屋敷という中の世界で降りかかった暴力は、希乃の安心を破壊した出来事だった。
ただでさえ体の怪我もひどかったのに、刀傷沙汰に直面した事実は希乃の心を押しつぶして治療を困難にした。希乃は司以外が近寄るのを泣いて嫌がり、それでも使用人が手当をしようとすれば人形のように反応がなくなってしまった。
「希乃、俺がいる。俺が希乃の全部を守ってやる」
司だけはそんな希乃に、変わらない庇護を向けた。毎日、数時間置きの手当てでさえ喜ばしいことのように、甲斐甲斐しく希乃の世話を焼いた。
「……ずっと。一生、な」
ある日司は、希乃の頭に口づけて愛おしむようにささやくと、背後を振り返った。
そこに宝坂が立っていて、暗い顔で希乃の耳にヘッドフォンをかけた……までは、意識があった。
それから、希乃は長い夢を見た。潮騒が鳴っているように、懐かしかった。母の胎内にいるように温かくほの明るいところで、ゆらゆらと揺れていた。
自分からぱらぱらと欠片が零れ落ちて、どこかに消えて行ってしまう。そんな寂しい光景を見た。
やがて音楽が流れ込むように、頭の中を文字が舞った。ひとつひとつが雫のように体の中に染みていく。
清々しいのになぜかひどく泣きながら、希乃は目を覚ました。
そっと誰かの手が涙を拭ってくれて、希乃はそちらを見やる。
枕元に、端正な目鼻立ちで恵まれた体躯の、彫像のような男性が座っていた。どこか緊張した様子で、じっと希乃をみつめていた。
希乃は彼の名前を呼ぼうとして……くるりとその名前が反転するようなめまいを覚えた。
「……にいさま」
希乃が甘えるように彼の手に頬を寄せると、彼はそれを強く握り返しながら希乃の目を覗きこむ。
「気分はどうだ? どこか苦しいところはないか」
「うん……」
希乃はこくんとうなずいて、不思議そうに首を傾げる。
「私……びょうき、した?」
「ああ。高熱が出てな。何日も目覚めなかった」
「何日も……?」
希乃は眉を寄せて思いを馳せたが、雲をつかむような気分で、何も言葉にできなかった。
兄は考え込む希乃の横髪を耳にかけてやりながら、励ますように言う。
「すっかり顔色もよくなった。それだけでうれしい。ずっと不安だった。……希乃がどこかに行ってしまうんじゃないかって」
それを聞いて希乃はきょとんと目をまたたかせて、次の瞬間目を和らげた。
「ふふ。どうしたの、にいさま……。私、にいさまから離れて、どこも、行かないのに」
希乃が思わずにこにこと笑うと、兄は息が詰まったように希乃をみつめて、彼女を腕に引き寄せた。
「にいさま?」
「希乃、希乃……。よかった……っ。お前がそんな風に笑ったのは、何年ぶりだろう」
兄は希乃をかき抱くように腕に収める。その声は少し震えていて、気丈な兄らしくないと思った。
(私、長く寝込んでいた、のかな……。にいさまにこんなに心配、かけて)
「……なんだか、ここのところしばらくの間のことが、わからないの」
ふいに希乃がぽつりと言うと、兄は体を離して希乃の頬に触れる。
「大病をわずらったんだ。そういうこともあると医者も言っていた。……だが別に、それがどうした? 希乃が無事に起きて笑ってくれるんだ。それ以上のことがあるか?」
兄は泣き笑いのような顔になって、希乃の手を握る。
「希乃、もっと笑ってくれ。な? 希乃はどんな顔もかわいいと思っていたが、笑ったらやっぱり、とろけるくらいにかわいいのな……」
やはり兄が大げさなほどに喜ぶのは、ここしばらくの病が重かったのだろう。希乃はそう思って、幼い日から変わらず注がれた兄の愛情にほっと安堵した。
おずおずと見下ろせば自分の体はすっかり痩せて、病的なほど色も青白い。希乃はしゅんとしぼみそうになる気持ちを奮い立たせる。
「私、早く……元気になる、ね。にいさまとまた、お出かけ、したいもの」
細い足に、これで歩けるのだろうかと不安になったけれど、心配してくれた兄のためにがんばろうと決意する。
「ゆっくりでいい。俺はいつまででも待ってる。……でも、そうだな。一緒にたくさん、出掛けような」
兄も幸せそうに笑っていて、希乃も屈託のない笑顔を返した。
深い安息と、変わらない日常。それに包まれる自分は、きっとじきに元気になれる。
(でも……お腹の青あざは、何だろう……? まるで蹴られた、ような……)
「希乃、もう一回抱きしめさせてくれ。いい子だ、いい子だな……」
何も思い出せないことに一抹の不安を覚えながら、希乃はまた兄の腕の中に迎え入れられた。
ただでさえ体の怪我もひどかったのに、刀傷沙汰に直面した事実は希乃の心を押しつぶして治療を困難にした。希乃は司以外が近寄るのを泣いて嫌がり、それでも使用人が手当をしようとすれば人形のように反応がなくなってしまった。
「希乃、俺がいる。俺が希乃の全部を守ってやる」
司だけはそんな希乃に、変わらない庇護を向けた。毎日、数時間置きの手当てでさえ喜ばしいことのように、甲斐甲斐しく希乃の世話を焼いた。
「……ずっと。一生、な」
ある日司は、希乃の頭に口づけて愛おしむようにささやくと、背後を振り返った。
そこに宝坂が立っていて、暗い顔で希乃の耳にヘッドフォンをかけた……までは、意識があった。
それから、希乃は長い夢を見た。潮騒が鳴っているように、懐かしかった。母の胎内にいるように温かくほの明るいところで、ゆらゆらと揺れていた。
自分からぱらぱらと欠片が零れ落ちて、どこかに消えて行ってしまう。そんな寂しい光景を見た。
やがて音楽が流れ込むように、頭の中を文字が舞った。ひとつひとつが雫のように体の中に染みていく。
清々しいのになぜかひどく泣きながら、希乃は目を覚ました。
そっと誰かの手が涙を拭ってくれて、希乃はそちらを見やる。
枕元に、端正な目鼻立ちで恵まれた体躯の、彫像のような男性が座っていた。どこか緊張した様子で、じっと希乃をみつめていた。
希乃は彼の名前を呼ぼうとして……くるりとその名前が反転するようなめまいを覚えた。
「……にいさま」
希乃が甘えるように彼の手に頬を寄せると、彼はそれを強く握り返しながら希乃の目を覗きこむ。
「気分はどうだ? どこか苦しいところはないか」
「うん……」
希乃はこくんとうなずいて、不思議そうに首を傾げる。
「私……びょうき、した?」
「ああ。高熱が出てな。何日も目覚めなかった」
「何日も……?」
希乃は眉を寄せて思いを馳せたが、雲をつかむような気分で、何も言葉にできなかった。
兄は考え込む希乃の横髪を耳にかけてやりながら、励ますように言う。
「すっかり顔色もよくなった。それだけでうれしい。ずっと不安だった。……希乃がどこかに行ってしまうんじゃないかって」
それを聞いて希乃はきょとんと目をまたたかせて、次の瞬間目を和らげた。
「ふふ。どうしたの、にいさま……。私、にいさまから離れて、どこも、行かないのに」
希乃が思わずにこにこと笑うと、兄は息が詰まったように希乃をみつめて、彼女を腕に引き寄せた。
「にいさま?」
「希乃、希乃……。よかった……っ。お前がそんな風に笑ったのは、何年ぶりだろう」
兄は希乃をかき抱くように腕に収める。その声は少し震えていて、気丈な兄らしくないと思った。
(私、長く寝込んでいた、のかな……。にいさまにこんなに心配、かけて)
「……なんだか、ここのところしばらくの間のことが、わからないの」
ふいに希乃がぽつりと言うと、兄は体を離して希乃の頬に触れる。
「大病をわずらったんだ。そういうこともあると医者も言っていた。……だが別に、それがどうした? 希乃が無事に起きて笑ってくれるんだ。それ以上のことがあるか?」
兄は泣き笑いのような顔になって、希乃の手を握る。
「希乃、もっと笑ってくれ。な? 希乃はどんな顔もかわいいと思っていたが、笑ったらやっぱり、とろけるくらいにかわいいのな……」
やはり兄が大げさなほどに喜ぶのは、ここしばらくの病が重かったのだろう。希乃はそう思って、幼い日から変わらず注がれた兄の愛情にほっと安堵した。
おずおずと見下ろせば自分の体はすっかり痩せて、病的なほど色も青白い。希乃はしゅんとしぼみそうになる気持ちを奮い立たせる。
「私、早く……元気になる、ね。にいさまとまた、お出かけ、したいもの」
細い足に、これで歩けるのだろうかと不安になったけれど、心配してくれた兄のためにがんばろうと決意する。
「ゆっくりでいい。俺はいつまででも待ってる。……でも、そうだな。一緒にたくさん、出掛けような」
兄も幸せそうに笑っていて、希乃も屈託のない笑顔を返した。
深い安息と、変わらない日常。それに包まれる自分は、きっとじきに元気になれる。
(でも……お腹の青あざは、何だろう……? まるで蹴られた、ような……)
「希乃、もう一回抱きしめさせてくれ。いい子だ、いい子だな……」
何も思い出せないことに一抹の不安を覚えながら、希乃はまた兄の腕の中に迎え入れられた。


