【1話だけ大賞用】冴えなかった元彼が、王子様になって帰ってきた。



***

 十月二十日、二十九歳の誕生日。

 婚約者の裕一から事前に伝えられていた予約の取れない高級日本料理店に足を運び、案内されるがまま個室部屋へ入ったとき、悠里は胸に期待を秘めていた。

 「(これってもう、プロポーズ……だよね?)」

 悠里と付き合っている玉木裕一とは、同じ職場の上司であり、お付き合いをはじめて二年になる悠里の婚約者でもある。

 半年前から同棲もはじめ、悠里は彼との結婚に向けて着々と準備を進めてきていた。

 そして、悠里の誕生日にこんなにも素敵な食事処を予約してくれているということは……と考えたところで、彼女の心は幸せに満ちていく。

 会社でも重要なポストで働く多忙な裕一とは、毎日すれ違いのような生活が続いていたけれど、いよいよ結婚という選択をしてくれることに、悠里は大きな喜びと、少しばかりの安堵の気持ちを持って席に座った。

 「ただいま裕一様達も到着されたようですので、もうしばらくお待ちください」

 「〝達〟?」

 上品な着物に身を包んだ女将からのその言葉に、違和感を持った瞬間だった。

 スッと開かれた襖からやってきたのは、相変わらず高価なスーツを着ている裕一と、それから見知らぬ一人の女性。

 裕一もそのとなりにいる女性も、どちらも同じように浮かない表情で目を泳がせていた。何がなんだか分からない悠里は、どうにか状況を理解しようと自ら声を挙げる。

 「裕一さん、えっと……そちらの方は?」

 「……っ」

 今日は悠里にとって、これまでの人生の中で一番幸せな日になるはずだった。そう確信していた。

 二年前、営業部の部長代理として活躍する裕一を支える秘書だった悠里に告白したのも、同棲を言い出したのも裕一のほうだった。

 ここ半年ほどまともに会話もできないくらい多忙を極めていた裕一だったけれど、同じ家に住み、側にいさせてくれることが何よりも自分を愛してくれている証だと思っていた悠里は、自分の仕事以外でも彼を献身的に支え続けていた。

 互いの両親にも挨拶を済ませ、いずれは結婚するだろうということは、二人のことを知る誰もが思っていたことだった。

 けれど、現実はそう甘くはなかったらしい。


 「すまない、悠里。今日は君と別れるために、ちゃんと説明をしたくてここに呼んだんだ」

 「……別れる?」

 「もちろん、こちらの一方的な婚約破棄というわけだから、それなりに慰謝料も支払うつもりだし、悠里の家探しや身の回りのことなんかも僕が責任を持って面倒を見るつもりだ」

 「家、探し?家から出て行けってこと?」

 「僕達からきちんと説明させてもらうから、どうか最後まで聞いてもらえないだろうか」

 「……僕達」

 そして、悠里はこの最悪な状況から立ち直るのに一年という月日を費やすのだった。

 もっとも、一人では到底無理だった。

 あのような一方的な別れを告げられた挙句、両親や友人達に事のあらましを説明をしなければならないのは必須だった。

 それに加えて悠里の年齢が二十九歳ということを鑑みても、婚約を破棄され、また一から振り出しに戻った彼女のショックが相当なものだったことは言うまでもない。

 それでも悠里は諦めなかった。




 「──あれ、もしかして……悠里ちゃん?」

 「!?」

 「俺だよ、覚えてる!?えっと、その、君の元彼の……」

 「覚えてるよ。丹波理人くん、でしょ」

 それは、悠里が高校時代に初めて付き合った元彼と再会し、再び彼とのつながりができたから──。

 当時は悠里と手を繋ぐことにすら緊張して、顔さえまともに見られず、大学進学と同時に別れることになった、あの冴えなかった元彼の理人が──……社内で王子様と呼ばれるような大人に大変身していた。

 そして、そんな王子様に成り上がった元彼が、再び悠里の手を取ろうとしてくれたから。

 「今度は君を、離したくないんだよ」

 「もう一度、悠里ちゃんの一番近くにいていい権利をもらいたくて必死なだけ」



***

 「今日からうちの総務部に配属された、奥畑悠里さんです」

 「はじめまして、奥畑と申します。本日よりこちらで働かせていただくことになりました。よろしくお願いいたします」

 悠里がやっとの思いで勝ち取った、転職先の『四ツ谷食品株式会社』。

 明治創業の食品製造会社で、今では日本を代表する大企業にまで成長し、海外にも多くの支店を持ちながら全国のさまざまな食を支えている一流企業だ。

 「じゃあ奥畑さんは、そちらにいる仁科さんから仕事を教わってください」

 「はい、かしこまりました」

 毎朝行われている簡易なミーティングも終わり、人柄の良さそうな部長は早々に次の会議へと去っていく。

それに倣って総務部の人達も各自自分の仕事へと戻っていく中で、悠里の教育係になっている仁科真紀子はヒラヒラと手を振りながら悠里を呼んだ。


 「初めまして奥畑さん!私、仁科真紀子です!分からないことがあったらなんでも聞いてね!」

 「仁科さん、初めまして奥畑です。ご迷惑をおかけすることもあるかと思いますが、精一杯努めます。よろしくお願いいたします」

 「あらやだ、そんなにかしこまらなくて大丈夫よ!この部署、結構ゆるゆるなの!」

 悠里よりも四つ年上の真紀子は、大学を卒業してから現在に至るまでの十二年間、結婚、妊娠、出産の経験を経てもなおこの四ツ谷食品に勤め続けているベテランの先輩だった。

 「ここが給湯室で、お昼お弁当の人はこの冷蔵庫に冷やしておくの!で、こっちの棚にあるものは全部食べ放題の飲み放題だから、ちょっと休憩挟みたいときは気軽に使っていいからね!」

 「はい」

 「で、次が──……」

 一番に給湯室を案内する真紀子は、悠里の緊張を少しでもほぐそうとする心優しい先輩で、悠里もそれを察して少しばかりホッと肩の荷を下ろした。

 「じゃあまずは各部署から届いた休暇届を、このエクセル表に入力していってもらおうかな」

 「かしこまりました」

 裕一から一方的な別れを告げられたあの日から、悠里の心は完全に崩壊した。

 食事を摂ることはおろか、会社へ行くことさえできなくなって、休職願いを出そうと思っていたけれど、当時の悠里の上司は裕一である。

 悠里の心を壊した張本人と顔を合わせることなどもっての外で、悠里は最低限の荷物だけ持って格安のビジネスホテルへ逃げていた。

 そんな状態の悠里が休職申請の許可を取るために彼と話すことなどできるはずもなく、これまで溜まりに溜まっていた有給をすべて使い果たしたのち、休職ではなく退職届を会社の人事部へ直接提出することがやっとだった。


 『ホテルなんて疲れが取れないだろう、家に帰ってきてほしい』

 『もう一度二人できちんと話し合いをしよう』

 『僕のことを殴ってくれても構わないよ。だから顔を見せてくれないか』

 悠里の誕生日の翌日から、彼女のスマホには毎日のように裕一から数々のメッセージが届いていた。

 少し前まで多忙を理由に連絡さえまともに取り合えなかったというのに、別れるとなった途端に人はここまで変わるものなのか。

 悠里はシングルサイズの固いベッドの上で、膝を抱えながら彼と共にした二年間を振り返って、それらを嘲笑うように鼻を啜って泣くことしかできなかった。



 「悠里ちゃん、お昼どうする?」

 半年前のことを思い出しながら、ひたすらにパソコン作業を熟していた悠里に声をかけたのは真紀子だった。

 「え?」

 「もうお昼だよ?ご飯食べないとね!お弁当持ってきてる?それともどこか食べに行く予定?」

 「あ……えっと、外で簡単に摂ろうかと」

 「なるほど!じゃあさ──」


 そう言って真紀子に誘われてやってきたのは、会社のビルを出て徒歩五分の場所にあるパスタ屋だった。

 悠里達がお店の中に入ると、席には同じ総務部の人達が三人席に座っていた。


 「奥畑ちゃん連れてきた!」

 「そっか、真紀子が教育係になったんだもんね」

 「奥畑さん、ここ座りな?あたし達いつもここか近くのパン屋でご飯食べてるんだよね」

 「ささやかながら、今日はあたし達が奢ってあげるから好きなの選んでいいよ!」

 緊張気味に体を強張らせていた悠里とは正反対に、真紀子達先輩組は優しく彼女を迎え入れた。

 四ツ谷食品という大手企業に就職を決めても、職場の人間関係が一番気がかりだった悠里にとって、この環境はものすごく有難いものだった。

 「あ、この鱈子クリーミーパスタおすすめだよ!私毎回これ頼んじゃうんだよね!」

 「真紀子ってば本当に鱈子好きだもんね」

 「いつかあんたが痛風にならないか、あたしらの心配はそこだけ」

 「だ、大丈夫だよ!家ではあんまり食べないし!」

 話を聞くと、三人の先輩はみんな真紀子の同期で、これまで異動や産休を繰り返しながら、今ではこうして四人とも総務部として一緒の部署で働いているのだという。

 真紀子達四人を見ていて感じた、会社の同期という枠を超えて仲が良さそうなその雰囲気に、悠里はスッと肩の力が抜けていくのが分かった。


 「あ、そういえば悠里ちゃんの歓迎会やらないとだね」

 「確かに。うちの部署ってみんなちゃんと歓迎会してもらってるしね」

 「いえ、そんな!みなさんにこうして今日ランチに誘っていただけでもう……」

 「実はね?奥畑さんの歓迎会を開いてあげなさいねって、すでに私、部長からポケットマネー預かってるんだよね」

 「ウチらの部長って本当にいい人だから、こういうときは甘えたほうがいいのよ」

 「そうそう。ほら、それにさ──……タイミングが合えば〝王子様〟も参加してくれるかも、だよ?」

 「……王子、様?」

 全員のお皿が空っぽになったタイミングで、〝王子様〟についての話題を切り出したのは佐藤奈美だった。

 奈美のその話題に、手を叩いて『それだ!』と乗り気になった真紀子達を他所に、悠里はキョトンと頭を傾げた。

 「あのね、奥畑ちゃん。これから今日一番重要なことを伝えるね?」

 「じゅ、重要なこと……ですか?」

 「うん。とっても大切なことだから、よーく聞いておいてね」

 「でしたらメモを出すので少し待ってください」

 「いいのいいの!メモなんて取らなくていい」

 「そう、ですか」

 入社初日の、一番重要なことってなんだろう。

 真剣な表情でそう言う真紀子に、悠里は背筋を伸ばして身構えた。


 「うちの会社にはね、王子様がいるの」

 「……え?」

 「もうね、本当にキラッキラなの。背も高くて爽やかな子でね?」

 「えっと、あの」

 「そうそう。鼻筋もシュッてしてて、程よく大きな二重の目にね、口角がキュッて上向いてんの」

 「最初見たとき、君はアイドルかね!?ってあたし叫んじゃったもんね」

 「しかもね?なんと経営企画部に所属されてんのよー!うちの社内で一番の花形出世部署!頭良いんだって、彼!」

 真紀子達四人がキャッキャと〝社内の王子様〟について熱く語っている様子を見て、悠里の脳内は混乱していた。

 それでも構うことなく真紀子達先輩組は王子様のことを止めどなく話し続ける。


 その〝王子様〟は大学院を卒業後に入社して以来、早々に人事部、営業本部、経理部などを回ったのち、会社随一のエリート部署と言われている経営企画部に所属が決まったそうだ。

 そこから会社全体を巻き込んだ大型プロジェクトの責任者になったり、海外展開も積極的に行ったりと、類稀なる才能を発揮している期待のホープならしい。

 顔も良くて仕事もできるうえに、プロジェクトに関わる部署によく顔を出して手土産や差し入れを持ってきてくれる気遣いもできるイケメンだとたちまち有名になり、そしていつの間にか付けられたあだ名が〝王子様〟なのだとか。

 「いい、奥畑ちゃん?今からそんな彼の名前を教えるね?今日はもうこの名前さえ覚えて帰ってくれたらいいからね?」

 「あんた教育係として最悪だよ、それ」

 両手でガッと悠里の肩に手を置いて向かい合いながら、真紀子は彼女を見つめる。

 きっと先輩達は、こうして場を和ませて自分の緊張をほぐそうとしてくれているのだろうと、悠里はそう考えてふっと笑みをこぼした。

 「彼の名前はね、丹波理人くんっていうの」

 「丹波、理人?」

 その名前を聞いた瞬間、悠里の心臓が大きく跳ねた。

 「あ、そういえば奥畑ちゃんと理人くんって同い年じゃなかった?悠里ちゃんも今、二十九歳だったよね?」

 「そう、ですね……」

 「彼まだ独身みたいだし、噂によると彼女もいないみたいだからさ!奥畑ちゃん、狙っちゃいなさいよ!」

 「え?」

 「あたし達はほら、もう旦那も子供もいるし?狙ったらいろいろアウトじゃん?」

 「うちら先輩組は、奥畑ちゃんを全力で応援するからね!」

 ──丹波理人。

 その名前を聞いて悠里が思い出したのは、今では遠い過去となったほんのわずかな記憶。

 悠里の二十九年という人生を振り返ったとき、一番フレッシュでキラキラしていたのが高校時代だった。

 あのころの悠里は友達にも恵まれ、バスケ部に所属して仲間とともに目標へ向かってひたむきに汗を流し、学校の外では読者モデルをしていた時期もあって、彼女の中でもっとも輝いていた、青春そのもののような眩しい思い出となっている。


 そんなときにできた、はじめての彼氏。

 それがまさしく社内の王子様と呼ばれる彼と、同姓同名を名乗る人だった。

 「(いや、でも同一人物なわけないよね)」

 悠里の知る丹波理人と、真紀子達から聞く同姓同名の社内の王子様とはまるで人となりが違っている。

 脳裏によぎった彼の姿を振り払って、悠里は鱈子クリーミーパスタと一緒に注文したレモネードをグイッと吸い上げて飲み干した。


 「あ、まずい。そろそろ会社に戻んないとだ」

 「本当だね、話し込みすぎちゃった」

 「すみませーん!会計をお願いします」

 気づけば店に掛けられている時計はもうすぐ十三時がこようとしていた。

 真紀子達は大慌てで会計を済ませたあと、そそくさと店内を後にする。

 「ご馳走していただいてありがとうございました。すごく楽しい時間でした」

 「いいのいいの!私達も盛り上がっちゃったし!楽しすぎて時間ギリギリになっちゃって、お腹パンパンの状態で小走りさせちゃってるくらいだしね!」
 
「またみんなでランチしようね」

 OL五人が小走りに道路を渡って、飛び込むように会社へ入っていく様子が面白くて、悠里はここで長く働けたらいいなと強く思った。

 悠里が転職活動を行えるようになったのは、裕一から別れを告げられたあの日から半年以上経ってのことだった。

 いつまでも裕一を避けてビジネスホテルに連泊するわけにもいかず、一度関西にある実家へ帰るべきかと思案していたとき、裕一から『今の家を使ってくれ。僕は出張で戻れないし、悠里が嫌と言うならあの家には戻らないようにするから自由に使ってくれ』と最後の情けをかけられて、その日から今日に至るまで、悠里は彼と同棲していた二LDKのマンションに一人で住んでいる。

 最初は家中の目に留まるものすべてに思い出が詰まっていて、過呼吸になるほど泣きじゃくり、そしてまた意気消沈し、何日も引きこもるという生活を繰り返していた。

 裕一のことを思いながら毎日料理をしていたキッチン、忙しい仕事から帰ってきたときに少しでもリラックスしてもらえるようにと家中の掃除は欠かさず、お風呂場や寝室はより一層気を遣っていた。

 それだけじゃない。裕一のスーツの管理から車のガソリンやオイル交換まで、身の回りのことをすべて担っていた悠里にとって、わざわざ自分の誕生日に他の女を連れてきて別れるための説明をされたという裏切りはどうしても耐え難いものだった。

 けれど、いつまでも泣き腫らして一日を終えるだけではいけない。今は裕一が契約してくれているこのマンションに住んでいるからいいものの、いずれは自分で家を借り、一人で生活をしていかなけらばならない。

 悠里の沈み切った気持ちを動かせたのは、これから先、一生一人で生きていくのだという覚悟だった。

 恋愛なんて、もう二度としない。

 誰かを好きになったり、愛してしまったりするから裏切られたときに傷を負ってしまうのだ。いくら婚約をして将来一緒にいることを約束していた仲でも、こうして人はあっさりと裏切り、離れていってしまうのだから。

 「(これ以上、他人のせいで自分の心を傷つけられたくない──……)」

 〝だからもう、二度と他人を愛したりはしない〟

 涙が枯れるまで泣き続けたあと、悠里はそう強く決意したのだった。

 そして、この四ツ谷食品に入社した何よりのきっかけは、一生一人で生きていくための手段の一つだった。

 大手企業ならではの給料と充実した福利厚生、あまり贅沢をせずに定年まで勤め上げればきっと老後は困らない程度の貯金もできる。

 誰にも頼らず一人で生きていくには……と考えた末の、今回初めてとなる転職活動は間違いではなかった。

 悠里はそんなことを思いながら、午後からの仕事も真紀子に教わってパソコンのキーボードを鳴らしていた。


 「仁科さん、こちらの作業終了しました」

 「ありがとう!奥畑ちゃん早いね」

 「いえ、丁寧に教えてくださるおかげです」

 「あ、そうだ十五時から六階の会議室CとEで会議があるんだけどね?その準備しに行かなくちゃ、だから一緒に行こうか」

 「はい、分かりました」

 「同じフロアの準備室に大量の缶コーヒーとかお茶とかおしぼりがあるから、それを人数分並べなくちゃいけなくてね?会議室が一気に埋まる日なんて最悪なんだよー!」

 真紀子と二人でエレベーターで六階まで上がり、会議室の準備について一から教わる。

 支給されたタブレットから会議室の予約状況を確認して、プロジェクターや人数分の椅子、それからおしぼりと飲み物を用意するまでが総務の仕事だという。

 「じゃあ私はCのほう準備してくるから、奥畑ちゃんはEの部屋をお願いできるかな?」

 「準備してきます」

 悠里のほうは経営企画部の戦略会議に使われる予定で、真紀子の部屋は人事部の定例会議が行われることになっている。

 手を振りながら会議室Cに入っていく真紀子を見て、悠里も同じようにE室の扉を開けた。


 「──あ、総務部の方ですか?」

 「ひゃっ!」

 「ここの会議室、僕が準備してるんで大丈夫ですよ……って、あれ?」

 会議室の中へ入った途端、まさか他の社員がいるとは思ってもいなかった悠里は、突然かけられた声に思わず飛び跳ねて驚いた。

 冷静に考えれば、会議室を使う部署の人達が資料の準備やプロジェクトの設置をしに来ていてもなんら不思議ではない。

 「す、すみません!他の方が来ていらっしゃるとは思わず……、失礼いたしました!」

 「……」

 「えっと、会議室の準備ありがとうございます……!」

 「──もしかして、悠里ちゃん?」

 中にいた男性社員に名前を呼ばれた瞬間だった。

 悠里の心臓が、ドキッと大きな音を立てて飛び跳ねる。

 「……っ」

 その胸の高鳴りは、ランチのときに感じたそれとまったく同じものだった。

 少し前に蓋をしたばかりの〝あの記憶〟が鮮明に蘇っていく。


 「あ、えっと、ごめんね!?その、いきなり名前で呼んじゃって!」

 「い、いえ……っ!」

 「奥畑悠里さん、で合ってますか?えっと、俺のこと覚えてるかな?その、君の元彼の……」


 あのときから全然変わっていない、悠里のことを呼ぶ彼の声。細身の長身で、初めて出会ったときからやけにスタイルがいい人だなと思っていたけれど、スーツの効果でそれが際立って悠里の目に映った。

 当時は目にかかるくらい前髪を伸ばしていたから、顔を覗き込まないと表情がうまく読み取れない彼だったけれど、今はふんわりとした黒髪を程よくセットしていて、真紀子達が〝王子様〟と呼ぶ意味がすぐに理解できてしまった。

 「──……うん、覚えてるよ。丹波理人くん、だよね?」

 悠里は平静を装って冷静に言葉を紡ぎながらも、心の中では大混乱を引き起こしていた。

 「(う、嘘でしょ!?やっぱりあの〝王子様〟って……元彼の理人くんのことだったの!?)」

 信じられない、あの彼が社内の花形部署に所属しているエリート社員の王子様!?

 何より高校時代の元彼と同じ会社に転職しちゃったってこと、私!?

 パニック寸前の悠里は、どうにかその場を誤魔化そうと必死の引き攣り笑いで耐え抜いていく。

 けれど動揺の色を隠しきれていない様子の理人は、手に持っていた大量の資料をバサリと落とた。そして真っ赤に染まった顔を両手で隠しながら、その場にしゃがみ込む始末。

 「あ、あの、理人くん?大丈夫?」

 「……ごめん、ちょっと大丈夫じゃないかも」

 「えぇ!?」

 「悠里ちゃんにとってみれば、元彼と会社で会うなんて気まずいよね」

 「そんなことは……」

 「でもごめん。俺、それでも君に会えたことが嬉しくて」

 「え?」

 「ちょっと今……パニックになってる。どうしよ、いろいろ追いつけない。倒れそう」

 「えぇ!?あ、あの、どうしよう」

 ここは一旦退室するべきだろうか。

 悠里も一度一人になって頭を整理する必要があった。このままではこのあとの業務に支障が出てしまう。


 「じゃあ私、外に出てるね?あの、もう一つの会議室の準備に行ってるから……」

 「──行かないで」

 「え?」

「ここに、いてほしい」

 理人の力強い言葉に、素早くその場を去ろうとしていた悠里はピタリと体の動きを止めた。

 「仕事中にこんなこと言うのよくないって分かってるんだけど……」

 「うん?」

 「今日、仕事が終わったら少し話せないかな?」

 「あ……」

 「も、もし悠里ちゃんの都合がよければ、で大丈夫だよ!」


 気づけば理人は悠里と向かい合うように立ち上がっていた。

 とはいえ彼の両手は未だ顔を覆ったままだけれど。

 「うん、今日は何も予定を入れてないから大丈夫」

 「よかった!ありがとう」

 「ふふっ、なんで顔隠したままなの」

 「あ、いや、だって俺今絶対変な顔してるから……っ」

 予想もしていなかった理人との再会に、最初は悠里も理人と同じくらいの衝撃を受けていたけれど、不思議なことに気まずさややりづらさは感じられなかった。

 変わらず優しい声色で悠里の名前を呼んでくれたからだろうか。

 それとも当時のように悠里を前にすると顔を真っ赤にさせていたからだろうか。

 その理由は、悠里にはまだ分からない。

 「私ね、今日が初出勤なの。だからそろそろ行かなきゃ」

 「あ、そうだったんだ!……って、そうじゃなくても緊張してるだろうに、引き止めちゃってごめんね」

 「ううん、むしろ知ってる人に会えてよかった」

 「……!」

 「じゃあ、また後でね」

 「うん、楽しみにしてる。頑張ってね、悠里ちゃん。何かあったら力になるから」

 理人の言葉に押されるように、悠里は会議室をあとにする。

 彼女の心は穏やかではなかった。

 理人に出会った瞬間から、言葉では言い表せられないような感情がずっと渦巻いている。


 「奥畑ちゃん、そっちの準備どう?もうできた……って、顔真っ赤だけどどうしたの!?体調悪い!?」

 会議室を出ると、ちょうど同じタイミングで真紀子も別の会議室の準備を終えて出てきたところだった。

 まずい、と思ったときにはもう手遅れで、悠里の火照った顔を見て真紀子は慌てて駆け寄った。

 「だ、大丈夫です!」

 「本当!?何かあったらすぐに言うんだよ?……あ、じゃあついでに医務室の場所教えておこうかな!」

 「はい、お願いします」

 「えっとね、確か八階だったような──」

 悠里はこの感情の名前を未だに見つけられないまま、顔を火照らせながら真紀子の後をついて走った。