宝坂の自己紹介を聞いて、希乃と司の反応したところは違っていた。
「宝坂家の娘か。嫌な人選をしてくれる」
司は冷たい目で藍紀を見やって、逆に藍紀は朗らかに微笑んだ。
「屋敷にもお邪魔するかもしれないですから、身元のしっかりした医師の方がいいでしょう?」
「宝坂の叔父貴に、うちは毛虫のように嫌われてんだぞ」
「それは我が家も同じことです。まあ、私の兄弟たちが産まれた腹は結果として二つだけでしたけど……司さんの家は、確か」
「希乃の前でそういう話をするな。子どもの教育上よくない」
司はきょとんとしている希乃を引き寄せて、藍紀をにらむ。
宝坂と名乗った女医は二人に構わず、希乃をみつめたままだった。希乃は女性が恐ろしかったはずなのに、その静かなまなざしをじっと見返すことができた。
(宝坂先生、子どもの心理療法……って、言ってた。私、小さな子どもみたいな精神だって思われたのかな……)
希乃が反応した言葉は「子ども」の部分だった。司にはずっと小さな子ども扱いされているが、他人にも希乃の幼さを指摘されたのは初めてだった。
ただ、宝坂はそこに一切蔑みや同情は見せなかった。だから希乃はそれに悲しかったり、悔しかったりする気持ちを感じずにいられて……希乃の幼さを残したありのままの姿を確かに目にしてくれた気がして、少し安心した。
司も希乃を視界に入れながら、すっと宝坂を見据える。
「まあいい。確かに子どもの心のケアを得意にした医師を呼んでくれと言った。何より、希乃が怖がっていない。……信用しよう」
司が決定を下すと、藍紀もうなずいて宝坂に目配せした。
宝坂は育ちがいいのか、整った所作でお辞儀をして顔を上げる。
「では、希乃さん。お話を聞かせてもらう前に、まず教えてください。……保護者の橘さんは、ここに同席してもらいたいですか?」
その声音は限りなく柔らかく、丁寧だったが、希乃と司はその内容に驚いた。
(私が……話していい、の?)
希乃は驚きのあまり言葉もなくて、司は多少不愉快に感じたようだった。
「俺が希乃の状態を一番知ってる。ここにいて俺が話す。当然だろう」
同意を求めるというよりは当たり前のことを確認するように、司は言葉を跳ねのけた。
「お言葉ですが、橘さん。心の内側を話すのは怖いのです。保護者の方でも、聞いてほしくないことはあります」
けれど宝坂はやんわりと司をなだめて、答えを待つように希乃をみつめる。
希乃を見るその目は、司のように甘やかすような優しさはない。子どもだからと何もかも許して、逆に言えば何もかも自分でさせないような絶対の庇護もない。
宝坂の問いかけは医師としては当然のものだったかもしれない。けれど司が極道と知っていながらその当然の問いかけを実行したところに、彼女の強さがある気がした。
「……司さまに、同席して、もらって……話して……もらいたい、です」
希乃はおどおどと告げて、司がやはりそうだろうとうなずいたとき、ぽつりと言葉を付け加えた。
「でも……これからここに、通ううちに。……その、ちょっとずつ、私も、話して……いいですか?」
「希乃……」
司は何か言いかけたが、希乃が一生懸命話す様子に、希乃を止めることはしなかった。
藍紀はそれらを見届けて退出して、司と希乃、宝坂の三人が残った。
司は時間をかけて、希乃の経過を事細かく話した。希乃が無理やりアレルギーの食べ物を口にさせられたときの状況から、それからの希乃の言葉や様子、学校に行っては怯えて戻ってきたこと、もどしたり不眠になっている今の病状も。
宝坂は電子カルテにそれを記入しながら、時々質問も挟んで司の話を聞いていた。希乃にとって安心したのが、彼女は時々、司の話を聞いている希乃の様子も見ていてくれたことだった。まるで希乃を一人にしないと言葉以外で伝えてくれたようだった。
「希乃さんの子どもの頃は、どんな様子でしたか?」
アレルギーの事件を聞き終わると、宝坂は希乃の子どもの頃の話も促した。司が迷う素振りを見せたのを希乃は気づいた。希乃が橘家に引き取られたきっかけである、母と倉庫に閉じ込められた事件は、あまりにも障りがあるものだと希乃も知っていた。
「……司さま」
希乃は弱く司の袖をつかんだ。希乃の小さな制止は通じて、司はその倉庫の事件は話さなかった。希乃も今はその事件について、誰にも触れてほしくなかった。
丁寧で穏やかな聞き取りは、一時間ほど続いた。話し終えた司は、傍らの希乃の肩を抱くと強い意思を宿して言う。
「俺は希乃の心を一時でも早く、穏やかにしてやりたい。……ここではそういう「治療」ができると聞いている」
司が治療と言った瞬間、凪のように穏やかだった宝坂の目に何かの感情が見えた。彼女はすっと司を見返すと、あえて言葉を変えて告げる。
「それが「洗脳」と言われるのを承知で言っていらっしゃるのですか」
「無論だ。希乃がまた笑えるなら何もためらう理由はない」
宝坂はゆっくりと目を伏せた。そこに彼女の人間としての感情を感じて、希乃は宝坂と司を見比べる。
(私の全部を決めるのは、司さま……で。それが当たり前で、私が、口出しすることじゃなくて……)
希乃にとって、それは子どもの頃から絶対の理だった。だから何の疑問を持つものでもないのに、どうして自分の心が揺れているのかわからなかった。
「希乃さん。消したくない思い出はありますか?」
唐突に宝坂に問われて、希乃ははっと息を呑む。
「治療対象の方の意識が残っている間は、そう問うことになっています」
「消したくない……思い出」
希乃は迷うように口にして、うなずいた宝坂の前で考え込む。
自分にとって消したくない思い出? ……それはと考えたとき、視界がじわりとにじんだ。
「……も」
「希乃?」
一瞬こぼれた言葉は小さすぎて、司も問い返したようだった。
希乃はぽろぽろと涙を落としながら、もう一度つぶやく。
「なにも……忘れたくない、です」
あまりにわがままだと思いながら、希乃は精一杯の意思を表に出さずにはいられなかった。
「つらいこと、たくさん……でも、忘れるのはいや……! だって子どもの頃から全部、司さまがくれた……の……! 何も、手放したく、ない……!」
後は言葉にならずに泣いて、希乃は司に抱き寄せられた。
「希乃、希乃……泣くな。そうか、そうだな……」
司に優しく背中をさすられて、希乃は力いっぱいその腕にしがみつく。
希乃のめったにないはっきりとした意思に、司の意思も動いたようだった。
「……「治療」は延期してくれ。しばらくカウンセリングを受けて、それから決めよう」
司は宝坂にそう言ってくれて、宝坂もその意思をくみ取ったように、静かにうなずいたのだった。
「宝坂家の娘か。嫌な人選をしてくれる」
司は冷たい目で藍紀を見やって、逆に藍紀は朗らかに微笑んだ。
「屋敷にもお邪魔するかもしれないですから、身元のしっかりした医師の方がいいでしょう?」
「宝坂の叔父貴に、うちは毛虫のように嫌われてんだぞ」
「それは我が家も同じことです。まあ、私の兄弟たちが産まれた腹は結果として二つだけでしたけど……司さんの家は、確か」
「希乃の前でそういう話をするな。子どもの教育上よくない」
司はきょとんとしている希乃を引き寄せて、藍紀をにらむ。
宝坂と名乗った女医は二人に構わず、希乃をみつめたままだった。希乃は女性が恐ろしかったはずなのに、その静かなまなざしをじっと見返すことができた。
(宝坂先生、子どもの心理療法……って、言ってた。私、小さな子どもみたいな精神だって思われたのかな……)
希乃が反応した言葉は「子ども」の部分だった。司にはずっと小さな子ども扱いされているが、他人にも希乃の幼さを指摘されたのは初めてだった。
ただ、宝坂はそこに一切蔑みや同情は見せなかった。だから希乃はそれに悲しかったり、悔しかったりする気持ちを感じずにいられて……希乃の幼さを残したありのままの姿を確かに目にしてくれた気がして、少し安心した。
司も希乃を視界に入れながら、すっと宝坂を見据える。
「まあいい。確かに子どもの心のケアを得意にした医師を呼んでくれと言った。何より、希乃が怖がっていない。……信用しよう」
司が決定を下すと、藍紀もうなずいて宝坂に目配せした。
宝坂は育ちがいいのか、整った所作でお辞儀をして顔を上げる。
「では、希乃さん。お話を聞かせてもらう前に、まず教えてください。……保護者の橘さんは、ここに同席してもらいたいですか?」
その声音は限りなく柔らかく、丁寧だったが、希乃と司はその内容に驚いた。
(私が……話していい、の?)
希乃は驚きのあまり言葉もなくて、司は多少不愉快に感じたようだった。
「俺が希乃の状態を一番知ってる。ここにいて俺が話す。当然だろう」
同意を求めるというよりは当たり前のことを確認するように、司は言葉を跳ねのけた。
「お言葉ですが、橘さん。心の内側を話すのは怖いのです。保護者の方でも、聞いてほしくないことはあります」
けれど宝坂はやんわりと司をなだめて、答えを待つように希乃をみつめる。
希乃を見るその目は、司のように甘やかすような優しさはない。子どもだからと何もかも許して、逆に言えば何もかも自分でさせないような絶対の庇護もない。
宝坂の問いかけは医師としては当然のものだったかもしれない。けれど司が極道と知っていながらその当然の問いかけを実行したところに、彼女の強さがある気がした。
「……司さまに、同席して、もらって……話して……もらいたい、です」
希乃はおどおどと告げて、司がやはりそうだろうとうなずいたとき、ぽつりと言葉を付け加えた。
「でも……これからここに、通ううちに。……その、ちょっとずつ、私も、話して……いいですか?」
「希乃……」
司は何か言いかけたが、希乃が一生懸命話す様子に、希乃を止めることはしなかった。
藍紀はそれらを見届けて退出して、司と希乃、宝坂の三人が残った。
司は時間をかけて、希乃の経過を事細かく話した。希乃が無理やりアレルギーの食べ物を口にさせられたときの状況から、それからの希乃の言葉や様子、学校に行っては怯えて戻ってきたこと、もどしたり不眠になっている今の病状も。
宝坂は電子カルテにそれを記入しながら、時々質問も挟んで司の話を聞いていた。希乃にとって安心したのが、彼女は時々、司の話を聞いている希乃の様子も見ていてくれたことだった。まるで希乃を一人にしないと言葉以外で伝えてくれたようだった。
「希乃さんの子どもの頃は、どんな様子でしたか?」
アレルギーの事件を聞き終わると、宝坂は希乃の子どもの頃の話も促した。司が迷う素振りを見せたのを希乃は気づいた。希乃が橘家に引き取られたきっかけである、母と倉庫に閉じ込められた事件は、あまりにも障りがあるものだと希乃も知っていた。
「……司さま」
希乃は弱く司の袖をつかんだ。希乃の小さな制止は通じて、司はその倉庫の事件は話さなかった。希乃も今はその事件について、誰にも触れてほしくなかった。
丁寧で穏やかな聞き取りは、一時間ほど続いた。話し終えた司は、傍らの希乃の肩を抱くと強い意思を宿して言う。
「俺は希乃の心を一時でも早く、穏やかにしてやりたい。……ここではそういう「治療」ができると聞いている」
司が治療と言った瞬間、凪のように穏やかだった宝坂の目に何かの感情が見えた。彼女はすっと司を見返すと、あえて言葉を変えて告げる。
「それが「洗脳」と言われるのを承知で言っていらっしゃるのですか」
「無論だ。希乃がまた笑えるなら何もためらう理由はない」
宝坂はゆっくりと目を伏せた。そこに彼女の人間としての感情を感じて、希乃は宝坂と司を見比べる。
(私の全部を決めるのは、司さま……で。それが当たり前で、私が、口出しすることじゃなくて……)
希乃にとって、それは子どもの頃から絶対の理だった。だから何の疑問を持つものでもないのに、どうして自分の心が揺れているのかわからなかった。
「希乃さん。消したくない思い出はありますか?」
唐突に宝坂に問われて、希乃ははっと息を呑む。
「治療対象の方の意識が残っている間は、そう問うことになっています」
「消したくない……思い出」
希乃は迷うように口にして、うなずいた宝坂の前で考え込む。
自分にとって消したくない思い出? ……それはと考えたとき、視界がじわりとにじんだ。
「……も」
「希乃?」
一瞬こぼれた言葉は小さすぎて、司も問い返したようだった。
希乃はぽろぽろと涙を落としながら、もう一度つぶやく。
「なにも……忘れたくない、です」
あまりにわがままだと思いながら、希乃は精一杯の意思を表に出さずにはいられなかった。
「つらいこと、たくさん……でも、忘れるのはいや……! だって子どもの頃から全部、司さまがくれた……の……! 何も、手放したく、ない……!」
後は言葉にならずに泣いて、希乃は司に抱き寄せられた。
「希乃、希乃……泣くな。そうか、そうだな……」
司に優しく背中をさすられて、希乃は力いっぱいその腕にしがみつく。
希乃のめったにないはっきりとした意思に、司の意思も動いたようだった。
「……「治療」は延期してくれ。しばらくカウンセリングを受けて、それから決めよう」
司は宝坂にそう言ってくれて、宝坂もその意思をくみ取ったように、静かにうなずいたのだった。


