橘若頭と怖がり姫

 司が屋敷に呼んだ医師の見立ては確かだったらしく、希乃の発疹は三週間ほどで落ち着いた。
 まだ薬を塗る必要はあるが、起き上がって着替えるような身の回りのことはできるようになった。普通の食事も摂って、たびたび休憩しながらではあるが、部屋で宿題も始めた。
「絶対に無理をするなよ。少しでも体が変だと思ったらすぐに連絡しろ」
 それで倒れてから一か月が経つ頃、ようやく学校に行くことも許された。
 希乃の手首に時計型の体調管理機器をつけて片方を司が持つという厳重さではあったが、それでも復帰の一歩だった。
 離れていても管理される、それを窮屈に思ってもいいはずなのに、希乃は渡された時計を自分から身に着けた。
「学校の近くに迎えを待機させておくからな。しばらくは寄り道もするな。昼もちゃんと薬を飲むんだぞ。まだ走ったらだめだ。あとは……」
「あの……司さま」
 希乃の自由のほとんどを奪うように言った司に、希乃はおずおずと言葉を返す。
「今は言うことをきけ。ショック症状が出やすい時期なんだ。嫌かもしれないが」
「ううん……」
 希乃は泣き笑いのように顔を歪めて、首を横に振る。
「……ありがとう」
 まだ意識が暗かったとき、司の頬は濡れていた気がした。過酷な世界にいて、決して弱さなど見せない彼が……希乃のために、泣いてくれたのだ。
「ぜんぶ、言う通りにします……」
 彼が安心するなら、窮屈なくらい管理されてもいいと思う。希乃がぎこちなく微笑むと、司はそんな希乃の前髪をくしゃりと撫でた。
 久しぶりの登校の日は、司が自ら運転して学校まで送ってくれた。
「いってきます」
 車が停まると、希乃は小声で言った。
 ふいに司は希乃の頬に手を触れて、ぽつりと告げる。
「……お前がもっと悪い子ならな」
 希乃がまばたきをすると、司は言葉を続ける。
「学校なんていやだと。遊んでいたいんだと。……そう言いさえすれば、いつでも手元で可愛がっていられたのに。なんでこんないい子に育てちまったんだろうな」
 司は独り言のようにつぶやいてから、希乃の頬を優しくなでた。
「もうこれ以上いい子になんかならなくていいからな。悪い子になったら、すぐに家に連れて帰ってやる。なぁ、本当にそうしないか? 希乃……」
 冗談とも本気とも取れない言葉に、希乃は返す言葉に迷う。
「……学校、行きたい、です」
 やっとのことで希乃が言うと、司は苦笑してうなずく。
「ん……そうだろうな」
 司は知ってるというように、希乃の背中を叩く。
 それに促されて車外に出ると、司が優しい目でこちらを見ていた。希乃はぺこりと頭を下げて、校舎の方に歩き出す。
 高校を卒業したら屋敷を離れる。そう決めているのに、まだ彼の手の中にいたいと思ってしまう自分がいた。
 その日、体はまだ重く、時々痛みもあったが、授業に出ることはできた。
 ……ただ本当に傷ついたのは体ではなく心だと、まもなく自覚することになった。
 久しぶりの登校の日、希乃は下校の時間まで学校にいることができなかった。昼休みに迎えの車を呼んで、屋敷に帰った。
 帰ってきた司は心配して希乃を医者に診せたが、ひどく疲れてはいたもののアレルギー症状の悪化は見られなかった。翌日、司の指示で希乃は学校を休んだが、その次の日は登校した。
 今度は、希乃は下校の時間まで学校にいた。けれど帰って来るとやはりひどく疲れた様子で、食事も摂らずに床についた。
 学校には行くし、医者に診せても症状はなく、けれど確実に希乃は痩せて顔色が悪くなっていった。
 ある日も、希乃は食事もほとんど摂らずに、もう眠りますと床についた。それで夜も更けた頃、司は洗面所から出てきた希乃を廊下でつかまえた。
「希乃、隠さなくていい。……最近ずっと、食事を受け付けないんじゃないか?」
「……あ、う」
 月灯りもない闇夜だった。洗面所の水音がまだ残る中で、希乃は青い顔でうつむく。
「ご、ごめ……なさ……」
「何にも怒らない、責めたりもしない。正直に言ってごらん。……もしかして、学校が怖いのか?」
 びくんと希乃の肩が震えた。ずっと隠していたのに、それが肯定になってしまった。
 司が辛抱強く答えを待つと、希乃は震えながらつぶやく。
「……女の人が、いっぱい、集まってると……。ま、また、怖い、こと、される……って、思って……お腹の中、焼けるみたいに、痛くなっ……て」
 堰を切ったように、希乃の目から涙があふれてくる。司は希乃を引き寄せて胸に押し当てると、背中をさすった。
「そうだったか……」
 女子高なのがかえって災いしたのだろう。化粧室での処刑のような出来事は、希乃の元々弱い心を刺すように痛めつけたらしい。
 司は少しだけ体を離して、落ち着いた声音で言う。
「命の危険にさらされたんだ。トラウマになったって、全然恥ずかしいことじゃないんだ。……な、希乃」
 司は希乃の涙に濡れた目をのぞきこみながら、優しくその提案を投げかける。
「学校を休んだらどうだ。いつまでなんて決めなくていい。自分のことも責めなくていいから、屋敷でゆっくり過ごすんだ」
「で、も……」
 希乃の出席日数はただでさえぎりぎりで、今回の事件でさらに卒業が厳しくなった。これ以上休むのは、卒業をあきらめることと同じだった。
 司はそれを理解していながら、憂う様子もなく続ける。
「心配いらない。高校は俺が卒業させてやる。希乃が元気になるのが大事だ。他のことなんてどうでもいい……そうだろう?」
 そう言って、また温かい胸に包み込む。
「甘えていろ。それでいいから。……な?」
 希乃はそのなじみ深い声音とぬくもりに、体の芯がしびれていくような感覚がしていた。
 決して閉じ込められたわけでも、命令されたわけでもなかった。
「……は、い」
 けれど司に言われたというそれだけで、希乃はぽたりと涙を落としてうなずいた。