希乃は日中、宝坂のいる保養所に通って心理療法を受けることになった。
宝坂が組んだプログラムに基づいて、主に午前中にカウンセリング、午後に温泉などのリラクゼーション、空き時間は勉強をする。施設内の庭園や森林も自由に散策していいと言われて、植物が好きな希乃は喜んだ。
司はもっと直接的に希乃の心の傷を消す……洗脳と呼ばれるような強力な治療を求めたが、希乃が泣いて嫌がったために、ひとまず様子を見てくれることになった。
「希乃、お腹が痛いのはどうだ? 施設でいじめられたりはしていないか?」
ただ司は希乃のことを小さな子どものように心配するのは変わりなく、朝夕の食事のときに希乃を膝に抱いてたずねた。
「先生たち、優しい……です。お腹痛いのも、よくなって……」
希乃がぽそぽそと答えるのも嘘ではなく、一か月が経つ頃には、希乃の病状は少しずつ良くなってきていた。
「宝坂先生……話を聞くの、上手で……。私が詰まっても、ゆっくりゆっくり、聞いてくれる……」
まだ部分的ではあるが、幼いときの話を宝坂に聞いてもらったりするうちに、司と二人だけだった世界に柔い風が入る気がした。外の世界は怖いものばかりのように思っていたのに、そこに現れた宝坂という存在は希乃を警戒させなかった。
「一回、話してるうちに、私……泣いちゃって。先生、とんとんって、肩、叩いてくれて……すごく、安心……」
「……触ったのか、希乃に」
司が剣呑な声で言ったので、希乃は目を上げる。
「女医でなきゃ許してない。今度はないと言っておこう」
「でも、先生は……お医者さん、で」
司は希乃の背に腕を回すと、彼女の目をのぞきこむようにして言う。
「希乃をこうやって包んでいいのは俺だけだ。心もな」
そう言われて安心するのは、希乃が司の庇護に包まれている時間があまりに長かったからなのだろう。
希乃が言葉に詰まって目を伏せると、司は希乃を見下ろしながら続ける。
「ただ、前々から気になってはいたんだ。希乃がうちに来るきっかけになった事件は、確かにつらいものだっただろう。けどうちに来てからも、希乃はいつも怯えていた。俺に話してない、泣くようなことがあったんだな?」
「え、と……」
司の言う通り、この屋敷で過ごした日々には怯えることがたくさんあった。黒服の男たちの会合、警察の立ち入り、中には刀傷沙汰もあった。希乃自身がその場に立ち会ったことはないが、家の中で事件があっただけでも、食事や眠りは覚束なくなった。
「いいんだ。責めてない。……俺はもっと希乃の気持ちに目を配ってやらなきゃいけなかった。俺と違って、希乃は小さくて弱い。言えなくてつらかったな」
「そんな……司さまは、悪く……なくて」
極道の若頭として、司が希乃より強靭な体と精神を持っているのは、希乃もわかっている。たとえ刀傷沙汰があっても平然としている司とは、その心持ちがまるで違うのだろう。
司は希乃の頭をなでて、優しく問う。
「な、希乃。俺はひとつずつ、希乃の傷を塞いでやりたい。……船の上で希乃に毒を食わせたのは、誰だ?」
ひくっと、希乃の体がひきつった。
希乃につらい記憶を呼び戻したくないと、ずっと司はそのときのことを問いただすのを避けていた。
けれど希乃は意識が戻ってすぐ、切れ切れに司へ伝えたことがある。
「だれ……も。私が、まちがって……自分で、プディングを食べた、だけ」
同じことを告げても、司はじっと希乃の目をみつめながら首を横に振った。
「違うな。子どもの頃に倒れて以来、希乃は卵料理を目に入れるだけで怯えていた。それに直前、希乃は何かに気づいたように俺から離れた。……加害者がいるはずだ」
司は必死で震えをこらえている希乃に気づいたのか、希乃の背をさすってたずねる。
「希乃に危害を加えた奴を一人でも逃すわけにはいかないだろう? 希乃がもう二度と怖い思いをしないように、何からも守ってやりたいんだよ。な……希乃?」
「あ……あ」
限りなく優しい声色なのに、守るというその行為が何を連れてくるのかわからない。
希乃の震えはついに表に出て、司の腕の中で身を縮こまらせる。それでも、司は腕を離してはくれなかった。
希乃はごくんと息を呑んで、必死で言い募る。
「いない……です……! ……ぇ、っく、じぶん、食べただけ……!」
「……希乃? 落ち着け、喉が」
「め、めいわく……かけて、ごめ……なさい。ぁ、ひぅ……っ、でも、でも……報復、いらな……!」
希乃は興奮して、肩でぜぇぜぇと息をしていた。司が止めるのも聞かずに、彼の腕を振り払おうともがく。
「あ……ぅ」
ふいに喉が切れるように痛んで、息が出来なくなる。
「誰か、吸入器を持ってこい! すぐだ!」
司は希乃を抱えたまま使用人に鋭く命じた。まもなく使用人が吸入器を持って現れる。
希乃は小鳥のようなか細い息をしていた。司は希乃をソファーに寝かせると、喉元を楽にしてやって吸入器を口に当てる。
「落ち着け、怖いことは何もない。ゆっくり息をして……ゆっくり、な、希乃」
司になだめられても、希乃の中にべったりと張り付いた恐怖は消えなかった。
その夜、希乃の呼吸は落ち着いたが、熱が出て悪夢を見た。
司と結婚すると言っていたあの女性が、自分の体をかきむしって苦しんでいる、そんな恐ろしい夢だった。
まだ夜が明けない頃に希乃ははっと目覚めた。
動悸が止まらなくて、喉もからからに乾いていた。そっとベッドから抜け出して廊下に出る。
しんと静まり返った屋敷の中、司の部屋の電気がまだ点いているのが見えた。
いつもはそんなことはしないのに、熱が出たばかりで心が弱っていたのか、希乃はそちらに足を向けていた。
「……お母様から、嘆願があったそうですが」
部屋の中から、微かな声が聞こえた。司の側近の男の声だった。
それに司のけだるいような声が続く。
「ろくでもない女を紹介してくれてどうもとでも言っておけ」
「腹の子はどうします? ……案外司さまの子かもしれませんよ」
物陰で希乃がびくりとすると、司は軽く笑い飛ばす。
「俺がそんなヘマをするか。子どもは希乃がいれば十分なんだよ。他は作る価値もない」
「では」
側近が指示を待つように黙ると、司は平坦な声で告げる。
「薬を増やしてやれ。関わった奴を全員吐くまでやめるな」
「承知しました」
「ああ、そろそろこんな時間か。希乃の朝食だが」
今迷いなく人を傷つけると言った口で、司はそれよりずっと難しいことのように思案しながら言う。
「熱が出た後だからな。何がいいか……。栄養が取れないものもだめだからな。そうだな。希乃の好きな甘いミルク粥にしよう。それに果物をたっぷりな。食後の紅茶は、香りの少ないハーブティーにするように」
司はそう言ってから、念入りに言葉を重ねる。
「食べられなくても決して無理をさせるなよ。変わったことがあったら仕事中でもいい。俺に報告しろ。今日はカウンセリングも休ませるように」
「……は、承知しました」
司は事細かに希乃のことを言伝て、側近がそれに恭しく答えるのが、どこか遠い世界のように聞こえた。
宝坂が組んだプログラムに基づいて、主に午前中にカウンセリング、午後に温泉などのリラクゼーション、空き時間は勉強をする。施設内の庭園や森林も自由に散策していいと言われて、植物が好きな希乃は喜んだ。
司はもっと直接的に希乃の心の傷を消す……洗脳と呼ばれるような強力な治療を求めたが、希乃が泣いて嫌がったために、ひとまず様子を見てくれることになった。
「希乃、お腹が痛いのはどうだ? 施設でいじめられたりはしていないか?」
ただ司は希乃のことを小さな子どものように心配するのは変わりなく、朝夕の食事のときに希乃を膝に抱いてたずねた。
「先生たち、優しい……です。お腹痛いのも、よくなって……」
希乃がぽそぽそと答えるのも嘘ではなく、一か月が経つ頃には、希乃の病状は少しずつ良くなってきていた。
「宝坂先生……話を聞くの、上手で……。私が詰まっても、ゆっくりゆっくり、聞いてくれる……」
まだ部分的ではあるが、幼いときの話を宝坂に聞いてもらったりするうちに、司と二人だけだった世界に柔い風が入る気がした。外の世界は怖いものばかりのように思っていたのに、そこに現れた宝坂という存在は希乃を警戒させなかった。
「一回、話してるうちに、私……泣いちゃって。先生、とんとんって、肩、叩いてくれて……すごく、安心……」
「……触ったのか、希乃に」
司が剣呑な声で言ったので、希乃は目を上げる。
「女医でなきゃ許してない。今度はないと言っておこう」
「でも、先生は……お医者さん、で」
司は希乃の背に腕を回すと、彼女の目をのぞきこむようにして言う。
「希乃をこうやって包んでいいのは俺だけだ。心もな」
そう言われて安心するのは、希乃が司の庇護に包まれている時間があまりに長かったからなのだろう。
希乃が言葉に詰まって目を伏せると、司は希乃を見下ろしながら続ける。
「ただ、前々から気になってはいたんだ。希乃がうちに来るきっかけになった事件は、確かにつらいものだっただろう。けどうちに来てからも、希乃はいつも怯えていた。俺に話してない、泣くようなことがあったんだな?」
「え、と……」
司の言う通り、この屋敷で過ごした日々には怯えることがたくさんあった。黒服の男たちの会合、警察の立ち入り、中には刀傷沙汰もあった。希乃自身がその場に立ち会ったことはないが、家の中で事件があっただけでも、食事や眠りは覚束なくなった。
「いいんだ。責めてない。……俺はもっと希乃の気持ちに目を配ってやらなきゃいけなかった。俺と違って、希乃は小さくて弱い。言えなくてつらかったな」
「そんな……司さまは、悪く……なくて」
極道の若頭として、司が希乃より強靭な体と精神を持っているのは、希乃もわかっている。たとえ刀傷沙汰があっても平然としている司とは、その心持ちがまるで違うのだろう。
司は希乃の頭をなでて、優しく問う。
「な、希乃。俺はひとつずつ、希乃の傷を塞いでやりたい。……船の上で希乃に毒を食わせたのは、誰だ?」
ひくっと、希乃の体がひきつった。
希乃につらい記憶を呼び戻したくないと、ずっと司はそのときのことを問いただすのを避けていた。
けれど希乃は意識が戻ってすぐ、切れ切れに司へ伝えたことがある。
「だれ……も。私が、まちがって……自分で、プディングを食べた、だけ」
同じことを告げても、司はじっと希乃の目をみつめながら首を横に振った。
「違うな。子どもの頃に倒れて以来、希乃は卵料理を目に入れるだけで怯えていた。それに直前、希乃は何かに気づいたように俺から離れた。……加害者がいるはずだ」
司は必死で震えをこらえている希乃に気づいたのか、希乃の背をさすってたずねる。
「希乃に危害を加えた奴を一人でも逃すわけにはいかないだろう? 希乃がもう二度と怖い思いをしないように、何からも守ってやりたいんだよ。な……希乃?」
「あ……あ」
限りなく優しい声色なのに、守るというその行為が何を連れてくるのかわからない。
希乃の震えはついに表に出て、司の腕の中で身を縮こまらせる。それでも、司は腕を離してはくれなかった。
希乃はごくんと息を呑んで、必死で言い募る。
「いない……です……! ……ぇ、っく、じぶん、食べただけ……!」
「……希乃? 落ち着け、喉が」
「め、めいわく……かけて、ごめ……なさい。ぁ、ひぅ……っ、でも、でも……報復、いらな……!」
希乃は興奮して、肩でぜぇぜぇと息をしていた。司が止めるのも聞かずに、彼の腕を振り払おうともがく。
「あ……ぅ」
ふいに喉が切れるように痛んで、息が出来なくなる。
「誰か、吸入器を持ってこい! すぐだ!」
司は希乃を抱えたまま使用人に鋭く命じた。まもなく使用人が吸入器を持って現れる。
希乃は小鳥のようなか細い息をしていた。司は希乃をソファーに寝かせると、喉元を楽にしてやって吸入器を口に当てる。
「落ち着け、怖いことは何もない。ゆっくり息をして……ゆっくり、な、希乃」
司になだめられても、希乃の中にべったりと張り付いた恐怖は消えなかった。
その夜、希乃の呼吸は落ち着いたが、熱が出て悪夢を見た。
司と結婚すると言っていたあの女性が、自分の体をかきむしって苦しんでいる、そんな恐ろしい夢だった。
まだ夜が明けない頃に希乃ははっと目覚めた。
動悸が止まらなくて、喉もからからに乾いていた。そっとベッドから抜け出して廊下に出る。
しんと静まり返った屋敷の中、司の部屋の電気がまだ点いているのが見えた。
いつもはそんなことはしないのに、熱が出たばかりで心が弱っていたのか、希乃はそちらに足を向けていた。
「……お母様から、嘆願があったそうですが」
部屋の中から、微かな声が聞こえた。司の側近の男の声だった。
それに司のけだるいような声が続く。
「ろくでもない女を紹介してくれてどうもとでも言っておけ」
「腹の子はどうします? ……案外司さまの子かもしれませんよ」
物陰で希乃がびくりとすると、司は軽く笑い飛ばす。
「俺がそんなヘマをするか。子どもは希乃がいれば十分なんだよ。他は作る価値もない」
「では」
側近が指示を待つように黙ると、司は平坦な声で告げる。
「薬を増やしてやれ。関わった奴を全員吐くまでやめるな」
「承知しました」
「ああ、そろそろこんな時間か。希乃の朝食だが」
今迷いなく人を傷つけると言った口で、司はそれよりずっと難しいことのように思案しながら言う。
「熱が出た後だからな。何がいいか……。栄養が取れないものもだめだからな。そうだな。希乃の好きな甘いミルク粥にしよう。それに果物をたっぷりな。食後の紅茶は、香りの少ないハーブティーにするように」
司はそう言ってから、念入りに言葉を重ねる。
「食べられなくても決して無理をさせるなよ。変わったことがあったら仕事中でもいい。俺に報告しろ。今日はカウンセリングも休ませるように」
「……は、承知しました」
司は事細かに希乃のことを言伝て、側近がそれに恭しく答えるのが、どこか遠い世界のように聞こえた。


