配がこもっていた。藍紀も、それがいいでしょうと言うようにうなずく。
「希乃を置いてなど……」
 兄は険しい目で否定の言葉を口にしようとしたが、希乃の目は人形のように感情が無くなりつつあった。呼吸だけはひゅうひゅうと細く、今にも発作が起きそうな危険な予兆だった。
 兄は喉の奥でうなると、一度きつく目を閉じて希乃の手を離す。
「……部下を置いていく。明日の朝には迎えに来る」
 兄は一歩離れたところから、希乃の顔をのぞきこんで言う。
「希乃、お前は俺の一番大事な子だ。いつだってかわいくてかわいくて、本当は懐に入れていつも連れて行きたい。でもお前に泣いてもほしくないから、今日は離れて帰るよ。……だから顔を上げてくれないか」
 兄はそう告げて、おずおずと顔を上げた希乃とようやく目が合うと、ほっとしたように笑った。
「ほら、俺はいつも通りだろう? 怖くない、な? 今日は体を温めて、ゆっくり休むんだよ」
 兄は切ない目をして、希乃に触れることなくそのまま病室を後にした。
 希乃はまだ震えていたが、宝坂に促されてベッドに座り直す。
「希乃さんは学校を休みがちで、身近な年上の女性もいないのでしたね。……少し体の変化について、説明しましょう」
 藍紀は了解したように部屋を出て行って、それから希乃は宝坂に初潮の仕組みを教えてもらった。
 おぼろげだった知識が形になると、得体の知れない恐怖は和らいだ。いつも排泄をするところから血が流れるなんて汚いと思っていたけれど、それだって子どもを産むためには大切な体の変化なのだと教えてもらった。
 子どもを産む。その言葉を聞くと、希乃には自分なんかがと卑屈な思いがこみ上げる。
――子どもに子どもを産ませるわけにはいかねぇからな。
 失くした記憶の向こう、いつか兄がそう言っていて、希乃は傷ついたような気がするのだ。
 けれど宝坂の話によると、今の希乃は子どもを産むことも可能……だと言う。
 それを遮るのは、希乃の中の兄への感情だ。
(血のつながりは、なくても、私とにいさまは……きょうだい、なのに……)
「余計なことをしてごめんなさいね、希乃さん」
 ふいに沈黙を破って宝坂が言った。希乃ははっとして顔を上げる。
「お兄様を叩いて、声を荒らげたりして。希乃さんの思いは、希乃さんしかわからないのに」
「そ、そんな」
 希乃の目に映ったのは、凛とした面立ちを陰らせた宝坂の表情だった。希乃は慌てて言葉を返す。
「宝坂先生が、言って、くださらなかったら……私、だめに、なってました……。私には、にいさまを拒絶することは、できなくて……でも、心は痛くて……体と心が、引き裂かれてしまうかと、思って」
 希乃は、兄に身を差し出せと言われたら従ってしまう確信があった。それが自分の感情に添うのかわからないまま、子どもさえ産んでしまうのかもしれない。
 ひとえに今までそうならなかったのは、希乃の体が子どもだったのと、兄が希乃を子ども扱いしていたからに他ならない。でもそのうち一つは崩れてしまった。あとは、兄が希乃をどう扱うかだけなのだ。
「にいさまは、好き……。でもにいさまは、他に素敵な人、いっぱいいて……。私はいずれ、家を、出て……」
 そこまで言葉にしたところで、希乃の頭はきゅうっと痛くなった。
――希乃はどこにも行かない。希乃の全部は、俺のものだから。
 兄の暗示のような言葉が耳に蘇る。いつ、どこで言われたのかもわからないのに、心に根付いている。
「だって……私なんて、欲しく、な……」
 誰にともなく問いかけたとき、兄が喉の奥で笑った声を聞いた気がした。
――希乃。……かわいいのな、お前は。
 後ろから兄に抱きしめられたように、全身が震えて熱を帯びた。
 まるで髪の先から足の指まで支配されているように、ぼうっと虚空を眺める。
(離れていても……にいさまは、私の、全部……)
 それは健全な兄妹の感情とはいえない。けれどどこからまちがってしまったのか、今となってはわからない。
 けれどふいにそっと手を取られて、希乃の思考は外から遮られる。
「明日、お兄様は私を希乃さんの担当から外すでしょう」
 宝坂はそう断言してから、息を呑んだ希乃の目を見て告げる。
「だから、医師としてはこれが最後ですので……ひとつ、話を聞いてくれますか。あなたと同じように「治療」を受けた、ある患者の話です」
「……はい」
 希乃がこくりとうなずくと、宝坂は目を和らげた。
 それから彼女は医師というより、一人の女性のように話し始めた。