海の王子さまたちに愛される未来なんて、想像したこともなかった——私が「乙姫の末裔」だと知るまでは……。
昼休み。教室の窓から見える海は、いつもと同じ青——のはずだった。
なのに今日は、波の白がやけに鋭くて、空気がしょっぱい。風のせいじゃない。胸の奥で、貝殻をこすり合わせるみたいな音がしていた。
私——手塚乙波(おとは)中学2年生は、海の近くで育った。
だから海は、怖い。……と同じくらい、好きだ。
小さいころ、溺れかけたことがある。なのに懲りずに浜へ行って、打ち上げられた貝を拾って、町の昔話を聞いて。そうして今も、週末は海岸清掃のボランティアに顔を出したりする。
矛盾してる、って言われる。
でも海って、そういうものだ。優しくて、容赦がない。
昔からこの町には、海にまつわる不思議な言い伝えが多い。
波が荒い日は海に近づくな、とか。拾った貝は粗末にするな、とか。
私が胸につけている小さな貝殻のペンダントも、子どものころ浜で拾った貝を紐に通しただけのものだ。けれど、なぜか手放せず、制服の下にいつも忍ばせている。
「乙波、顔色わるくない?」
隣の席の友達が覗き込む。
「だいじょうぶ。ちょっと、息が…」
私は思わず制服の胸元を押さえた。普段はただのアクセサリー。でも今は、冷たいはずの貝が、ぬるく熱を持っている。
——ザァ……。
耳元で波の音がした。教室のどこにも海なんてないのに。
その瞬間、ペンダントが淡く光った。
「……え?」
私は椅子を引いて立ち上がった。周りはいつも通り、笑い声とお弁当の匂い。私だけが、海の中みたいにぼんやりしている。
なのに、私の耳には誰かが私を呼ぶ声がする。
——こっちに来てください……。
気づけば、足が勝手に廊下へ出ていた。
屋上へ続く階段の踊り場で、潮の匂いが濃くなる。
おかしい。ここは校内。
いつもなら、こんなに強く潮の匂いを感じないのに……。
扉を押し開けた瞬間——
屋上のコンクリートに、ぽつんと水たまりができていた。
さっきまで晴れていたのに、雨の気配もない。なのに水面は、海みたいにゆらゆら揺れている。
「乙波様」
背後から、低く澄んだ声。
振り返ると、そこにいたのは——同い年くらいの男の子だった。青みがかった黒髪、制服みたいな上着の襟には亀甲模様の刺繍がある。何より、目が妙にまっすぐで、海の底みたいに深い。
「……誰?」
私の声は、情けないほど小さかった。
彼は一歩近づき、深く頭を下げた。
「私は蒼(あお)。あなたをお迎えに、竜宮城より参りました」
「りゅ、竜宮城……?」
昔話の浦島太郎?その竜宮城?
蒼は、私の胸元の貝殻を見て、うなずいた。
「やはり。貝殻が反応しています。あなたは——乙姫様の末裔です」
心臓が、どくんと跳ねた。
乙姫。
その名前は昔話で知っている。けれど、どこか他人事じゃない響きがした。潮の匂いと一緒に、胸の奥がきゅっと引かれる。
「ちょ、ちょっと待って。乙姫って、昔話の?」
「昔話にされた方、です」
「……されたって、言い方が怖い」
蒼は少しだけ困った顔になる。
「乙姫様は、ある人間の男性に恋をされ、子を身ごもりました。しかし、乙姫様は海に残らなければならず、男性とは離れることに……。その際、産んだ子をその男性に預けました」
「それが私の先祖だっていうの?」
「ええ。そして、二人が離れていても、子の未来のため、海を一緒に守っていこうと約束をされました。最初のうちは代々その約束が守られていたようです。ですが——長い時間の中で、その約束が薄れてしまった」
「約束……」
私はふと、海岸清掃で拾うものを思い出した。ペットボトル、発泡スチロール、釣り糸。拾っても拾っても、次の週にはまた増える。
薄れる約束。忘れられたもの。
私は考え込むように黙ってしまうと、蒼は困ったように眉を下げた。
「いきなりこんな話をされ困惑されるのは当然です。……では」
彼は、私の手首にそっと触れた。
冷たい。海水に触れたみたいに。
次の瞬間、私の掌に、淡い青の紋様が浮かび上がった。波と、貝と、三日月みたいな形。
「え、なにこれ……!」
紋様は、痛くない。でも、胸の奥に「帰る」感覚があった。ここじゃない、どこかへ。
同時に、頭の中に短い旋律が流れた。波打ち際で聞いた気がするのに、思い出せない古い歌。
蒼が真剣な目で言う。
「海が危機に瀕しています。あなたのお力が必要です」
危機。海が?
「……海が?」
「はい。幽霊網(ゆうれいあみ)と、漂う白い袋。海の生き物たちが傷ついています」
幽霊網。白い袋。
言葉だけで、胸がざわついた。
蒼は小さな鏡みたいなもの——潮でできたスマホみたいなものを取り出し、水面にかざした。
そこに映ったのは、海の中。網がカーテンみたいに垂れ下がり、魚がもがいている。大きな影——亀が、身動きできずにいた。
私は息をのんだ。
「これ……」
「漁具が海に残ったものです。人間の皆さまが悪いと言いたいわけではありません。けれど、海に残った網は、誰も片づけない限り、ずっと狩りを続けます」
「狩り……」
「魚だけではありません。空気を吸いに上がる生き物も、絡まれば——」
蒼の言葉が、そこで途切れる。
彼は映像の中の亀を見る目を、一瞬だけ伏せた。
私は、映像の中の亀の目を見た。助けを待つ目。……海の底で。
「私に、何ができるの?」
やっと出た声は、震えていた。
蒼は少しだけ笑った。潮がひと粒, 肩から落ちる。
「できます。あなたは乙姫様の血を引く方。海の声を聞き、道を開ける」
「それ、スーパーパワーみたいに言うけど……私、ただの中学生だよ?」
「大丈夫です!私や、他の海の仲間たちがついています!!」
自信満々に答えられて、反論がしぼむ。いや、根拠はどこに……?
「それに……私、泳げないわけじゃないけど、得意でもない」
小声で言うと、蒼が一瞬だけ目を丸くした。
「……海の近くで育ったのに?」
「溺れかけたの。海は好きだけど、怖いのも本当」
「なるほど。——それでも、来てくれますか」
責める感じはない。ただ、まっすぐ。
私は、屋上の水たまりを見た。ゆらゆら揺れて、私を呼んでいる。
怖い。でも、目をそらしたら、さっきの亀の目から逃げることになる気がした。
「……わかった。行く」
口に出した瞬間、ペンダントがいっそう明るく光った。
「ありがとうございます、乙波様」
「様はやめて。なんか、対等な感じがしない」
「では……乙波さん」
蒼は少し照れたように言い直し、私の手を取った。
掌の紋様が、彼の手の冷たさと重なって、波の音が強くなる。
「入口は、ここです」
彼が水たまりに指を落とすと、水面がぱっと広がった。コンクリートの上なのに、海が開く。青い穴。潮の匂いが一気に吹き上がって、私は思わず目を閉じた。
「え、ちょ——!」
「息は、私が守ります。目を開けてください。海は、怖いだけではありません」
落ちる感覚はなかった。
気づけば私は、泡のトンネルの中にいた。上下がわからない。けれど、苦しくない。口元に、薄い膜みたいな泡がまとわりついていて、ちゃんと息ができる。
「……うそ」
声が、泡の向こうでふわりと揺れた。
蒼は隣で、何事もない顔で泳いでいる。いや、泳いでるっていうより、歩いてるみたいに進む。海の中なのに、足が動いている。
「慣れないうちは、そう言います。だいたい皆さん最初は『うそ』から入ります」
「誰基準の統計なの……」
泡のトンネルの外側には、青い世界が広がっていた。光の筋。揺れる海藻。小さな魚の群れが、銀色にきらめく。
綺麗。綺麗なのに——さっきの網の映像が頭から離れない。
私は彼の背中にある甲羅に気づいて、質問した。
「蒼……あなたは亀なの?」
「はい。正確には海亀の精霊です。ええと、言い換えるなら亀の擬人化ですね」
「擬人化って自分で言うんだ……」
「……ところで蒼、年はいくつ?」
私が聞くと、蒼は少しだけ目を瞬かせた。
「14歳です。海底学園では2年。あなたの学校で言えば、同級生くらいでしょう」
「同級生……海にも学年があるんだ」
蒼は少しだけ肩をすくめた。
「乙波さん、ひとつ。海亀について誤解されがちな点があります」
「なに?」
「海亀は甲羅に手足を引っ込められると思われがちですが、海亀は頭や手足を甲羅の中に完全には引っ込められません」
「えっ、そうなの?」
私は思わず彼の背中を改めて見た。確かに、陸の亀みたいに丸くなって守る感じじゃない。
「陸の亀ほど器用ではないのです。だから、外敵から身を守る方法も違います。速く泳ぐ、深く潜る、そして——」
蒼はふいに、上を指さした。遠くに、光がある。水面だ。
「息継ぎをするために、必ず水面へ上がります。海の中で永遠に暮らせるわけではありません」
「……海の中に住んでるのに?」
「ええ。肺呼吸です」
妙に現実的な知識が飛び込んできて、私は少しだけ冷静になった。昔話の住人のはずなのに、生物の教科書みたいだ。
「じゃあ、さっきの網に絡まったら……」
「水面へ上がれなくなります。とても危険です」
蒼の声が、少しだけ硬くなる。
私は思わず聞いた。
「ねえ。甲羅って……守ってくれるんじゃないの?」
「守ってくれます。ですが万能の盾ではありません」
蒼は少しだけ笑った。
「それに、よく言われます。甲羅を脱いだらもっと身軽だろう、と」
「言われるんだ」
「はい。……脱げません。私の体の一部なので」
「それ、地味に傷つくやつだ」
蒼がまた小さく笑った。私も、つられて笑う。
笑っていいんだ。こんな状況でも。
そのとき、泡のトンネルの外を、ふわりと白いものが流れていった。
薄くて、ひらひらして、くらげみたいに揺れる。
「……白い袋?」
私が呟くと、蒼の目が鋭くなる。
「そうです。人間の皆さまが使う、薄い袋。海では、くらげに似て見えます」
私は背筋が冷えた。くらげ。ぷかぷか、白く漂う。
——それを、食べちゃう?
「餌と間違えて食べてしまう個体がいます。胃の中で分解できず、弱ってしまうことも」
蒼は、言い終わってから、ふっと笑った。
「だから、乙波さん。もし今後、海で白い袋が揺れていたら……」
「拾う。絶対拾う」
「その即答、素晴らしいです」
褒められて、私は少しだけ恥ずかしくなった。こんな状況で褒められても困るけど。
白い袋は、泡の膜に触れた瞬間、ふっと溶けるように消えた。消えたというより——どこかへ押し出された感じ。
海の中に残っている現物は、きっと消えない。だからこそ、危機なんだ。
「でも……どうして私なの?竜宮城の人たちで何とかできないの?」
「海の精霊は海の中で動けます。しかし、海の言葉を人間に伝えるためには、乙姫の血筋が必要です」
「どうして?」
「海と人間、両方の言葉が理解できるのは乙姫の末裔の者のみ。——あなたにしかできない役割があります」
蒼の言葉は、押しつけじゃない。でも、逃げ道もない。
私はペンダントを握った。貝殻が、静かに温かい。
遠くに、城が見えた。
海底に立つ、白く輝く建物。貝殻や珊瑚で飾られていて、現実の建築とは違うのに、学校の校舎みたいに整っている。
「……あれが竜宮城?」
「はい。正確には竜宮城海底学園です」
「学園!」
思わずツッコミが出た。
「竜宮城って、もっとこう……お酒と踊りと玉手箱のイメージなんだけど」
「それは昔の話です。……風紀が乱れやすい業態でしたので、最近は学園として運営しています」
「運営……竜宮城を運営……」
海って意外とガバナンスがしっかりしてる。
城の門に近づくと、泡のトンネルがほどけ、周囲の水が一瞬、膜みたいに私の体を撫でた。
足が、砂ではなく——硬い床に着いた。
海の中なのに、濡れていない。
空気がある。潮の匂いはするのに、息が楽だ。
「……着いた」
「ようこそ。乙波さん」
門が開く。貝殻のチャイムみたいな音がした。
中は、思っていたより学校だった。
廊下。掲示板。案内表示。スピーカーの代わりに貝殻が並び、掲示板の端には『本日の潮流:強め/クラゲ注意』と書かれている。
なんでクラゲ注意が校内放送にあるの。いや、海底だからあるのか。
すれ違う生徒の中に、髪が水草みたいにふわふわした子がいる。耳のあたりに小さなヒレが見える子もいる。……私の世界じゃない。でも、不思議と怖くはなかった。
ここは海だ。私がずっと眺めていた場所の、底。
「蒼ーっ!遅いよ!迎え、うまくいった?」
声をかけてきたのは、赤と金の混ざった髪の男の子だった。笑うと、口元に小さなえくぼ。胸元に、鯛のうろこ模様のバッジ。
「こちら、鯛(たい)。学園の広報係です」
蒼が紹介すると、鯛は勢いよく手を差し出してきた。
「乙波さんだよね?待ってた!いや〜、ついに来たか〜。今日はまさに『めでたい』ね!」
「めでたい……」
「鯛だけに『めでたい』です」
蒼が真顔で言うから、私は笑っていいのか迷った。
鯛は自分の胸のバッジを指で弾いて言う。
「俺、14!同い年!敬語いらない!……って言いたいけど、乙姫様の末裔って肩書きが強すぎて、逆に敬語になりそう」
「やめて。私まで伝説になりそう」
「よろしく!今日から君も竜宮城海底学園の生徒だ!」
鯛がぐっと近づいてくる。距離感が陽キャだ。海の中でも陽キャは陽キャなんだ。
そのとき、背後から、低い気配がした。
「……新入りか」
振り向いた私は、思わず一歩下がった。
そこに立っていたのは、背の高い男の子。黒に近い深緑の髪が長く、目つきが鋭い。口が、ほんの少し開いている。笑ってないのに牙みたいな歯が見えて、正直怖い。
「う、ウツボ……?」
名前が口から出た瞬間、彼の目が細くなる。
「正解。……怖がるな。噛まない」
「でも、口……」
「……閉じると呼吸が忙しくなる」
ぼそっと言って、彼はまた口を少し開けたままにした。
え。呼吸?
蒼が小さく咳払いをする。
「こちら、ウツボ。学園の警備係です。口を開けているのは威嚇ではなく、呼吸のため——」
「今はそこまで説明しなくていい!」
私が慌てて遮ると、鯛が笑った。
「乙波、真面目だな〜。大丈夫、ウツボ先輩、見た目は怖いけど、海で一番ルール守るタイプ」
「……先輩?」
ウツボが短く答える。
「16だ。文句あるか」
「ないです……」
鯛がぱん、と手を叩いた。
「よし!まずは相談室に案内するね」
「相談室?」
鯛はにやっと笑って、廊下の角を曲がる。蒼とウツボが無言でついてくる。
扉を開けると、机の上には貝殻の印鑑、珊瑚でできたペン立て、海藻のファイル——そして壁一面に貼られた海の地図。
地図には色とりどりの付箋がびっしりで、どれも生々しい。
『第七珊瑚区:網の目撃情報』
『湾内:白い袋(くらげ状)多数』
『海藻林:住処消失の相談』
「……これ、全部相談なの?」
私が呟くと、蒼が静かにうなずいた。
「はい。海の中では、命に関わることが日常です」
鯛が自慢げに胸を張る。
「ここではね、海の困りごとを受け付けて、現場に出て、解決して、報告までやる。いわば——海のカスタマーサポート!」
「海のカスタマーサポート……」
「ただし、対応は命がけ」
ウツボがぼそっと言い、私は反射で背筋を伸ばした。
机の端に、手書きのポスターが貼られているのが目に入った。カラフルな文字でこう書いてある。
『海亀は甲羅に引っ込められません!だからこそ守ろう!』
「……蒼、これ」
私が指さすと、蒼は気まずそうに視線を逸らした。
「啓発活動です。鯛が作りました」
「作った!渾身!」
「本人に許可は取ったの?」
「あとで取る!」
「順番!」
私のツッコミに、蒼が小さく咳払いをした。
「乙波さん。改めてお願いします。海の危機を、私たちだけで抱え込むには限界がきています」
蒼は壁の地図の、とある区画を指さした。珊瑚のマークが、薄い白で塗られている。
「ここは以前、色とりどりの珊瑚が広がっていました。ですが今は——白化が進み、住処が減っています」
「住処が減ると……魚が?」
「はい。食べる場所も、隠れる場所も失われます」
鯛が付箋を一枚はがして、私に見せた。
『小魚群:避難希望』
冗談みたいな文字なのに、胸が重くなる。
「幽霊網も増えています」
蒼の声が落ちる。
「網は、捨てた人がいなくても、流されて、絡みつき、狩り続ける。私たちが回収しても、追いつきません」
私は、海岸清掃で拾う釣り糸を思い出した。細い糸でも指に巻けば痛い。あれが海の中で、強い潮流に揺られたら——。
「それで、私が必要ってこと?」
私が尋ねると、蒼はまっすぐ頷いた。
「海と人、両方の言葉が理解できるのは、乙姫の末裔の者だけ——それが、乙姫様の力だから」
鯛が明るく付け足す。
「つまり、乙波が来たら、現場の選択肢が増える!回収した網を地上に運ぶとか、危険を人間に伝えるとかさ」
「私、そんな大役……」
「大丈夫!」
鯛は自信満々に笑った。
「だって、乙波はもう呼ばれた。海がお願いしてるんだよ。海って、基本プライド高いからね」
「海のプライド……」
「あるよ。めちゃくちゃある」
蒼が私のペンダントを見て、静かに言った。
「怖い気持ちは、当然です。ですが、恐れを知る人ほど、慎重に海を守れます。——乙波さんは、きっとそんな方です」
胸の奥が、ちくっとした。
私はずっと、この町の言い伝えの約束を、どこか他人事にしてきた。
それでも、海は私を呼んだ。
……なら、今度は私が応える番なのかもしれない。
そのとき——廊下の奥で、貝殻のチャイムが甲高く鳴った。
さっきの門の音とは違う。緊急の音。
掲示板の横のランプが赤く点滅し、文字が浮かび上がった。
『至急:第七珊瑚区 幽霊網発生 救助要請』
空気が一瞬で張りつめる。
鯛の笑顔が消えた。
「……またか」
ウツボが舌打ちをする。
「今日は早いな」
蒼は私の手をぎゅっと握った。冷たい手のひらが、今は頼もしい。
「乙波さん。来たばかりで申し訳ありません。ですが——海は待ってくれません」
私は掲示の文字を見た。幽霊網。さっき見た、あの網。
喉が乾いた。でも、逃げたいとは思わなかった。
海の中で、誰かが息を求めているなら。
「……行こう」
私が言うと、蒼の目が少しだけ柔らかくなる。
「はい。海の王子たちが、あなたを守ります」
「王子って……自分で言う?」
「鯛が言わせました」
「だって、士気が上がるじゃん!」
彼らのやり取りに、緊張が少しだけほどけた。
でも次の瞬間、廊下の窓の向こうで、白い影が揺れた。
カーテンみたいに垂れる網。
その向こうに、もがく魚影。
胸の貝殻が、また光る。
——海が、私を呼んでいる。
昼休み。教室の窓から見える海は、いつもと同じ青——のはずだった。
なのに今日は、波の白がやけに鋭くて、空気がしょっぱい。風のせいじゃない。胸の奥で、貝殻をこすり合わせるみたいな音がしていた。
私——手塚乙波(おとは)中学2年生は、海の近くで育った。
だから海は、怖い。……と同じくらい、好きだ。
小さいころ、溺れかけたことがある。なのに懲りずに浜へ行って、打ち上げられた貝を拾って、町の昔話を聞いて。そうして今も、週末は海岸清掃のボランティアに顔を出したりする。
矛盾してる、って言われる。
でも海って、そういうものだ。優しくて、容赦がない。
昔からこの町には、海にまつわる不思議な言い伝えが多い。
波が荒い日は海に近づくな、とか。拾った貝は粗末にするな、とか。
私が胸につけている小さな貝殻のペンダントも、子どものころ浜で拾った貝を紐に通しただけのものだ。けれど、なぜか手放せず、制服の下にいつも忍ばせている。
「乙波、顔色わるくない?」
隣の席の友達が覗き込む。
「だいじょうぶ。ちょっと、息が…」
私は思わず制服の胸元を押さえた。普段はただのアクセサリー。でも今は、冷たいはずの貝が、ぬるく熱を持っている。
——ザァ……。
耳元で波の音がした。教室のどこにも海なんてないのに。
その瞬間、ペンダントが淡く光った。
「……え?」
私は椅子を引いて立ち上がった。周りはいつも通り、笑い声とお弁当の匂い。私だけが、海の中みたいにぼんやりしている。
なのに、私の耳には誰かが私を呼ぶ声がする。
——こっちに来てください……。
気づけば、足が勝手に廊下へ出ていた。
屋上へ続く階段の踊り場で、潮の匂いが濃くなる。
おかしい。ここは校内。
いつもなら、こんなに強く潮の匂いを感じないのに……。
扉を押し開けた瞬間——
屋上のコンクリートに、ぽつんと水たまりができていた。
さっきまで晴れていたのに、雨の気配もない。なのに水面は、海みたいにゆらゆら揺れている。
「乙波様」
背後から、低く澄んだ声。
振り返ると、そこにいたのは——同い年くらいの男の子だった。青みがかった黒髪、制服みたいな上着の襟には亀甲模様の刺繍がある。何より、目が妙にまっすぐで、海の底みたいに深い。
「……誰?」
私の声は、情けないほど小さかった。
彼は一歩近づき、深く頭を下げた。
「私は蒼(あお)。あなたをお迎えに、竜宮城より参りました」
「りゅ、竜宮城……?」
昔話の浦島太郎?その竜宮城?
蒼は、私の胸元の貝殻を見て、うなずいた。
「やはり。貝殻が反応しています。あなたは——乙姫様の末裔です」
心臓が、どくんと跳ねた。
乙姫。
その名前は昔話で知っている。けれど、どこか他人事じゃない響きがした。潮の匂いと一緒に、胸の奥がきゅっと引かれる。
「ちょ、ちょっと待って。乙姫って、昔話の?」
「昔話にされた方、です」
「……されたって、言い方が怖い」
蒼は少しだけ困った顔になる。
「乙姫様は、ある人間の男性に恋をされ、子を身ごもりました。しかし、乙姫様は海に残らなければならず、男性とは離れることに……。その際、産んだ子をその男性に預けました」
「それが私の先祖だっていうの?」
「ええ。そして、二人が離れていても、子の未来のため、海を一緒に守っていこうと約束をされました。最初のうちは代々その約束が守られていたようです。ですが——長い時間の中で、その約束が薄れてしまった」
「約束……」
私はふと、海岸清掃で拾うものを思い出した。ペットボトル、発泡スチロール、釣り糸。拾っても拾っても、次の週にはまた増える。
薄れる約束。忘れられたもの。
私は考え込むように黙ってしまうと、蒼は困ったように眉を下げた。
「いきなりこんな話をされ困惑されるのは当然です。……では」
彼は、私の手首にそっと触れた。
冷たい。海水に触れたみたいに。
次の瞬間、私の掌に、淡い青の紋様が浮かび上がった。波と、貝と、三日月みたいな形。
「え、なにこれ……!」
紋様は、痛くない。でも、胸の奥に「帰る」感覚があった。ここじゃない、どこかへ。
同時に、頭の中に短い旋律が流れた。波打ち際で聞いた気がするのに、思い出せない古い歌。
蒼が真剣な目で言う。
「海が危機に瀕しています。あなたのお力が必要です」
危機。海が?
「……海が?」
「はい。幽霊網(ゆうれいあみ)と、漂う白い袋。海の生き物たちが傷ついています」
幽霊網。白い袋。
言葉だけで、胸がざわついた。
蒼は小さな鏡みたいなもの——潮でできたスマホみたいなものを取り出し、水面にかざした。
そこに映ったのは、海の中。網がカーテンみたいに垂れ下がり、魚がもがいている。大きな影——亀が、身動きできずにいた。
私は息をのんだ。
「これ……」
「漁具が海に残ったものです。人間の皆さまが悪いと言いたいわけではありません。けれど、海に残った網は、誰も片づけない限り、ずっと狩りを続けます」
「狩り……」
「魚だけではありません。空気を吸いに上がる生き物も、絡まれば——」
蒼の言葉が、そこで途切れる。
彼は映像の中の亀を見る目を、一瞬だけ伏せた。
私は、映像の中の亀の目を見た。助けを待つ目。……海の底で。
「私に、何ができるの?」
やっと出た声は、震えていた。
蒼は少しだけ笑った。潮がひと粒, 肩から落ちる。
「できます。あなたは乙姫様の血を引く方。海の声を聞き、道を開ける」
「それ、スーパーパワーみたいに言うけど……私、ただの中学生だよ?」
「大丈夫です!私や、他の海の仲間たちがついています!!」
自信満々に答えられて、反論がしぼむ。いや、根拠はどこに……?
「それに……私、泳げないわけじゃないけど、得意でもない」
小声で言うと、蒼が一瞬だけ目を丸くした。
「……海の近くで育ったのに?」
「溺れかけたの。海は好きだけど、怖いのも本当」
「なるほど。——それでも、来てくれますか」
責める感じはない。ただ、まっすぐ。
私は、屋上の水たまりを見た。ゆらゆら揺れて、私を呼んでいる。
怖い。でも、目をそらしたら、さっきの亀の目から逃げることになる気がした。
「……わかった。行く」
口に出した瞬間、ペンダントがいっそう明るく光った。
「ありがとうございます、乙波様」
「様はやめて。なんか、対等な感じがしない」
「では……乙波さん」
蒼は少し照れたように言い直し、私の手を取った。
掌の紋様が、彼の手の冷たさと重なって、波の音が強くなる。
「入口は、ここです」
彼が水たまりに指を落とすと、水面がぱっと広がった。コンクリートの上なのに、海が開く。青い穴。潮の匂いが一気に吹き上がって、私は思わず目を閉じた。
「え、ちょ——!」
「息は、私が守ります。目を開けてください。海は、怖いだけではありません」
落ちる感覚はなかった。
気づけば私は、泡のトンネルの中にいた。上下がわからない。けれど、苦しくない。口元に、薄い膜みたいな泡がまとわりついていて、ちゃんと息ができる。
「……うそ」
声が、泡の向こうでふわりと揺れた。
蒼は隣で、何事もない顔で泳いでいる。いや、泳いでるっていうより、歩いてるみたいに進む。海の中なのに、足が動いている。
「慣れないうちは、そう言います。だいたい皆さん最初は『うそ』から入ります」
「誰基準の統計なの……」
泡のトンネルの外側には、青い世界が広がっていた。光の筋。揺れる海藻。小さな魚の群れが、銀色にきらめく。
綺麗。綺麗なのに——さっきの網の映像が頭から離れない。
私は彼の背中にある甲羅に気づいて、質問した。
「蒼……あなたは亀なの?」
「はい。正確には海亀の精霊です。ええと、言い換えるなら亀の擬人化ですね」
「擬人化って自分で言うんだ……」
「……ところで蒼、年はいくつ?」
私が聞くと、蒼は少しだけ目を瞬かせた。
「14歳です。海底学園では2年。あなたの学校で言えば、同級生くらいでしょう」
「同級生……海にも学年があるんだ」
蒼は少しだけ肩をすくめた。
「乙波さん、ひとつ。海亀について誤解されがちな点があります」
「なに?」
「海亀は甲羅に手足を引っ込められると思われがちですが、海亀は頭や手足を甲羅の中に完全には引っ込められません」
「えっ、そうなの?」
私は思わず彼の背中を改めて見た。確かに、陸の亀みたいに丸くなって守る感じじゃない。
「陸の亀ほど器用ではないのです。だから、外敵から身を守る方法も違います。速く泳ぐ、深く潜る、そして——」
蒼はふいに、上を指さした。遠くに、光がある。水面だ。
「息継ぎをするために、必ず水面へ上がります。海の中で永遠に暮らせるわけではありません」
「……海の中に住んでるのに?」
「ええ。肺呼吸です」
妙に現実的な知識が飛び込んできて、私は少しだけ冷静になった。昔話の住人のはずなのに、生物の教科書みたいだ。
「じゃあ、さっきの網に絡まったら……」
「水面へ上がれなくなります。とても危険です」
蒼の声が、少しだけ硬くなる。
私は思わず聞いた。
「ねえ。甲羅って……守ってくれるんじゃないの?」
「守ってくれます。ですが万能の盾ではありません」
蒼は少しだけ笑った。
「それに、よく言われます。甲羅を脱いだらもっと身軽だろう、と」
「言われるんだ」
「はい。……脱げません。私の体の一部なので」
「それ、地味に傷つくやつだ」
蒼がまた小さく笑った。私も、つられて笑う。
笑っていいんだ。こんな状況でも。
そのとき、泡のトンネルの外を、ふわりと白いものが流れていった。
薄くて、ひらひらして、くらげみたいに揺れる。
「……白い袋?」
私が呟くと、蒼の目が鋭くなる。
「そうです。人間の皆さまが使う、薄い袋。海では、くらげに似て見えます」
私は背筋が冷えた。くらげ。ぷかぷか、白く漂う。
——それを、食べちゃう?
「餌と間違えて食べてしまう個体がいます。胃の中で分解できず、弱ってしまうことも」
蒼は、言い終わってから、ふっと笑った。
「だから、乙波さん。もし今後、海で白い袋が揺れていたら……」
「拾う。絶対拾う」
「その即答、素晴らしいです」
褒められて、私は少しだけ恥ずかしくなった。こんな状況で褒められても困るけど。
白い袋は、泡の膜に触れた瞬間、ふっと溶けるように消えた。消えたというより——どこかへ押し出された感じ。
海の中に残っている現物は、きっと消えない。だからこそ、危機なんだ。
「でも……どうして私なの?竜宮城の人たちで何とかできないの?」
「海の精霊は海の中で動けます。しかし、海の言葉を人間に伝えるためには、乙姫の血筋が必要です」
「どうして?」
「海と人間、両方の言葉が理解できるのは乙姫の末裔の者のみ。——あなたにしかできない役割があります」
蒼の言葉は、押しつけじゃない。でも、逃げ道もない。
私はペンダントを握った。貝殻が、静かに温かい。
遠くに、城が見えた。
海底に立つ、白く輝く建物。貝殻や珊瑚で飾られていて、現実の建築とは違うのに、学校の校舎みたいに整っている。
「……あれが竜宮城?」
「はい。正確には竜宮城海底学園です」
「学園!」
思わずツッコミが出た。
「竜宮城って、もっとこう……お酒と踊りと玉手箱のイメージなんだけど」
「それは昔の話です。……風紀が乱れやすい業態でしたので、最近は学園として運営しています」
「運営……竜宮城を運営……」
海って意外とガバナンスがしっかりしてる。
城の門に近づくと、泡のトンネルがほどけ、周囲の水が一瞬、膜みたいに私の体を撫でた。
足が、砂ではなく——硬い床に着いた。
海の中なのに、濡れていない。
空気がある。潮の匂いはするのに、息が楽だ。
「……着いた」
「ようこそ。乙波さん」
門が開く。貝殻のチャイムみたいな音がした。
中は、思っていたより学校だった。
廊下。掲示板。案内表示。スピーカーの代わりに貝殻が並び、掲示板の端には『本日の潮流:強め/クラゲ注意』と書かれている。
なんでクラゲ注意が校内放送にあるの。いや、海底だからあるのか。
すれ違う生徒の中に、髪が水草みたいにふわふわした子がいる。耳のあたりに小さなヒレが見える子もいる。……私の世界じゃない。でも、不思議と怖くはなかった。
ここは海だ。私がずっと眺めていた場所の、底。
「蒼ーっ!遅いよ!迎え、うまくいった?」
声をかけてきたのは、赤と金の混ざった髪の男の子だった。笑うと、口元に小さなえくぼ。胸元に、鯛のうろこ模様のバッジ。
「こちら、鯛(たい)。学園の広報係です」
蒼が紹介すると、鯛は勢いよく手を差し出してきた。
「乙波さんだよね?待ってた!いや〜、ついに来たか〜。今日はまさに『めでたい』ね!」
「めでたい……」
「鯛だけに『めでたい』です」
蒼が真顔で言うから、私は笑っていいのか迷った。
鯛は自分の胸のバッジを指で弾いて言う。
「俺、14!同い年!敬語いらない!……って言いたいけど、乙姫様の末裔って肩書きが強すぎて、逆に敬語になりそう」
「やめて。私まで伝説になりそう」
「よろしく!今日から君も竜宮城海底学園の生徒だ!」
鯛がぐっと近づいてくる。距離感が陽キャだ。海の中でも陽キャは陽キャなんだ。
そのとき、背後から、低い気配がした。
「……新入りか」
振り向いた私は、思わず一歩下がった。
そこに立っていたのは、背の高い男の子。黒に近い深緑の髪が長く、目つきが鋭い。口が、ほんの少し開いている。笑ってないのに牙みたいな歯が見えて、正直怖い。
「う、ウツボ……?」
名前が口から出た瞬間、彼の目が細くなる。
「正解。……怖がるな。噛まない」
「でも、口……」
「……閉じると呼吸が忙しくなる」
ぼそっと言って、彼はまた口を少し開けたままにした。
え。呼吸?
蒼が小さく咳払いをする。
「こちら、ウツボ。学園の警備係です。口を開けているのは威嚇ではなく、呼吸のため——」
「今はそこまで説明しなくていい!」
私が慌てて遮ると、鯛が笑った。
「乙波、真面目だな〜。大丈夫、ウツボ先輩、見た目は怖いけど、海で一番ルール守るタイプ」
「……先輩?」
ウツボが短く答える。
「16だ。文句あるか」
「ないです……」
鯛がぱん、と手を叩いた。
「よし!まずは相談室に案内するね」
「相談室?」
鯛はにやっと笑って、廊下の角を曲がる。蒼とウツボが無言でついてくる。
扉を開けると、机の上には貝殻の印鑑、珊瑚でできたペン立て、海藻のファイル——そして壁一面に貼られた海の地図。
地図には色とりどりの付箋がびっしりで、どれも生々しい。
『第七珊瑚区:網の目撃情報』
『湾内:白い袋(くらげ状)多数』
『海藻林:住処消失の相談』
「……これ、全部相談なの?」
私が呟くと、蒼が静かにうなずいた。
「はい。海の中では、命に関わることが日常です」
鯛が自慢げに胸を張る。
「ここではね、海の困りごとを受け付けて、現場に出て、解決して、報告までやる。いわば——海のカスタマーサポート!」
「海のカスタマーサポート……」
「ただし、対応は命がけ」
ウツボがぼそっと言い、私は反射で背筋を伸ばした。
机の端に、手書きのポスターが貼られているのが目に入った。カラフルな文字でこう書いてある。
『海亀は甲羅に引っ込められません!だからこそ守ろう!』
「……蒼、これ」
私が指さすと、蒼は気まずそうに視線を逸らした。
「啓発活動です。鯛が作りました」
「作った!渾身!」
「本人に許可は取ったの?」
「あとで取る!」
「順番!」
私のツッコミに、蒼が小さく咳払いをした。
「乙波さん。改めてお願いします。海の危機を、私たちだけで抱え込むには限界がきています」
蒼は壁の地図の、とある区画を指さした。珊瑚のマークが、薄い白で塗られている。
「ここは以前、色とりどりの珊瑚が広がっていました。ですが今は——白化が進み、住処が減っています」
「住処が減ると……魚が?」
「はい。食べる場所も、隠れる場所も失われます」
鯛が付箋を一枚はがして、私に見せた。
『小魚群:避難希望』
冗談みたいな文字なのに、胸が重くなる。
「幽霊網も増えています」
蒼の声が落ちる。
「網は、捨てた人がいなくても、流されて、絡みつき、狩り続ける。私たちが回収しても、追いつきません」
私は、海岸清掃で拾う釣り糸を思い出した。細い糸でも指に巻けば痛い。あれが海の中で、強い潮流に揺られたら——。
「それで、私が必要ってこと?」
私が尋ねると、蒼はまっすぐ頷いた。
「海と人、両方の言葉が理解できるのは、乙姫の末裔の者だけ——それが、乙姫様の力だから」
鯛が明るく付け足す。
「つまり、乙波が来たら、現場の選択肢が増える!回収した網を地上に運ぶとか、危険を人間に伝えるとかさ」
「私、そんな大役……」
「大丈夫!」
鯛は自信満々に笑った。
「だって、乙波はもう呼ばれた。海がお願いしてるんだよ。海って、基本プライド高いからね」
「海のプライド……」
「あるよ。めちゃくちゃある」
蒼が私のペンダントを見て、静かに言った。
「怖い気持ちは、当然です。ですが、恐れを知る人ほど、慎重に海を守れます。——乙波さんは、きっとそんな方です」
胸の奥が、ちくっとした。
私はずっと、この町の言い伝えの約束を、どこか他人事にしてきた。
それでも、海は私を呼んだ。
……なら、今度は私が応える番なのかもしれない。
そのとき——廊下の奥で、貝殻のチャイムが甲高く鳴った。
さっきの門の音とは違う。緊急の音。
掲示板の横のランプが赤く点滅し、文字が浮かび上がった。
『至急:第七珊瑚区 幽霊網発生 救助要請』
空気が一瞬で張りつめる。
鯛の笑顔が消えた。
「……またか」
ウツボが舌打ちをする。
「今日は早いな」
蒼は私の手をぎゅっと握った。冷たい手のひらが、今は頼もしい。
「乙波さん。来たばかりで申し訳ありません。ですが——海は待ってくれません」
私は掲示の文字を見た。幽霊網。さっき見た、あの網。
喉が乾いた。でも、逃げたいとは思わなかった。
海の中で、誰かが息を求めているなら。
「……行こう」
私が言うと、蒼の目が少しだけ柔らかくなる。
「はい。海の王子たちが、あなたを守ります」
「王子って……自分で言う?」
「鯛が言わせました」
「だって、士気が上がるじゃん!」
彼らのやり取りに、緊張が少しだけほどけた。
でも次の瞬間、廊下の窓の向こうで、白い影が揺れた。
カーテンみたいに垂れる網。
その向こうに、もがく魚影。
胸の貝殻が、また光る。
——海が、私を呼んでいる。



