橘若頭と怖がり姫

 希乃が日々病気から回復していくのを、兄は驚くほど喜んでくれた。
 毎日花やお菓子を持って帰って来て、時には服や宝石のお土産もあった。それで必ず希乃を膝に乗せて、髪を飾ったり自分の手から食べさせたりする。
「にいさま……私、高校生だよ。お膝は、もう……」
 希乃が戸惑って膝から下りようとすると、兄は不思議そうに言う。
「なんでだめなんだ? 俺と希乃はずっとこうだ」
「え……」
 希乃が驚いて目をまたたかせると、兄はくすっと笑ってテーブルを見た。
「記憶があいまいなんだな? 希乃にはな、毎日こうやって」
 兄は慣れた仕草で匙を持って、希乃の口に運ぶ。
 希乃は反射的に口を開いてしまって、食事を迎え入れてしまった。兄は希乃が自分の手から食べたのを見届けて、満足そうにうなずく。
「な? 希乃だって体は覚えてるんだ。時には甘えて、こうしてやらないと食べなかったくらいだ」
「そ、そうな……の? ごめ……子どもみたいで……恥ずかしい。……これからは、直す、ね」
 希乃があわあわと言葉を返すと、兄はまるで本気の声音で問う。
「直す? 俺に甘えるのがまちがいだって誰かに言われたのか?」
「でも、きっと、世間の兄妹は……ちがう、の」
「希乃は俺に全部をくれるって約束したな?」
 その言葉は琴線を弾くようで、希乃は少し頭が痛んだ。
 こくんと息を呑む。何もかもぼやけている記憶に、それは確かな存在感を持つ。
(この言葉は、覚えてる。記憶の底に、ある……)
「俺も全部をもらうと約束した。希乃は俺のものなんだから、めいっぱいかわいがって何が悪い? 俺は希乃に食べさせたいし、こうしていつも触れていたい」
 兄が当然のように言うのを聞いて、希乃は現在を取り戻す。兄は希乃の髪に口づけて、心地よさそうに目を細めていた。
「子どもみたいだって言うなら、俺の前ではずっと子どもでいい。弱くて、いつも助けが必要でいればいい。俺が世話する。いつも抱いていてやる」
 そう言う兄はゆったりと笑んでいて、この関係を何も恥ずかしがっていないようだった。希乃はまだ驚きから立ち直れないまま、視線をさまよわせる。
(私も……にいさまが、好き……。だから……にいさまに、好きな女性ができるまでは……このままでも、いい……?)
 誰にともなく言い訳して、希乃はふと兄がかすかに顔をしかめたのに気づく。
「にいさま……?」
「ん……なんでもないよ。仕事で肩をな、ちょっと怪我したんだ」
「えっ……? ごめ、なさい、気づかないで、触って、て……。痛い……?」
 怪我と聞いて希乃が泣きそうな顔になると、兄はぽんぽんと希乃の頭をなでる。
「本当になんでもないんだ。これのせいで希乃を迎えに行けなかったのが、悔しいだけだ」
 希乃が体を離そうとするのを引き寄せて、兄は言い聞かせるように告げる。
「希乃。外の世界にはな、俺と希乃を引き離そうとする悪いやつらがいる。希乃はとてもいい子で、素直なかわいい子だからな。だまされないように、気を付けるんだよ」
「うん……」
 こくんとうなずいた希乃に、兄は危うい目をして付け加えた。
「……俺から離れたら、希乃にもお仕置きしてやらないといけないからな」
 希乃はきっとそれも兄の優しい冗談の一つなのだと思って、困ったように笑った。
 目覚めてから一週間、日中はリハビリをして、朝夕はそうやって兄と食事をしながら話した。はじめは粥も食べられず、自力で歩くこともできなかった希乃だったが、兄に食事を口に運んでもらったり、背中を支えてもらって歩く練習をしたりしながら、また一週間が経った。
 着実に回復している……そう、希乃も兄も思っていた。
「希乃、もう食べないのか?」
「うん……今日は食欲、なくて」
 いつものように兄と一緒に夕食を取っているとき、希乃は嘘をついた。
「朝もほとんど食べなかったじゃないか。熱は? 喉の調子は?」
 兄は心配してたずねたが、希乃はあいまいに笑って席を立った。
「平気……でも、ごめんなさい。今日は、もう寝るね……」
 希乃は兄が止めるのも聞かずに、まだおぼつかない足取りでリビングを出た。
 本当は朝からずっとお腹が痛くて、食事どころか話すのもつらかった。けれど兄に心配をかけたくなくて、逃げるように去ることしかできなかった。
「う……ぁ、ぅ……っ」
 自室に戻ると、ベッドにもぐりこんで悲鳴を押し殺した。
 体を二つに裂くような鋭い痛みが腹部を襲って、それは全身にも広がっていく。
(高熱、だったのに……どうして、お腹が、痛い……の?)
 冷たい汗を全身でかいて、シーツに爪を立てて苦しみをまぎらわそうとする。でもそれでは少しも痛みは変わらなくて、浅い呼吸を繰り返しながら涙を流す。
 痛い、痛い……助けて。それしか考えられなくて、部屋に誰かが飛び込んできたのも気づかなかった。
「希乃、希乃っ! どうした、どこが痛い?」
 鍵のかからない自室には、病気が急変したときのためにすぐに踏み込めるようになっている。
 希乃はぜぇぜぇと息をしながら、涙でにじんだ視界で兄を見上げる。
「へん、なの……。おなか、あなが、あいたみたいに……痛……」
 それだけ言うのが精一杯で、痛みのあまりに意識が遠のいた。
 落ちたり上がったりする意識の中で、車に乗せられて病院に連れて行かれた。そのまま慌ただしく人が周りを出入りして、たぶん手術を受けた。
「原因……蹴られたとき……」
「肋骨が折れて……内臓に、傷が……」
 途切れ途切れの言葉は、苦しみの最中の希乃にはよく理解できなかった。
 ただ痛くて、怖くて……楽になったらと、そればかりを願っていた。
「希乃、苦しいか……痛いんだな。大丈夫だ、俺が痛みを取ってやる」
 視界は真っ暗だったが、そう言って手を握ったのが兄だとはわかった。
「……希乃が痛いと言った。俺の宝物が傷ついた分、きっちり返しておけ」
 兄が低い声で告げたのが、意識の向こうで聞こえた。