月のうさぎと地上の雨男

 そして結婚式当日。

 渡は蛙前(かわずまえ)にスーツを整えられていた。


「お坊ちゃま、ネクタイはこちらをお召しください」

「うん。……変じゃないかな」

「よくお似合いでございます」

「蛙前はなんでもそう言うからなあ」

「本心でございますよ。お坊ちゃまがお召しのスーツはすべてこのわたくしが選ばせていただいておりますので」

「なら、間違いないか」


 蛙前は代々雨水家に仕える、いわゆるお手伝いさんだ。

 彼女自身も分家の出であり、蛙前家の本家の者が雨水本家に仕えている。

 渡が物心ついたときには家にいて、彼女の料理で育った自覚が彼にはある。

 母も時折作ってくれたが、家の味と言われれば、やはり渡にとっては(おそらく兄と妹にとっても)蛙前の料理が最初に浮かぶ。

 昔から渡たち兄妹の衣食住を整えてきた彼女だから、彼女が似合うと言えばそうなのだろう。


「奥様から言伝でございます」


 渡がネクタイを締め、襟元を直していたら蛙前が声を潜めた。


「何?」

「『欲しければ、何が何でも手に入れなさい。男でしょ』とのことです」

「母さん……」


 渡が譲と凪の話をするとき、母の歌帆(かほ)はいつも席を外していたはずだ。

 しかしちゃっかりどこかで聞いていたらしい。

 そこでそそのかしてくるあたりが母親らしいと、渡は思わず顔を緩めた。

 厳格で家の決まりに従う父と、無口ながら猪突猛進な母は性格が正反対に見えて、あれで仲がいい。

 わからないなと渡は笑いながら、髪を蛙前に整えてもらう。


「渡、支度はできたな?」

「うん」


 歌帆によって身支度を調えられた譲が顔を出した。何年経っても、手伝いの者がいても、譲の身支度だけは歌帆が調えてきた。

 二人は歌帆と蛙前に見送られて家を出る。

 式場までは譲の秘書である滝草(たきくさ)の運転する車で向かう。

 道は空いていて、予定よりだいぶ早く到着した。