月のうさぎと地上の雨男

(わたる)、車に戻るぞ」


 低い低い声でそう言ったのは渡の父、(ゆずる)だった。

 譲がラウンジの入り口でそわそわしていたのを渡も知っていたので、おとなしくあとをついていった。


「詳しく」


 車の後部座席に並んで座り、シートベルトを締めた途端に、譲が低い声で言った。

 小さくため息をついてから、渡は披露宴前に再会したこととラウンジでの出来事を説明する。

 譲は相槌も打たず、頷きもせずに最後まで話を聞いた。

 いつの間にか車は走り出していて、渡の家まではもう三十分もかからないだろう。


「はーーーー、また……また……えらいことになって……」

「……これ、連絡していいんだよね?」

「したいか?」


 譲が十歳くらい老けたように疲れた顔で渡を見る。

 気苦労をかけて申し訳ないと渡は思ったが、それでも先ほどあれだけ泣いていた凪を思えば、連絡しないわけにはいかなかった。


「……月詠(つくよみ)のお嬢様かもしれないけどさ。だからって、あんなに泣いてる女の子を俺は放っておけないよ」

「そんなに泣いてたのか……」

「うん。あと『月の民は強欲なんです。覚えていてください!』って啖呵を切られたし」

「怖い……えっと、あの方、今おいくつでらしたっけ?」

「十六だったかな」

「月詠の姫ともなると、十六でそんな啖呵がきれるんだな。女って怖い……」


 渡はつい笑ってしまう。

 それでは怖いのが月詠家なのか女性なのか、渡にはよくわからなかった。


「それに、このIDは『母君も承知の上』ってボディガードが言ってたからね。月詠の女主人に連絡しなかったことを詰められて、親父が矢面に立ってくれるなら考えるけどさ」

「やだよ、怖い。無理だ」

「諦めが早えよ」


 そう言うと、譲はギロッと渡を睨んだ。


「お前は月詠の奥方を知らないからそんなことを言えるんだ。直接お目にかかると、圧が強すぎて顔が上げられねえぞ」
「そんなに?」

「疑うなら姉貴に聞いてみろ」

美佳(みか)伯母さんも十分怖いから嫌だよ……」

「姉貴が頭が上がらないお方だからな」


 怖い。渡の頭はそれでいっぱいになった。

 そんな人の娘にこれから連絡を取らなくてはならず、それが先ほど渡にしがみついて泣いていた凪だと思うと、もう渡には訳が分からなかった。


「連絡するのは、帰って、風呂入ってからでいいかな」

「俺に聞くな。……まあ、御祓(みそぎ)は済ませてからにすべきだな」

「御祓……」