真新しい植物図鑑が自室の本棚に収まった日の三日後、希乃は心理療法を受ける施設に連れて行かれた。
兄が連れてきたのは丘の上の保養所で、温かな木造りの建物と、薔薇の咲き乱れる浮世離れしたところだった。迎えてくれた若い医師の藍紀と宝坂も優しく穏やかで、希乃を安心させた。
「この治療を繰り返すのはあまり望ましくありません。副作用で、心が弱る事例もあります」
ただ藍紀はあからさまに兄に苦言を呈した。どうやら希乃が病気をわずらう前に受けた「治療」は相当精神に負荷をかけるものだったらしく、それを再度希乃に施すのは危険もあると言っていた。
「前は今にも壊れそうな精神を救う緊急措置でした。現在は落ち着いていらっしゃるのではないですか?」
「前」というのがいつなのか、希乃は覚えていない。今にも壊れそうだったというけど、何が起こったのかも知らない。
けれどそれに答える兄の声は、おそらく前と同じで揺るがないものだった。
「希乃の心が弱ったら、俺がいつも抱きしめて安心させてやる。俺は希乃に幸せな子ども時代を上書きして、実際の過去なんて忘れさせてやりたい。……最初からうちの子だったように、もう一度育んでやりたいんだ」
兄は希乃が子どもじみた話し方や態度でいても、責めたことは一度もない。ただ慈しみの目で希乃を見て、そっと包んでくれた。
「私、も……」
希乃が自分から言葉を挟むことはひどく珍しかったが、思わず声を上げていた。
「にいさまの、妹として……やり直せるなら。治療、受けたい、です……」
その言葉に反応したのは藍紀だけでなく、もう一人の女医の宝坂もだった。宝坂は今まで責任者の藍紀が話すのに任せていたが、はっとして希乃をみつめる。
「希乃さんがはっきりと希望を口にされたのは、初めてのことですね」
希乃は自分に集中する皆の視線に緊張しながら、おずおずと答える。
「私……にいさまの妹で、いられるなら……他になんにも、いらない……から」
希乃は宝坂の目をみつめて、前にもこの先生にいろいろなことを話したような気がしていた。
先生は兄のように甘やかすのではなかったけれど、辛抱強く、希乃がどんなに詰まってもうまく話せなくても、希乃の心の内を聞いてくれたと思う。
「治療を受けて、ずっと、にいさまと……きょうだいで、いたい……です」
希乃がもう一度言葉を告げると、宝坂は切ないような目をしてうなずく。
宝坂は決意したように上司の藍紀を振り向いて言った。
「……先生。ご本人が望んでいらっしゃるなら、心にかかる負荷は少ないかと」
「そうですね、確かに……」
宝坂が希乃の心に添った言葉を告げると、渋っていた藍紀も考え直してくれたようだった。
「……わかりました。治療を施しましょう。少し準備をしますので、希乃さんは宝坂先生と別室に移ってください。お兄様はここで私と打ち合わせましょう」
希乃は希望が叶うことにほっと安堵して、立ち上がろうとした。
……と、そのとき貧血のような感覚が襲って、希乃はかくんと膝が折れる。
「希乃っ!」
とっさに兄がすくい上げるように希乃を抱えて、倒れることはなかった。
「ゃ……っ」
ただ希乃は一瞬兄が抱え上げた足の下に、何か嫌な湿った感触を抱いた。ひくっと震えて、希乃は慌てて兄から離れる。
「どうした、希乃? 貧血か?」
兄は希乃を床に下ろしたが、腰に手を回したまま離さなかった。そのことに、今はじっとりと嫌な汗がにじむ。
「顔色がよくない。朝もあまり食べてなかったな。気分は?」
「にい、さま……」
希乃はなぜだか兄に触れていてほしくなくて、身をよじって体を引こうとする。
なんだか気分が悪く、血のめぐりも悪い。それならたびたびある貧血なのだろうけど、それより下腹部が気になる。
「せんせい……宝坂、先生」
希乃は弱弱しく兄の手を振り払うと、とっさに宝坂に手を伸ばしていた。
宝坂は驚いた様子ではあったが、希乃が目線だけで下を示すと、察したように希乃の手を取る。
「お兄様、少し希乃さんをお借りします。……どうぞ、希乃さん。こちらへ」
そう言って、宝坂は希乃を別室に連れて行ってくれた。希乃は兄から離れるというのに今はそれが安心で、大きく息を吐いていた。
三十分ほど後、希乃が宝坂に付き添われて休む病室に、兄と藍紀がやって来た。
「希乃はどうしたんだ。何の病気だ?」
兄が険しい表情でたずねると、宝坂はそっとベッドに横たわる希乃に視線を投げかける。
希乃はためらいながら、そろそろとその事実を告げた。
「心配、かけて……ごめん、なさい。……私……初潮が、来た、の」
後半は恥ずかしさに尻すぼみになってしまった。
十八歳になって初潮は、ずいぶんと遅い。それもこんな人が集まるところで、皆に心配をかけて、恥ずかしくてたまらなかった。
けれどそれを聞いたときの兄の反応は、希乃が想像していたものとは違った。
「……希乃に、初潮?」
兄はてっきり、なんてことない、よく休めば治るとなだめると思っていた。希乃を子ども扱いして、慈しんで守ってきたのが、今までの兄だった。
ところが兄はとろりと溶けるような甘い目をして、思わずといった様子でつぶやいた。
「女の体に、なった……。だったら……俺の子ども、産めるのか……?」
その言葉は抱えきれない喜色があって、希乃を困惑させる。
「にい、さま……?」
「希乃、希乃……! 夢じゃないんだな? 俺は、お前に似た子どもを抱くことができるかもしれないんだ……!」
そのままきつく抱きしめてくる兄に、希乃は目の前が点滅する。
(私と……にいさまは、きょうだい……。ずっと、変わらない……はず、なのに?)
頭の中に染みこんだ概念が、濁った渦になって訳が分からなくなる。
(じゃあ……私、妹じゃ、ない……?)
「……う、ぁぁ!」
そう思った途端、頭が張り裂けるくらいに痛んで、希乃は涙をあふれさせていた。
悲痛な声を上げた希乃に、兄が少し腕を緩めようとしたときだった。
「妹に何を言うんです! 恥を知りなさい!」
ぱんっと張りつめたような音が聞こえて、兄がのけぞった。
見れば希乃を後ろに庇うようにして、宝坂が間に入って来ていた。振り上げた手を下ろしたところで、兄に平手打ちをしたのだと遅れて気づいた。
「欲望さえあれば感情のない相手でも抱ける男とは訳が違う! 長年の信頼関係を踏みにじっても何も感じないのですか? 振り回される妹さんの身にもなってください!」
宝坂の小柄な背中が怒りで震えていた。希乃はにじんだ視界でもそれがわかって、兄以外の誰かから庇われたことにただ驚く。
兄も物静かに見えていた宝坂の激情に、わずかに怯んだようだった。宝坂の背中に隠れて顔は見えないが、ごくっと息を呑んだ気配がした。
「仰ることはまったく同感……ですが。宝坂先生、暴力はいけませんよ」
最初に声を上げたのは藍紀で、彼は仲裁者らしい落ち着きで間に入って来る。
「ひとまず今日の治療は延期しましょう。……希乃さん、お兄様、それでいいですか?」
藍紀の言葉に希乃はとっさにうなずいていて……兄も一拍の沈黙の後、了解を示したのだった。
兄が連れてきたのは丘の上の保養所で、温かな木造りの建物と、薔薇の咲き乱れる浮世離れしたところだった。迎えてくれた若い医師の藍紀と宝坂も優しく穏やかで、希乃を安心させた。
「この治療を繰り返すのはあまり望ましくありません。副作用で、心が弱る事例もあります」
ただ藍紀はあからさまに兄に苦言を呈した。どうやら希乃が病気をわずらう前に受けた「治療」は相当精神に負荷をかけるものだったらしく、それを再度希乃に施すのは危険もあると言っていた。
「前は今にも壊れそうな精神を救う緊急措置でした。現在は落ち着いていらっしゃるのではないですか?」
「前」というのがいつなのか、希乃は覚えていない。今にも壊れそうだったというけど、何が起こったのかも知らない。
けれどそれに答える兄の声は、おそらく前と同じで揺るがないものだった。
「希乃の心が弱ったら、俺がいつも抱きしめて安心させてやる。俺は希乃に幸せな子ども時代を上書きして、実際の過去なんて忘れさせてやりたい。……最初からうちの子だったように、もう一度育んでやりたいんだ」
兄は希乃が子どもじみた話し方や態度でいても、責めたことは一度もない。ただ慈しみの目で希乃を見て、そっと包んでくれた。
「私、も……」
希乃が自分から言葉を挟むことはひどく珍しかったが、思わず声を上げていた。
「にいさまの、妹として……やり直せるなら。治療、受けたい、です……」
その言葉に反応したのは藍紀だけでなく、もう一人の女医の宝坂もだった。宝坂は今まで責任者の藍紀が話すのに任せていたが、はっとして希乃をみつめる。
「希乃さんがはっきりと希望を口にされたのは、初めてのことですね」
希乃は自分に集中する皆の視線に緊張しながら、おずおずと答える。
「私……にいさまの妹で、いられるなら……他になんにも、いらない……から」
希乃は宝坂の目をみつめて、前にもこの先生にいろいろなことを話したような気がしていた。
先生は兄のように甘やかすのではなかったけれど、辛抱強く、希乃がどんなに詰まってもうまく話せなくても、希乃の心の内を聞いてくれたと思う。
「治療を受けて、ずっと、にいさまと……きょうだいで、いたい……です」
希乃がもう一度言葉を告げると、宝坂は切ないような目をしてうなずく。
宝坂は決意したように上司の藍紀を振り向いて言った。
「……先生。ご本人が望んでいらっしゃるなら、心にかかる負荷は少ないかと」
「そうですね、確かに……」
宝坂が希乃の心に添った言葉を告げると、渋っていた藍紀も考え直してくれたようだった。
「……わかりました。治療を施しましょう。少し準備をしますので、希乃さんは宝坂先生と別室に移ってください。お兄様はここで私と打ち合わせましょう」
希乃は希望が叶うことにほっと安堵して、立ち上がろうとした。
……と、そのとき貧血のような感覚が襲って、希乃はかくんと膝が折れる。
「希乃っ!」
とっさに兄がすくい上げるように希乃を抱えて、倒れることはなかった。
「ゃ……っ」
ただ希乃は一瞬兄が抱え上げた足の下に、何か嫌な湿った感触を抱いた。ひくっと震えて、希乃は慌てて兄から離れる。
「どうした、希乃? 貧血か?」
兄は希乃を床に下ろしたが、腰に手を回したまま離さなかった。そのことに、今はじっとりと嫌な汗がにじむ。
「顔色がよくない。朝もあまり食べてなかったな。気分は?」
「にい、さま……」
希乃はなぜだか兄に触れていてほしくなくて、身をよじって体を引こうとする。
なんだか気分が悪く、血のめぐりも悪い。それならたびたびある貧血なのだろうけど、それより下腹部が気になる。
「せんせい……宝坂、先生」
希乃は弱弱しく兄の手を振り払うと、とっさに宝坂に手を伸ばしていた。
宝坂は驚いた様子ではあったが、希乃が目線だけで下を示すと、察したように希乃の手を取る。
「お兄様、少し希乃さんをお借りします。……どうぞ、希乃さん。こちらへ」
そう言って、宝坂は希乃を別室に連れて行ってくれた。希乃は兄から離れるというのに今はそれが安心で、大きく息を吐いていた。
三十分ほど後、希乃が宝坂に付き添われて休む病室に、兄と藍紀がやって来た。
「希乃はどうしたんだ。何の病気だ?」
兄が険しい表情でたずねると、宝坂はそっとベッドに横たわる希乃に視線を投げかける。
希乃はためらいながら、そろそろとその事実を告げた。
「心配、かけて……ごめん、なさい。……私……初潮が、来た、の」
後半は恥ずかしさに尻すぼみになってしまった。
十八歳になって初潮は、ずいぶんと遅い。それもこんな人が集まるところで、皆に心配をかけて、恥ずかしくてたまらなかった。
けれどそれを聞いたときの兄の反応は、希乃が想像していたものとは違った。
「……希乃に、初潮?」
兄はてっきり、なんてことない、よく休めば治るとなだめると思っていた。希乃を子ども扱いして、慈しんで守ってきたのが、今までの兄だった。
ところが兄はとろりと溶けるような甘い目をして、思わずといった様子でつぶやいた。
「女の体に、なった……。だったら……俺の子ども、産めるのか……?」
その言葉は抱えきれない喜色があって、希乃を困惑させる。
「にい、さま……?」
「希乃、希乃……! 夢じゃないんだな? 俺は、お前に似た子どもを抱くことができるかもしれないんだ……!」
そのままきつく抱きしめてくる兄に、希乃は目の前が点滅する。
(私と……にいさまは、きょうだい……。ずっと、変わらない……はず、なのに?)
頭の中に染みこんだ概念が、濁った渦になって訳が分からなくなる。
(じゃあ……私、妹じゃ、ない……?)
「……う、ぁぁ!」
そう思った途端、頭が張り裂けるくらいに痛んで、希乃は涙をあふれさせていた。
悲痛な声を上げた希乃に、兄が少し腕を緩めようとしたときだった。
「妹に何を言うんです! 恥を知りなさい!」
ぱんっと張りつめたような音が聞こえて、兄がのけぞった。
見れば希乃を後ろに庇うようにして、宝坂が間に入って来ていた。振り上げた手を下ろしたところで、兄に平手打ちをしたのだと遅れて気づいた。
「欲望さえあれば感情のない相手でも抱ける男とは訳が違う! 長年の信頼関係を踏みにじっても何も感じないのですか? 振り回される妹さんの身にもなってください!」
宝坂の小柄な背中が怒りで震えていた。希乃はにじんだ視界でもそれがわかって、兄以外の誰かから庇われたことにただ驚く。
兄も物静かに見えていた宝坂の激情に、わずかに怯んだようだった。宝坂の背中に隠れて顔は見えないが、ごくっと息を呑んだ気配がした。
「仰ることはまったく同感……ですが。宝坂先生、暴力はいけませんよ」
最初に声を上げたのは藍紀で、彼は仲裁者らしい落ち着きで間に入って来る。
「ひとまず今日の治療は延期しましょう。……希乃さん、お兄様、それでいいですか?」
藍紀の言葉に希乃はとっさにうなずいていて……兄も一拍の沈黙の後、了解を示したのだった。


