兄に図鑑を奪われたとき、希乃が抱いたのはただ不安だった。
図鑑を探していた理由よりもずっと、兄の気に障ることをしてしまった事実の方が重かった。
だって、希乃の世界は兄しかいなくて、そして希乃が一番恐れるのは兄に嫌われることだった。
「……理由、わからないの」
希乃は力を失ったように空虚な目になって、罪を告白する心地で言った。
「前に、本棚に……あったような気がしたけど、はっきり、覚えてない。……亡くなった、お父さんと、お母さん……みたいな……」
肩を落として、迷子のように話す希乃の姿は泣くより悲痛に見えた。
「にいさまの……気に障ったら、ごめ……なさい。ちがう……欲しいわけじゃ、ない……の。ごめ……ごめ、なさい」
「……希乃、いい。もういいんだ」
兄は繰り返し謝る希乃を遮るように、そっと希乃の頬に触れる。
「俺こそ、びっくりさせてごめんな。……これはな、希乃に心の傷をつけた本なんだよ」
「心の、傷……?」
兄はうなずいて、片手には先ほどの図鑑を、もう片方の手で希乃の手を取る。
「おいで。座って、何か飲みながら話そうな」
優しくそう言って、兄は希乃の手を引いて歩き出した。
本屋の一階には黒を基調にしたソファー席があって、兄は先ほどまでそこで海外の雑誌を読んでいたようだった。兄は部下に言って雑誌を下げさせると、手の届くすぐ隣に希乃を座らせて、飲み物を頼む。
まもなく兄にはコーヒーが、希乃にはココアが運ばれてきたが、希乃は兄の先ほどの言葉が気になって手をつけられなかった。兄はそんな希乃をなだめるようにぽんと頭を叩くと、言葉を切り出す。
「大丈夫だ、怖くない。もう終わったことなんだ。今の希乃は俺のたった一人の妹で、橘家の子だ。どこにもやったりしないし、誰にも傷つけさせない」
兄はそこでちらと、ローテーブルに置いた植物図鑑を見やる。
「ただ、俺の元に来る前の希乃にはひどいことをする奴がいた。家族という名前の元、子どもの希乃を叩いたり、食事を与えなかった。……それが希乃の父親と、その家族だ」
「お父さ、ん……?」
希乃が兄の言葉に震えると、兄は憎そうに顔をしかめて言う。
「虐待していたんだ、希乃を。かわいそうに、俺のところに来た希乃は同い年の子どもの半分ほどの体重もなくて、表情も乏しく、言葉も遅れていた。何日も洗ってないような服を着て……ぼろぼろの植物図鑑だけを持っていた」
希乃はごくんと息を呑む。兄の言う過去を、希乃は覚えていない。けれどぼろぼろの植物図鑑という言葉は、記憶のどこかに引っかかっている。
「お父さんのこと、覚えて、ない……」
希乃がくしゃりと泣きそうに顔を歪めると、兄は包み込むような目で希乃をのぞきこんで言う。
「それでいいんだよ。……父親とその家族は、希乃のトラウマなんだ。体も心も、いっぱい傷ついた。だから心理療法を受けさせたりして、記憶をそっと眠らせたんだ」
ずっと兄と二人だけの世界にいたような気持ちでいた。だからその外の世界のことを聞いて、希乃は信じられないような思いがした。
「お母さん、は……」
希乃が良くない想像をしながら問いかけると、兄は先ほどまでの憎む顔とは違う表情をして言った。
「生きてはいるが、希乃以上に心と体の不安定な人だからな。橘家の看護の元、静養されているよ。……希乃はいい子だから、そっとしておいてあげような」
希乃は介護の仕事を探していた理由が、少しわかった気がした。きっと病気をする前、希乃はそんな母の助けになりたいと思ったのだ。
希乃はローテーブルに置かれた植物図鑑を見る。希乃を虐待していたという父親とその家族。その家から持ってきたたった一つの植物図鑑。どうにかして捨てたいと願うもののはずなのに……目にすると、抱きしめたいとさえ思ってしまう。
希乃が泣きそうな目で植物図鑑をみつめていると、ふいに兄が言った。
「これは今日、希乃に買ってやる」
希乃は驚いて兄を振り向く。
「で、も……」
「俺が買ってやるなら何も問題はないだろう? 小さな希乃が大好きだったものなんだ。俺はいつだって、希乃をいっぱいいっぱい、好きなもので囲んでやりたいと思う」
兄はそう言って、少し心配そうに首を傾ける。
「でもな、俺は希乃がまだトラウマを覚えてたのが心配だ。だから……病気をする前の心理療法を、また受けてくれないか?」
「にいさま……」
兄の気遣いを、希乃は痛いほど感じた。今だって、兄は希乃が何にも傷つかないように大切に大切に守ってくれている。心理療法というものがどういうものかはわからないけれど、兄に元気になった姿を見せることができるのなら……と思った。
「……うん。治療……受けるの」
希乃がこくりとうなずくと、兄は安堵したように笑う。
「そうか……いい子だ。希乃にとびきりの笑顔を取り戻させてやる」
兄は希乃を引き寄せて腕に収めると、声を低めてつぶやく。
「……過去だって、上書きしてやるからな」
背中をなでて笑った兄の声が狂気じみて聞こえて、希乃は一瞬息を止めた。
あの植物図鑑は本当に忌む記憶のものだったか……少しだけ、わからなくなった。
「さ、他にもたくさん本を買ってやろう。何がいい?」
体を離した兄はいつも通り甘く笑っていて、一瞬の疑問はかき消える。
「おいで、希乃。ここは俺と希乃だけの世界だよ」
病気になる前にも受けていたという心の治療、それに小さな不安はあるけれど、兄が笑っていてくれるのなら受け入れよう。そう思いながら、兄に手を引かれて立ち上がった。
図鑑を探していた理由よりもずっと、兄の気に障ることをしてしまった事実の方が重かった。
だって、希乃の世界は兄しかいなくて、そして希乃が一番恐れるのは兄に嫌われることだった。
「……理由、わからないの」
希乃は力を失ったように空虚な目になって、罪を告白する心地で言った。
「前に、本棚に……あったような気がしたけど、はっきり、覚えてない。……亡くなった、お父さんと、お母さん……みたいな……」
肩を落として、迷子のように話す希乃の姿は泣くより悲痛に見えた。
「にいさまの……気に障ったら、ごめ……なさい。ちがう……欲しいわけじゃ、ない……の。ごめ……ごめ、なさい」
「……希乃、いい。もういいんだ」
兄は繰り返し謝る希乃を遮るように、そっと希乃の頬に触れる。
「俺こそ、びっくりさせてごめんな。……これはな、希乃に心の傷をつけた本なんだよ」
「心の、傷……?」
兄はうなずいて、片手には先ほどの図鑑を、もう片方の手で希乃の手を取る。
「おいで。座って、何か飲みながら話そうな」
優しくそう言って、兄は希乃の手を引いて歩き出した。
本屋の一階には黒を基調にしたソファー席があって、兄は先ほどまでそこで海外の雑誌を読んでいたようだった。兄は部下に言って雑誌を下げさせると、手の届くすぐ隣に希乃を座らせて、飲み物を頼む。
まもなく兄にはコーヒーが、希乃にはココアが運ばれてきたが、希乃は兄の先ほどの言葉が気になって手をつけられなかった。兄はそんな希乃をなだめるようにぽんと頭を叩くと、言葉を切り出す。
「大丈夫だ、怖くない。もう終わったことなんだ。今の希乃は俺のたった一人の妹で、橘家の子だ。どこにもやったりしないし、誰にも傷つけさせない」
兄はそこでちらと、ローテーブルに置いた植物図鑑を見やる。
「ただ、俺の元に来る前の希乃にはひどいことをする奴がいた。家族という名前の元、子どもの希乃を叩いたり、食事を与えなかった。……それが希乃の父親と、その家族だ」
「お父さ、ん……?」
希乃が兄の言葉に震えると、兄は憎そうに顔をしかめて言う。
「虐待していたんだ、希乃を。かわいそうに、俺のところに来た希乃は同い年の子どもの半分ほどの体重もなくて、表情も乏しく、言葉も遅れていた。何日も洗ってないような服を着て……ぼろぼろの植物図鑑だけを持っていた」
希乃はごくんと息を呑む。兄の言う過去を、希乃は覚えていない。けれどぼろぼろの植物図鑑という言葉は、記憶のどこかに引っかかっている。
「お父さんのこと、覚えて、ない……」
希乃がくしゃりと泣きそうに顔を歪めると、兄は包み込むような目で希乃をのぞきこんで言う。
「それでいいんだよ。……父親とその家族は、希乃のトラウマなんだ。体も心も、いっぱい傷ついた。だから心理療法を受けさせたりして、記憶をそっと眠らせたんだ」
ずっと兄と二人だけの世界にいたような気持ちでいた。だからその外の世界のことを聞いて、希乃は信じられないような思いがした。
「お母さん、は……」
希乃が良くない想像をしながら問いかけると、兄は先ほどまでの憎む顔とは違う表情をして言った。
「生きてはいるが、希乃以上に心と体の不安定な人だからな。橘家の看護の元、静養されているよ。……希乃はいい子だから、そっとしておいてあげような」
希乃は介護の仕事を探していた理由が、少しわかった気がした。きっと病気をする前、希乃はそんな母の助けになりたいと思ったのだ。
希乃はローテーブルに置かれた植物図鑑を見る。希乃を虐待していたという父親とその家族。その家から持ってきたたった一つの植物図鑑。どうにかして捨てたいと願うもののはずなのに……目にすると、抱きしめたいとさえ思ってしまう。
希乃が泣きそうな目で植物図鑑をみつめていると、ふいに兄が言った。
「これは今日、希乃に買ってやる」
希乃は驚いて兄を振り向く。
「で、も……」
「俺が買ってやるなら何も問題はないだろう? 小さな希乃が大好きだったものなんだ。俺はいつだって、希乃をいっぱいいっぱい、好きなもので囲んでやりたいと思う」
兄はそう言って、少し心配そうに首を傾ける。
「でもな、俺は希乃がまだトラウマを覚えてたのが心配だ。だから……病気をする前の心理療法を、また受けてくれないか?」
「にいさま……」
兄の気遣いを、希乃は痛いほど感じた。今だって、兄は希乃が何にも傷つかないように大切に大切に守ってくれている。心理療法というものがどういうものかはわからないけれど、兄に元気になった姿を見せることができるのなら……と思った。
「……うん。治療……受けるの」
希乃がこくりとうなずくと、兄は安堵したように笑う。
「そうか……いい子だ。希乃にとびきりの笑顔を取り戻させてやる」
兄は希乃を引き寄せて腕に収めると、声を低めてつぶやく。
「……過去だって、上書きしてやるからな」
背中をなでて笑った兄の声が狂気じみて聞こえて、希乃は一瞬息を止めた。
あの植物図鑑は本当に忌む記憶のものだったか……少しだけ、わからなくなった。
「さ、他にもたくさん本を買ってやろう。何がいい?」
体を離した兄はいつも通り甘く笑っていて、一瞬の疑問はかき消える。
「おいで、希乃。ここは俺と希乃だけの世界だよ」
病気になる前にも受けていたという心の治療、それに小さな不安はあるけれど、兄が笑っていてくれるのなら受け入れよう。そう思いながら、兄に手を引かれて立ち上がった。


