あの日助けた君をもう一度好きになる


「ヒロ! ヒロッ、しっかりして!」
 
 幼馴染のるきあの声が、遠くで話してるみたいに聞こえる。
 苦しい。息がしづらい。目の前が真っ暗だ。
 オレは呼吸を整えるのに精一杯で、なにも考えられなかった。
 ただ、るきあが必死に叫んでいたことだけは聞こえていた。
 
「君、大人の人呼んで来て!」
 
 不審者から助けてくれた男の子に、るきあは頼んでいた。
 男の子の「わかった!」という言葉が聞こえて、小刻みな足音が遠ざかっていく。
 それから救急車に乗って病院へ行ったみたいだけど、目が覚めた時には発作は治まっていて。
 その時のるきあと兄貴の心配そうな顔は、今でもよく覚えている。


 ピピピピ、ピピピピ──

 スマートフォンから鳴り響く煩わしい電子音で目を覚ます。
 手を伸ばしてそれを掴み、寝ぼけながら音を止めると、時刻は七時三分。
 いつもなら、もう少しだけ……と布団に潜り込むところだけど、あいにく今日は用事があった。それに、昔の夢を見たせいか汗がじっとりで、夏も過ぎたというのにシャツが肌に貼り付いていた。
 
「にゃおん」
 
 猫の倫太郎(りんたろう)が、心配そうに鳴いてこちらを見つめている。
 
「ああ、ごめんごめん。ちょっと着替えるから、ご飯待っててな」
 
 新しいシャツを持って洗面所へ行き、軽く汗を拭いて着替えた。
 それにしても、あの夢を久しぶりに見た。
 思い出すだけでも発作が起きそうになる、トラウマになった出来事の夢。
 せっかく現実へ目が覚めたっていうのに、まだ胸の辺りがきゅうっと痛む。
 ああ、だめだ。思い出したくない。
 パン! と両手で頬を叩いて、気を取り直した。
 ついでに身支度を整え、いつでも出かけられるようにしておく。
 
 倫太郎にご飯をあげてから、自分の朝食を準備した。
 倫太郎は、数日前に隣に住む幼馴染のるきあがもらってきた猫だ。
 譲り受けたのはいいけど、るきあの父親の猫アレルギーが発覚して、半ば強引に押し付けられた。
 ペット可能なマンションなので問題はないけど……。
 でも、最初はどうしたものかと思ったけれど、飼ってみると意外とかわいいものである。
 
「にゃおん?」
 
 倫太郎はご飯を食べ終え、首を傾げるように鳴く。
 ああああ、かわいい。
 いつまでも愛でていたいけれど、そうもいかなかった。
 朝食の後片付けもそこそこに、いつもの青いパーカーを羽織るとオレは「行ってきます」と言って家を出た。

 七時五十分。
 よし、これなら余裕でバスに間に合う──と思った時だった。
 目の前の店のシャッターが、ガラガラと大きな音を立てて開く。
 そこには、茶色いエプロン姿の若い女性店員さんがいた。
 
「あら、ヒロくん。おはようございます」
「おはようございます、(しの)さん」
 
 彼女は、朝倉篠さん。マンションから五分ほど歩いた場所にある花屋の店員さんだ。
 花屋ってこんな早朝から開けるものなんだな。
 
「私服……ヒロくん、学校は?」
「あっ、今日はちょっと用事があって」
「なぁんだ。てっきりまたサボりなのかと……」
また(・・)? 誰がそんなこと……」
「ふふ、ごめんなさい。ヒロくんがサボりの常習犯だって聞いたものだから」
 
 篠さんは、やんわりと名前を伏せたけど、その言い方でオレはピンと来た。
 おそらく、担任教師の迫河(はくが)だろう。
 二人は知り合いなのか……余計なこと話せないな。

 そう話し込んでいるうちに、バスの時間が迫っていた。
 
「あっ、すみません、バスの時間があるので!」
「そうだったの、引き留めちゃってごめんなさいね」
 
 オレは数メートル先のバス停まで急いだ。

 
 バスが来るまで、あと数分。オレは一人、バス停で立っていた。

(夢のこと……相談しないとな……)

 今朝の夢を、鮮明に思い出してしまう。
 やっと見なくなったと思っていたのに。
 そう思ったとたん、胸の奥に嫌な感覚が走った。
 だめだ、と思った時には、もう遅かったようで。
 心臓がぎゅっと強く掴まれたような痛みが襲ってきた。

(ちょっ……うそだろ……!?)

 ふらりと倒れそうになり、思わずその場にうずくまる。
 呼吸が浅くなる。視界がかすむ。
 夢を思い出しただけで、こんなになるなんて。
 自分の身体なのに、言うことをきいてくれない。

「あの……大丈夫ですか……?」

 控えめな声が耳に届いて、なんとか顔をそちらへ向ける。
 そこには、見知った顔の男子生徒がいた。

「なる……さわ……?」
「えっ……? おまえ、香西(かさい)……?」

 なんで鳴沢がこんなところに……?
 通学路だったのか……。
 その間にも、バスは来てしまった。
 扉が開くが、俺はうずくまったまま、まだ動けない。
 運転手の「乗りますか?」という声に反応できず、鳴沢が「すみません」と代わりに答えてくれる。

「おい、乗れるか?」

 鳴沢の問いに、かろうじて首を横に振った。

「すみません、行ってください」

 バスの扉が閉まり、走り去っていく。
 静かになった停留所に、置き去りにされたような感覚だった。
 しばらくして、ようやく心臓が落ち着いてきた。息も、なんとか普通に吸える。
 それでも、顔を上げる気にはなれなくて伏せたままでいると、鳴沢の視線を感じた。
 そりゃ、そうだよな。
 クラスメイトが、朝からこんな風になってたら、誰だって気になるよな。

 オレはなんとか立ち上がり、ふらふらとバス停のベンチに座り込む。
 鳴沢はその場に立ったまま、少し距離を取って、オレを見下ろしていた。
 
「なに、おまえ。体調悪いの?」
「……ちょっと」
「ふぅん」

 短いやり取りのあと、シーンとなる。
 気まずい……というより、どう接すればいいかわからない。
 
「大丈夫そうなら、俺、もう行くけど」
「うん……」

 お礼を言うべきなのだろうか。
 でも、声をかけられただけで、手を貸されたわけじゃない。
 この状況で、どんな言葉が正解なのか、オレにはわからなかった。
 結局、鳴沢は黙ってその場を去って。
 オレは二十分後に来たバスに乗って目的地へ向かった。

 
 *

 ほんのりと消毒液の匂いが漂う診察室。
 オレは月に一度、この鳴沢病院へ診察に来ている。
 
「はい、いいわよ」
 
 担当医である秀実(ひでみ)先生が聴診器を外し、オレは裾を広げていたシャツを正す。
 現状良好。このまま何事もなく平穏に過ごしたい。
 
「何か、気になることはない?」
 
 秀実先生は穏やかな表情で訊ねてきた。
 症状としては特になかったけれど、今朝見た夢のせいで少し発作が起こったことを説明した。
 
「そう、あの時の……まだ夢を見るのね」
「はい。時々ですが」
 
 オレの主治医は、秀実先生の夫で院長の鳴沢有人(なるさわありひと)先生だった。しかしオレの病気がかなり特殊なこともあり、十年前のあの事件をきっかけに担当医が秀実先生になったのである。
 
「あの時、院長に香西先生の娘さん(・・・)だと聞いて驚いたわ。まさかそんな病状があるなんて」
 
 オレの病気は、香西家に生まれた女性にしか発症しないと言われている。
 今までに治った記録がなく、医者だったオレの両親はこの病を治す薬を研究・開発するために、よく海外へ行っていた。そして、オレが小学校へ入学する前に事故で亡くなった。
 オレには歳の離れた兄がいて、今は兄が両親の意思を引き継ぎドイツで薬の研究をしている。
 
「でも、この間お兄さん──邦久(くにひさ)くんから連絡があったわ。開発は順調だそうよ」
「そうですか。良かったです」
「もう少し、一緒に頑張りましょうね」
 
 秀実先生は優しく笑いかけて励ましてくれる。
 でも……。
 薬ができたら、オレは本当に治るのだろうか?
 一抹の不安がよぎる。

 ──異性過敏症(いせいかびんしょう)

 それが病名だ。
 医学的には正式な病名ではないけど、便宜上そう呼ばれている。
 オレはこの病気のせいで、性別を偽って生活している(・・・・・・・・・・・・)