机に広げようとした深緑色のスケッチブックから、はらりと紙切れが落ちる。
「あっ」
白魚のような白く細長い指先でそれを掴む。先に拾い上げたのは彼女だった。
「これ何?」
「紙吹雪だよ。生徒会で準備した卒業式で使ったやつ」
「ふーん」
「手作業でやってて、いつ間にか紛れこんでたっぽい」
「へー、私これ欲しい」
「いいよ、どうせゴミ箱ゆきだったろうし」
「ありがとう!ふふふん♪ふふふん♪」
並べた机の隣で、彼女は突然何か思いついたらしく、上機嫌に鼻歌を歌いながらペンを紙切れに走らせる。
「何書いてんの?」
「ちょっとやだぁ!見ないでよヘンタイ!」
わざとらしく腕で囲い、見せないようにしてくる。
猫目っぽい少しつり上がった目で睨みつけるも、そこはかとなく漂う可愛さは隠しきれず。
「はあ?それさっきまで俺のだったんだが?」
「今はワタシの!」
「あっそ」
「ふふふん♪ふふふん♪」
怒ったかと思いきや再び鼻歌を歌う。忙しいったらない。でもこのマイペースっぷりにもすっかり慣れてきた。
放課後、僕の趣味に付き合ってくれてるだけ大目に見るか。
開いたページには、桜の木がラフスケッチされていた。元になったのは校門前の大きな桜だ。
もうすぐ満開を迎える。その前に仕上げたい。
僕の名前は篠谷春生
スケッチブックを常備持参してるが美術部に入っている訳でもなく、本当は卓球部員である。
去年の高校1年の春、2年の卓球部の先輩数人に入部を押し切られてしまったのがきっかけだ。部員が減り卓球部の存続が危ぶまれているんだと、必死の形相で入部を懇願された。
新入部員募集のビラ配りに遭遇した時、たまたま肩がぶつかり、落としたビラを拾ったところ、配っていたのがその卓球部の先輩だったという訳。
これも一つの運命の出会いというのか。
頼まれると断れない性格には、ほとほと自分でもうんざりしている。
悪い人達ではなさそうだったのと、入学して間もなく友達を作るタイミングを逃していて、退屈に感じていたのも丁度良かったのかもしれない。
そんな調子で生徒会の書記に選ばれたのも同じ理由だった。
本命であるはずの美術部の方にも見学は行ってみた。しかしどういった訳か所謂、不良の溜まり場と化していたのだ。
愕然というか、がっかりしたのは今でも鮮明に覚えている。
大音量で鳴らす音楽。甘ったるいお菓子の匂い。人目もはばからず、イチャつくカップル。パッと見、部屋の中にいた人数は5、6人といったところだろうか。明らかに美術部らしい活動は見受けられない。
漫画の一コマみたくタイミングよく、肩に掛けていたカバンがずり落ちたのは、恐らくあの時が最初で最後だろう。
二度と足を踏み入れない決心で、振り向かずにその場を去った。
中学でも美術部だったので、出来れば続けていたかった。
渋々半ば強制的に卓球部に入り、全くの初心者だったが、それなりに部員の邪魔にならないくらいにはそこそこ上達した。
好きになるかは別だったけれど。
そんな訳でこうして週1度、卓球部の活動が無い、誰も居ない教室で絵を描くのが密かな楽しみとなった。
先程から鼻歌を歌いながらコソコソ書いている彼女の名前は、安川律羽
僕の恋人の、“彼女”だ。
同じクラス。うちの学校は3年間クラス替えがないので、もれなく卒業まで一緒に過ごせるという利点がある。
放課後の時間、文句も言わず、いつも隣に居てくれるのだ。
邪魔とかは、ない。
ちょっと騒がしいが、むしろ静かな方が落ち着かないくらいだ。例え元気が無くても笑ってるような子で、心配をかけるのを極端に嫌う。それを悟れるのはきっと僕くらいだろう。
なんて高を括る。
今日の彼女の機嫌はまあまあといったとこか。
「でーきた」
顔を上げ、キラリと目を輝かせる。
「へー、見せて」
「だめ」
両手で紙切れを覆う。
「え?」
ちょっと、悪戯してやろう。
「あ!あんなとこに猫がっ」
校庭に向かって指を差す。
「どこ??」
すすっと紙切れに手を伸ばし、律羽が目を離した隙を狙う。
「なーんて、その手に乗るか!あほぅ、みっくん」
紙切れは呆気なく律羽の手の中へ。
「ちぇー」
「そんなことより、早く絵進めないと。桜散っちゃうぞ」
「分かってるよ」
「みっくんてさ、人の絵は描かないの?」
「そう言えば、そうだね」
改めて言われて気づく。いつも描くのは風景画ばかり。
「何で?」
ひょこっと顔を覗き込む。
彼女のくりんとした黒目がちな目と艶やかな唇が目の前に。
髪が揺れ、甘い花の香りがした。
早鐘がこれ見よがしに鳴る。
すーっと静かに深呼吸して落ち着かせる。
「…別に、これといった意味はないけど」
「じゃあさ、この桜の絵の後、描いてよ私とか」
「はぁ、簡単に言ってくれるねー」
「ふふふ。私はみっくんの描いた絵なら、きっと全部好きだよ」
シャシャッと描いていたペンが止まる。
「よくもまあ、そんな恥ずかしいセリフを堂々と」
「ん?普通じゃないの?」
「いや…うーん。どうかな」
「嬉しいくせにぃ。このこの」
肘で肩を突っつかれ、ペンが揺れる。
「おい、やめろって」
ひょっとして、あの美術室で見かけたイチャつくカップルと、今の僕らは何ら変わりないんじゃないか。
僕と律羽が付き合ってることは周りも知っていたが、学校内では距離を保っていた。行動を共にするのは友達優先。
ルールというか、2人で何となく決めた。
放課後のこの時間を除いては。
「じゃあ、私先帰るから、この教室の窓から私が校門に居るのが見えたら、これ見てもいいよ」
ポケットから先程の紙切れを取り出し、僕の机に何も書かれていない側を向けて置いた。
「何かのゲーム?」
「ヒミツー」
「またそうやって」
「じゃあね~」
ペンケースを通学バッグに放り込み、颯爽と教室を出ていく律羽。
「まだ見ちゃダメだからね!」
一旦帰ると見せかけて、戻ってくると念を押すようにそう叫んだ。
そして、にこっといたずらっ子の笑みを浮かべ、長い髪をひらりと翻し、ドアの向こうに消えっていった。
さながら、自由気ままな猫のしっぽのように。
「ヒミツってなんだよ…」
四角い小さな紙吹雪1枚が机の上にポツンと残っている。
しんと静まり返る教室。彼女の髪の匂いがまだ微かに感じる。
何か、胸騒ぎがした。
突然閃いては巻き込まれるというパターン。初めてではない。過去にもこんなようなことはあった。
一番驚いたのは、校内を使って隠れんぼをしようと言い出した時だ。
その時は友達を交えてのちょっとしたイベントとなった。下校時間ギリギリまで粘って、鬼だった僕が最後の最後にようやく律羽を見つけた。彼女が隠れそうな場所を手当り次第いくつか探し、“卓球しているとこを見てみたい”と、いつだっか何かの会話の時に話していたことを思い出した。
そして、卓球部の活動に使っている、体育館の2階に彼女はいた。
隅で小さく膝を抱えて。
僕を見つけるなり泣きそうな顔をしながら飛びついてきたのは、不謹慎かもしれないがさすがにニヤついてしまうくらい可愛すぎた。
普段卓球部で僕がいる場所に行ってみたかったんだそうだ。
何とも単純でいじらしい。
彼女を悟れる僕だから、きっと隠れ場所が分かったんだ。と、誇らしくもあったが、泣きべそをかく姿を見て、内心もっと早く見つけてあげれば良かったと、チクリと痛んだりもした。
そんな感じで内輪だけで壮大な企画を提案してしまうのだから、今日のような“ゲーム”なんて朝飯前だろう。
教室の時計を見上げた。
4時50分。
律羽が出て数分経っただろうか。
ちらりと窓の外を覗く。
校門に彼女が居た。目が合うと、手をぶんぶんと大袈裟に振る。こちらも振り返す。
遠くてよく見えなかったが、口元が動いて何か話していたようだった。それが何かは分からない。けれど、少し微笑んだように見えた。
もう一度彼女は今度は小さく手を振ると、背を向け走って行ってしまった。
「ふぅ。やれやれ」
こうしてようやく、彼女の謎ルールに従える時が来た。
ドキドキしながら紙切れにそっと手を伸ばす。
この時はまだ何も分かっていなかった。
彼女の本当の気持ちを。
本当の姿を。
そして、これからのことを。
裏返ししてみるとそこには、
『バイバイ。大好きだよ。みっくん』と小さなハート1つが書かれていた。
「…え、何、バイバイって」
『バイバイ』それは聞き慣れた言葉だったかもしれない。けれど、この2つの言葉が一緒に並んで持つ意味なら…。変わってくる…。
頭が真っ白になった。
段々血の気が引いていくのが分かる。
口が乾き、喉の奥がヒリヒリした。
バクバク激しく音を立てる鼓動。
そのうち突っ立っていた足が力を無くしていく。
少しだけ空いていた窓から冷たい風がすっと吹き、手の平から紙を一瞬で奪っていった。
「あっ!待って」
慌てて取りに行く。その姿はまるでさっきまでいた彼女を追いかけるよう。
校門でくるっと背を向けて駆け出したあの姿と重なる。
拾おうとする度に、また風に邪魔され飛ばされる。
「ああ、待てって」
ガタガタンッ
盛大に机につまづく。
「くそっ」
フラフラしながらようやく掴む。
クシャッと掴んだせいで、少しシワが付いた紙吹雪。
律羽が今、何だか泣いているような気がした。
手の平の中で小刻みに風に揺れる。
いつまた風に持ってかれるか分からない。今度は優しく握る。
その場に居られないことが、こんなに悔やまれるなら、あんなルールなんてさっさと破ればよかった。
鼻歌なんか歌って、書かれている言葉とは真逆じゃないか。
抱きしめるとか、そんなこと、今更…。
もう何もかも遅いくせに。
涙で視界が歪む中、風にまた奪われないように、両手でキュッと紙吹雪を包み込んだのだった。



