橘若頭と怖がり姫

 司と側近の話を意図せず盗み聞きしてしまった夜、希乃は自力で部屋まで戻ることができなかった。
 息が苦しくなって駆け込んだ洗面所でまた発作を起こして、異変に気付いた司に再度の処置をされた。一日に二度も発作を起こして、吸入器を連続して使ったことは今までになかった。まだ夜が明けない頃に呼吸器の医師が呼ばれて、極度の緊張が原因だろうと言われた。
「事件を思い出させるようなことを聞かせたな。ごめんな……」
 だから司に話を盗み聞きしていたことは知られてしまったが、彼はそれを咎めたりはしなかった。むしろ枕元で心配そうに希乃を覗き込んで、手を握って謝ってくれた。
 司は希乃にはどこまでも優しく、甘い。だから希乃は司が人を傷つけるのをまるで厭わない人だとわかっていても、嫌うことも、逃げたいと願うこともできなかった。
 この日を境に、希乃の体調は急激に悪化した。三日とおかずに発作を起こして熱を出し、夜は眠れず、やっと眠っても悪夢で冷たい汗をびっしょりとかいて目を覚ます。食事もせいぜい粥を少し口に運ぶくらいで、普通の食事は摂れなくなった。
「希乃はうちで世話をする。必要なものは何でも言え。金はいくらでも出す」
 往診の医師は入院を勧めたが、司は受け入れなかった。希乃も虚ろな目で、頬に触れる司の手にきゅっとしがみついた。
 眠りが不安定で朝か夜かもわからない中、二週間ほど時は流れたと思う。
「希乃、久しぶりにカウンセリングに行ってみるか」
 司に言われて、二度の発作で倒れて以来、ずっと保養所に通っていないと気づいた。それくらい、この二週間は司のことだけが頭を占めていた。
 送迎車の後部座席で、司に寄りかかりながら車に揺られた。彼が保養所に付き添う理由を薄々気づいていながら、何も言えなかった。
「さ、行こうな……希乃」
 保養所に着くと、司は当然のように希乃を抱き上げて運んだ。まともに食事も摂っていない希乃では、近頃は歩くのも覚束なかった。
「どうぞ、こちらに横になってください」
 診察室で待っていたのは宝坂ではなく、責任者の藍紀だった。藍紀は希乃を診察室のベッドに寝かせてくれた。希乃がひどく弱っている状態も事前に聞いていたようだった。
「眠っておいで。俺が藍紀と話をするからな」
 カウンセリングに来たというのに話すのは希乃ではなく司だというのも、この訪問がいつもと違うのはわかっていた。
 カーテンが引かれて、世界が区切られるような錯覚があった。その遠い世界の向こうで、司が切り出した。
「……「治療」を希乃に施してほしい」
 希乃は以前それを聞いたときのように、激しい拒絶は抱かなかった。
 ただ今より楽になれるのなら、そこに浸かりたい。そんな弱い心に落ちてしまっていたから。
 藍紀も司の言葉は予期していたのだろう。冷静な、医師としての言葉を返す。
「治療は精神操作です。つらい記憶に、まったく違う過去を上書きしてしまう。確かに心は穏やかになりますが……場合によっては、小さな子どものようになってしまいます」
 司はそれに、当たり前のことを語るように迷わず言葉を重ねた。
「それの何が問題だ? 希乃はどんな年になっても希乃だ。もう一度、あふれるくらいの愛情に包んでやる。もし赤ん坊になって何も自分でできなくなっても、俺が一生面倒を見る。手放したりしない」
 藍紀はそれを聞いて少し思案したようだった。カーテンの向こうで希乃が聞いているのを意識しているのか、言葉を慎重に選んでいた。
 宝坂だったら、まずは希乃の意思を確認しただろう。ただ司の人となりを知っているらしい藍紀は、それとは違う言葉を投げかけた。
「希乃さんが抵抗しても、治療を施すつもりなのですね」
「ああ。希乃は幼い。自分の体がどれだけ大事なものかわかってないんだ。俺が庇ってやらないでどうする。……だから、やってくれ」
 司の言葉は希乃の意思を無視していたかもしれないが、希乃を想って言っているのは知っていた。
「……わかりました。では」
 だから希乃は抵抗の声を上げることができなくて、藍紀も希乃に直接問わずに決定を下そうとした。
 そのとき、司の携帯が鳴った。司が不機嫌そうに息をもらして、部屋を出て行く。
 少しの間の後に、司は足早に戻ってきた。カーテンを引いて、希乃に声をかける。
「すまん、希乃。仕事でもめ事があって、行ってくるよ」
「もめごと……?」
「大丈夫だ。すぐ戻るよ。そうしたら、希乃を楽にしてやるからな」
 司は安心させるように希乃の頬に触れて、頭をなでた。
 司は藍紀に希乃を託して、まもなく保養所を発った。
 希乃は司に取り残される不安が顔に出ていたのだろう。藍紀は立ち上がってベッド脇から希乃を見下ろすと、苦笑して言う。
「少し、庭でも見ながらお話ししましょうか」
 藍紀は看護師を呼んで希乃を車椅子に乗せると、希乃を病室の一室に通した。
 そこは丸い硝子窓の外に薔薇の庭園が覗いていて、美術館の一角のような風雅な光景だった。藍紀は希乃の体を起こして背中にクッションを入れると、自身はその脇の椅子に座る。
「私と司さんは、同級生なんですよ。中学校と高校が一緒でした」
 希乃は相槌を打とうとしたが、声がかすれて上手くできなかった。けれど藍紀は無理をしないようにと優しく笑いかけてくれて、そのまま言葉を続けてくれる。
「私たちの学校は名門と呼ばれるところでしたが、司さんは常に学年一位でした。ただあまりに優秀で、人間味に欠ける人だった。馬鹿な話もしなければ、ふざけて笑ったりもしない。父親の求めるまま、勉学も仕事も完璧にこなして……私は、本当に生きた人間なのだろうかと思ったこともありました」
 藍紀はそこで目を細めて懐かしむ素振りを見せる。
「でも、高校三年生……今の希乃さんと同じ年のときでしたか。今までまともに話したこともなかった私に、彼が突然話しかけてきたんです。「お前にも小さい妹がいると聞いた。小さい子どもには何をやったら喜ぶんだ?」と」
 希乃がまばたきをすると、藍紀はふと微笑んで言う。
「授業の合間におもちゃのカタログを見せて、私にあれこれと訊ねるんです。八歳の子ならもっと大人っぽいものを言ったのですが、彼は「小さくて小さくて、とても弱い子だからこれでいい」と言う。彼は何事も落ち着いていて、そんな風にそわそわしたところなど見せたことがなかった。……後で、その頃彼に希乃さんという、小さな妹が出来たことを知りました」
「わた、し……?」
 藍紀はうなずいて、困ったように希乃を見やる。
「彼は身勝手でしょう。あなたがいくつの子どもに見えているのか、呆れることもある。自分が小さなあなたに全部を与えるのだと……自分があなたを何からも保護するのだと信じて疑わない。実際は、あなたの世界はもはやそれだけではないのに」
 口をつぐんだ希乃に、藍紀は憂えるようにつぶやく。
「彼は社会的地位がある。資産も血筋もある。誰も逆らわせない力を持つ。けれどあの頃、あなたを「俺の宝物だ」と照れくさそうに笑って……今もまったく同じ目をしている彼は、本当は誰よりも子どもなのかもしれませんね」
 藍紀はそう言って、その事実を胸に収めるように深く息をついた。