橘若頭と怖がり姫

 司の結婚話を聞いて、希乃が思い浮かべたのは彼の両親のことだった。
 組長たる父と、良家の子女たる母、けれど二人は結婚しておらず、一緒に住んでもいない。司の父は気まぐれにたくさんの女性と関係を持ち、子どもも何十人といるが、その中で一番優秀だった司を後継者とすることを決めた。まだ司が子どもの頃に母親から離し、本家へ引き取って跡継ぎとしたらしい。
 後継者として侮られないためなのか、司は身の回りにさえ母について話すことはない。
(でも、お母さんだもの……その人に結婚を勧められたら、私なら)
「希乃、支度はできたか?」
 ノックの音と共に司に呼ばれて、希乃は考えから目覚める。
「は、はい……」
 希乃がおずおずと扉を開けて出ていくと、白いタキシード姿の司に出会った。
 そんな格好、日本人男性では衣装負けしてしまうはずなのに、恵まれた長身に長い手足を持つ司が着れば、元から彼のための衣装だったように見えた。撫でつけた黒髪も、胸元から覗く白いハンカチも、伊達男という言葉が似合う。
 見とれて硬直した希乃とは対照的に、司は甘く微笑んで希乃の手を取った。
「ああ、やはり希乃は淡い色がよく似合う。希乃に合わせて何度も生地を変えさせた甲斐があったな」
 嬉しそうに言う司に、希乃は複雑な気持ちになる。
 このパーティドレスは司が外商を繰り返し屋敷に呼んで、希乃の背丈と肌の色に合わせて作らせたものだった。白地に淡桃色の小花があしらわれたかわいらしいもので、希乃の小柄さと内気さを優しく包んでいる。髪は結わずに下ろして、小さな琥珀の耳飾りをつけていた。
「こんな、きれいな……汚してしまったら」
「ん? 次の機会にはまた別の服を作ってやる。……ほら、寒くないようにショールを巻いてな。靴は柔らかいものにしたが、痛くなったらすぐ言うんだぞ」
 司は高級な衣装に怯んでいる希乃をなだめて肩にシルクのショールを巻くと、当然のように彼女の手を自分の腕にからませた。
 今夜、希乃は司に連れられて大型クルーズ船に乗っている。立ち入ったディナールームは劇場のように広くて人が詰め寄せていた。希乃は足を止めると、おどおどと顔を伏せて言う。
「私……船に乗ったこと、なくて」
「今日は停泊したままにしろと言ってある。揺れないから安心しろ」
「あ……それなら、よかった。私……隅っこで、大人しくしてます、から……」
 司と離れるのは怖いが、彼の仕事の邪魔をしてはいけない。そう思って手を離そうとしたが、司は希乃の手を腕に挟んだままだった。
「俺が希乃を一人にさせると思うか。今日は希乃を外に出してやりたくて来ただけだ。希乃は誰にも笑いかけなくていいし、誰とも話さなくていい。……俺の希乃なんだから」
 司はそう言って、希乃の足を傷めないようにゆっくりと歩みを再開した。
 誰にも笑いかけなくていいし、誰とも話さなくていい。……若頭のパーティの同伴者にそんなわがままが許されるのだろうかと不安だったが、しばらくして司の言う通りだとわかった。
「橘様の融資には感謝の言葉もみつかりません」
「うちの事業が成り立っているのは橘様のおかげで……」
 司はまもなく人に囲まれて、ひっきりなしに客人たちの言葉を受けていたが、みな司に心酔しているように頭を下げていた。傍らの希乃には微笑んで一礼するだけで、希乃から言葉を引き出そうとしたり、ましてや希乃に冷たい態度を取ったりすることもない。
 自分より一回りも二回りも年上の人たちから、まるで王者のように礼を尽くされる。そんな司に憧れを抱いて、ただまじまじと見上げることしかできない。
「ほら、希乃。俺と一緒なら怖くないだろう?」
 あいさつの人々が途切れたとき、司は希乃の頭にぽんと触れて微笑んだ。
「こうやって少しずつ外に慣れていこうな。そのたびに綺麗な新しい服を着せて、おいしいものを食べさせてやるから」
 司の言葉は同伴者に対するものではなく、構いたくて仕方ない小さな子どもに対するものだったけれど、希乃はその慈愛に安心を感じてしまった。
 希乃はこくんとうなずいて、おずおずと司の腕に手をからませようとしたとき……ふと人波の中の一人の女性と目が合った。
(あの、人……)
 それは先日司と結婚の話をしていた女性で、希乃の顔から血の気が引く。
「あ……」
 女性は刺すような目をして、希乃にその手を離すように命令しているように見えた。
 何もできない小娘が、司のような王者の手を取っていていいはずがない。女性の命令の方が正しいのは、希乃もわかっていた。
 希乃は怪訝そうに見下ろした司の顔を見れないまま、うつむいて「お手洗いに行ってきます」とつぶやく。
「希乃……!」
 希乃は手を伸ばした司から逃れて、足早に人波を抜けた。化粧室に入るとあの女性が複数人の女性と待っていたのも、当然の結果だった。
 カツンと、女性の高いヒールが音を立てる。司によって希乃を守るように揃えられた、柔らかい子ども用の靴とは違う。
「司はね、あなたが世界で一番かわいい生き物だって言うのよ。……だったらかわいくない生き物になったらいいわね」
「ま、待っ……て」
 希乃は取り巻きの女性たちに腕を取られて押さえられた。彼女らの手にあったのは、パーティで出されていたプディングだ。
 凶器でも何でもないそれに怯えたのは、希乃の中に恐ろしい記憶があったから。
「私、アレルギーがあって……それ、食べられな……」
 希乃が必死に首を横に振っても、無造作に希乃の口にそれがあてがわれる。
「……知ってるわよ。全身の発疹でぼろぼろになって……死ぬこともあるそうね」
 喉を通っていく凶器と同じものを、希乃は震えながら受け入れるしかなかった。