橘若頭と怖がり姫

 暗闇の中は、母と共に閉じ込められた幼い日の港の倉庫のようだった。
 ここにいるのは痛くて、苦しくて、怖くて……でも本当に恐ろしいのは、自分たちを傷つけようとする外の悪意だった。自分と母をまるで獲物のように捕らえて痛めつけて、死んでも構わないと蔑む無数の目だった。
 外の悪意は、まるで自分たちが正しいものであるかのような顔をしていた。母と希乃はそれに逆らえなかった。希乃と母は弱くて、敗者だったから。
 痛みも苦しみももう嫌だったけれど、外に出る怖さの方が勝った。暗闇から出たら、正しい顔をした悪意にずたずたに踏みつけられる。それだったら外になど出ないで、このままうずくまっている方がいい。
 痛い、苦しい、怖い……ただその負の感情の檻にとらわれていたとき、声が聞こえた。
「希乃、希乃……起きてくれ」
 誰かが希乃の頭を撫でて、繰り返し名前を呼んでいる。
「痛いのも、苦しいのも、全部俺が取ってやるから……。お前が何にも怖くないように、二度と一人になんてしないから。だから起きてくれ、頼む……」
 誰かはすがるように希乃の手を取って、自らの頬に当てる。
「……お前がいないと、俺は死んでるのと同じなんだ」
 その頬が濡れていたような気がして、希乃の中の何かが動く。
 弱い敗者の自分を、何の役にも立たない希乃を、宝物のように抱えていた人に。一人だけ、心当たりがあったから。
 いっそずっと暗闇にいたいと思っていた。けれどその人の顔を見たいと思う願いだけで、目を開いた。
「希乃……意識が……!」
 まぶたがひどく腫れていて、司の顔を見ることは叶わなかった。顔も体もあちこちが痛くて、幼い日のように全身に発疹が出ているのがわかった。けれどそんな触れるのも憚られるように腫れた希乃の顔を迷わず両手で包んで、司は自分の頬を寄せるようにして言葉を送る。
「わかるか? 俺だ、司だよ……! よく戻ってきたな……ああ、いい子だ……!」
 喉が腫れているのか、希乃は声を出すこともできなかった。それでも希乃が必死で指先を動かしたら、司はそっと希乃の手を包んでくれた。
「ここは屋敷だ。怖くないよ。俺がここにいる。離れない。もう大丈夫だからな、希乃……」
 繰り返し手をさすられるうちに、力が抜けていく。
(司さまのそばなら……怖くない)
 そう思ったのを最後に、希乃の視界はまた暗闇に落ちた。
 それからの日々は、まだもうろうとした意識の中だったが、希乃を安心させるように司がいつも側にいてくれた。
 たびたび吸入器をつけて、食事も点滴だったが、司が屋敷に入れた医療機器と医師のおかげで痛みや苦しみはずいぶんと落ち着いた。何より司が手ずから希乃の肌に薬を塗って、温かいタオルで体を拭いてくれた。
 希乃はそうやって世話を焼かれるたび、自分が今どんな姿をしているかわかって憂鬱だった。
 おそらく倒れてから一週間ほど経った頃、希乃はその憂いを口に出した。
「司さま……もう、薬……ぬらないでください」
 希乃が苦しそうに言うと、司ははっとして言葉を返す。
「痛かったか。ごめんな」
「違うんです……私、ぶつぶつで。触るの、気持ち悪い、でしょう……?」
 顔にも手足にも広がった全身の発疹は、幼い日は二か月ほども引かなかった。希乃がおずおずと手を引っ込めようとしたら、司は希乃の手を頬に押し当てて笑う。
「希乃のどこが気持ち悪いんだ。希乃の手が動いてるだけでも俺は嬉しい。声が聞けるのが愛おしい。触れさせてくれ。な? 痛くないようにするから……」
 司の顔は笑っていたが、その声はすがるようにも聞こえた。どこかに行こうとする希乃を、離すまいとしているように見えた。
(司さまは優しくて……一度懐に入れた子どもを、見捨てられないんだ。私、ひどい体……してるのに)
 希乃が切ない思いでいると、司は優しく目を細めて問いかける。
「なぁ、希乃。この発疹がもし消えなかったとして、どうだというんだ?」
「え……」
 司はそっと希乃の前髪を梳いて、言い聞かせるように告げる。
「消えなかったら、ずっと俺が朝夕と薬を塗って、体を拭いてやる。ちゃんと風呂に入れて、毎日服も着替えさせる。……子どもの頃はそうだっただろう。またいつも希乃に触れていられるなら、俺はそれで一向に構わないんだぞ?」
「司さま……」
 希乃が泣きそうな目で見返すと、司は苦笑する。
「……残念だな? 発疹はあと二週間もすれば消えるよ。だからもうしばらく世話を焼かれていろ」
 そう言って司は希乃の肩に布団をかけ直すと、子守をするようにその肩を規則正しく、とん、とんと叩く。
「かわいい、かわいいのな、希乃。誰にはばかることもなくそう言ってきた。……ただ言葉もわからない連中が、いたってだけだ」
 希乃が眠りに落ちる直前、司が過去を語るようにつぶやいたのが、聞こえた気がした。