ぼろきれマイアと滅妖の聖騎士


 あなたの性癖、満たしませんか。

 ぜんぶまるごと叶えてみせましょう。
 わたしたち南風演劇旅団が。

 そんな売り文句が飾られた立て看板をマイアが見逃すはずがない。両手に抱えていた端切れ食材がぼとぼとと落下する。芋の皮、にんじんの葉、パンの耳。いずれも村の商店を回ってもらい受けたものだ。

 立て看板には、こうも書いてある。
 この地域での最後の公演となります。お世話になった皆さまへの恩返し。当劇団の人気俳優がまる一日、あなたのお望みの人物を演じます! 理想の恋人や伴侶、憧れの英雄と時を過ごしてみませんか!
 くじは一枚、たったの銅貨七枚! 当たりくじは一枚だけ。明日の朝、村の広場で抽選を行います。参加希望の方は……。

 マイアは落ちた芋の皮を拾うことも忘れて懐を探った。小さな革袋が出てくる。開けると、銅貨七枚が現れた。マイアの今月の生活費のすべてである。先日の占いの料金、銅貨十枚が入って来るのは来月のはじめ。これを使えば今月あと半分、赤貧だ。

 マイアはぼろぼろの黒いフードのなかで目を伏せ、小さく微笑し、首を振った。わたしは愚か者じゃない。余った食材をもらい受けるこんな生活を、今度こそ抜け出ると誓ったもの。貯金をし、小さくともしっかりした部屋を借り、今度こそ村のなかで暮らすんだ。
 フードを撥ね退け、秋の陽光のもとに顔を出す。青紫の腰までの髪は編みこまれ、母の形見の髪飾りが輝いている。色白の顔を決然と上げ、紫の瞳を天に向ける。
 母さま。見ていて、わたしを。いつか、きっと。


 ◇◇◇


 「はあい、それでは発表しまあす」

 翌朝、マイアの姿は村の広場にあった。
 胸の前で合わせた手にはくじが握りこまれている。

 ぎゅうぎゅう詰めの村人たちに圧されながら、彼女は目を瞑り、呟いている。十八番、十八番、十八番、これハズれたら今月はもう駄目です、お願いしますお願いしますお願いします。
 当選しようがしまいが今月が駄目であることは確定しているのだが、そんなことは些事だ。口のなかでぶつぶつと声を出す彼女を避けようと左右の村人が身を捩って間隔を空ける。
 だだだだだん、という太鼓の音。壇上に上がった男が大げさな動作で小さな書付を掲げてみせた。

 「当選番号は……」

 詰めかけた村人ぜんいんがごくりと唾を呑む。しん、と静まり返る中、壇上の男はすうと息を吸った。

 「十八番!」

 おおお、というどよめき。皆が当選者を目で探す。誰だ誰だと動き回る群衆のひとりが、意識を失ってぼろきれのようになっているマイアをぐにゃりと踏みつけた。


 ◇◇◇


 「……奴らはなんと言ってきている」

 白い甲冑。
 金と黒の重厚な装飾が施されているその装備は、この国において最も精強な騎士にのみ与えられるものであり、また聖騎士団としての誇りの象徴ともなっている。
 王宮の騎士棟、要塞としても機能するその建物の一室に集まっている五名の男の全員がそれを身に着け、ただ、誇りとは縁遠い表情をつくっているのだ。
 俯く者、奥歯を噛むように悔恨の色を浮かべる者。

 「……王を救いたければ、生贄を出せ、と」
 「ふざけるな!」

 男の一人が壁を叩く。堅固な石積みの壁はその衝撃で揺れ、一部が剥離してぱらぱらと落ちた。

 「生贄だと! 妖魔どもめ、まだ人々の魂を喰い足りぬというのか! いったい何人を要求している、千か、二千か!」
 「……ひとり、だ」

 答えた細身の男に全員が振り向く。

 「……ひとり、だと……?」
 「ああ。その代わり、我ら聖騎士団のひとりを差し出せ、と言ってきた。刻限は明後日の朝、東部の教会不在地域にひとりで来い、と」
 
 妖魔。王宮の聖職者たちは彼らをそう呼んだ。
 古典では悪魔とも邪霊とも表現されるその存在は、時には病として、時には実体化して人々を襲った。襲われた者は魂を喰われる。喰われれば、現世と彼岸の境界に彷徨うこととなる。

 これに対抗したのが王宮の神殿、そして聖騎士団である。聖職者たちは祈りと法術で闇に潜むものを祓い、聖騎士たちは市民の眠る深夜に人知れず妖魔を斬った。その身命を厭わぬ努力と犠牲によって妖魔を退ける方法が確立され、世界はようやく平穏を享受した。

 が、五年前にその平穏が終了する。時の司教が身罷ったのだ。勢いを取り戻した妖魔はあらゆる場所に侵入し、人々の魂を喰らい、ついに王宮内部に侵入することに成功した。王を瀕死の状態に陥れ、あわせて聖職者と聖騎士団の九割を喰った。

 いま動ける聖騎士は、わずかに五名。
 その全員がここに参集し、ついに王の喉元まで手を伸ばした妖魔たちからの最後通告の扱いについて決そうとしている。

 「……俺が行く」

 もっとも身体の大きい男がそう言い、戸口に向かって歩き出した。が、壁際にいた男が手を上げて止める。

 「いや、貴様は退魔術に優れている。神殿の影響力が弱まったいま、妖魔を封じるためには貴様の力が必要だ。俺が行く」

 すると別の男も声を上げる。

 「なら、俺だ。奴らの狙いは殺すことじゃない。いたぶり続けてその苦悶の表情を楽しもうって腹だ。俺は痛みに強い。だから行く。後は頼んだぞ」
 「馬鹿を言え、貴様には妻も娘もいる」
 「お前にだって老いた両親がいるだろう。騎士の妻なんてなあ、いつだって覚悟してるもんだ」
 「まて、それならば……」

 がん、と足を踏み鳴らし、男たちの声を止めた者がいる。
 窓際で壁に背を預け、遠い山嶺に隠れかけた太陽と紅い街を見下ろしていたその男は、顔をゆっくりと室内に振り向けた。照らされる残照に輝く白金の髪は荒々しく散らされ、塑像のように鋭角に刻み込まれた頬骨にかかっている。

 「俺が行く。文句はないな」

 聖騎士たちを睨みつけ、だが彼は、わずかに口角を上げてみせた。
 
 「貴様らは良い騎士だ。技を伝え、王を支え、人々の希望になれる。だが俺は、闘うことしかできねえ。ふ、妖魔の仲間みてえなもんだ。だから行く」
 「……レヴィン団長」
 「団長がいなきゃ、聖騎士団じゃない。俺らが行きます」
 「ばあか。こういう時はな、上司を立てるもんだ」

 男、第三十五代聖騎士団団長、レヴィン・スリアディネスは、そう言って大きな笑顔を浮かべてみせた。
 その笑顔は、彼が心から信じた、自分の背中を預け続けた仲間たちへの置き土産のつもりだったのだ。


 ◇◇◇


 マイアの朝はいつも早い。
 占いくらいしか現金収入がなく、半ば自給自足の彼女は、早朝から森できのこなり果実を集めるのが日課なのである。

 ただ、それにしても今朝は早かった。
 まだ夜も明けぬうち、山並みの縁がようやくわずかに赤みを帯びてきたという頃に小屋を出た。
 昨日、ほとんど眠っていない。
 眠れなかったのだ。

 マイアはいま、歩きながらすでに妄想を展開している。
 あの若手の人かな。あの渋い俳優さんかな。あのかっこいい長髪の人かな。だれがわたしのところ、来てくれるんだろう。

 昨日、当たりくじを抱きしめた彼女に、劇団長は当選を祝いつつ言ったのだ。
 明日の朝、あの山に太陽が昇り切った頃、東の丘に俳優を立たせます。誰がゆくかはお楽しみ。あなたもその頃、いらしてください。そこから夕方、陽が沈むまでが、あなたがた二人だけの世界ですよ……。

 その朝が、いま、これからなのだ。
 まだ山際に太陽は上りきっていない。が、間もなくだろう。

 マイアはふだん、ほとんど村の者と話さない。嫌われている、というより、距離がある。マイアがまだ上手に話しかけられないのもあるし、村の者もどう接してよいか戸惑っている様子でもある。
 だから、マイアにとって誰かと親しく話せるということは、もうそれだけで事件であり、奇跡であり、祭事なのだ。まして相手は見目麗しい俳優。興奮するなというほうが無理がある。

 化粧道具などはないから、昨夜はとりあえずなんどもなんども冷水で顔を洗った。身体を拭った。しまいには頭から水をかぶった。もはや水ごりである。今朝も同様の行動をとり、ふたつだけの装束のうち上等の方を選び、小屋を出て今に至る。
 時間はずいぶん早いのだが、森の中で歩き回って時刻を待とうと思っていた。その方が気がまぎれると考えたのだ。

 もう、森を五周もしたろうか。
 途中、森の南端あたりでうるさい虫の集団に出会って、彼女はぎゃあと叫びながら追い払った。気持ち悪いのもあるが、今日の重大事を邪魔すること許さじという決意に彼女の瞳は燃えていたのである。
 
 木立の隙間から山を見上げる。
 もう太陽が少し顔を出している。
 ……時間だ。

 彼女はごくりと唾を呑みこみ、東の丘に向けて足を速めた。


 ◇◇◇


 王宮から目的地、東部の無教会地域までは馬で半日ほどかかる。
 翌朝が指定されているから夕刻の出立でも間に合うのだが、レヴィンは朝を選んだ。長いあいだ仕え、護ってきた王宮。その姿を美しい朝日の中に見ながら、二度と戻ることのない故郷を後にしたかったのだ。
 鬼の聖騎士団長、滅妖の聖騎士と異名をとったレヴィンの、それは人生で最後になるであろう感傷だったのである。

 左右にわずかとなった聖騎士たちが剣を掲げて居並ぶ。肩に記章、黒の肩覆い。王前でのみ使うこととされている聖騎士の正装だ。涙ぐみながら団長を送り出す彼らのせめてもの手向けである。
 レヴィンは泣きはしない。笑っている。
 いい、仲間たちだった。いい人生だった。

 王宮が遠く木立に隠れ、やがて故郷の山々も丘陵の陰に見えなくなる。
 夜営地も慎重に選び、持参した食料を口にする。腹持ちのよい、といって戦闘に邪魔にならないものを時間をかけて摂る。明日の命がどうなっていようが、現在を大事にする。聖騎士の誓いを彼は今も誠実に実行しているのである。

 翌早朝、まだ月が眩しいうちに起きだし、身支度をして馬に乗った。そう時間が経たないうちに東部地域に入り、やがて目的地が見えてきたころに、山並みが赤く染まりはじめた。

 馬上で深く息を吸い、また吐く。
 それで彼の覚悟は決まった。
 馬の脚をわずかに速める。


 ◇◇◇

 
 明日の夕方には出立するということで、劇団は道具類を片付けるのに慌ただしい。その天幕のひとつに、座組み、つまり舞台の出演者や構成を決める担当者が居眠りを決め込んでいる。

 「なあ、例のくじ引きのあれ、決めなくていいのか。誰が演《や》るのか。俺、行ってもいいけど」

 役者のひとりが声を出すと、彼は目を瞑ったまま答えた。
 
 「あれね、劇団長が決めるって。まああの人の思い付きの企画だからなあ。だけど、くじで金を集めるようになったらここも長くないよね」

 ちょうど同じころに、劇団長の部屋。

 「ねえ、あのくじ引きのやつ、決めなくていいの?」

 鏡を覗きながら女が背後の男に向けて声を出した。劇団の歌姫と、劇団長だ。

 「ん、ああ、座組みはいつもどおり担当にさせてるよ。誰か適当な若手、行かせるんじゃないかな」


 ◇◇◇


 わずかにかかっていた雲が切れた。
 透明な日差しが草原を照らし、山あいを貫く。
 ゆっくりと丘を登ってゆくマイアも、秋の早朝の橙色がかった光に包まれている。

 今日は外套を羽織っていない。あまりにぼろぼろで恥ずかしかったのだ。
 飾りもないざっくりとした薄灰色の一枚着。が、丘を通り抜けていく風に揺らされる彼女の青紫の髪も、栄養不足でほっそりとしている手足も、この穏やかで柔らかな空気のなかでは不思議にきらめいて見えたのである。

 「……ん、ふうう」

 頂きに到着し、手を組み合わせて天に掲げ、伸びをする。村から少し離れており、家も畑もないから村人は誰も来ない。マイアも初めてだったが、良いところだなあと、自然と笑みがこぼれた。

 それにしても、そろそろ太陽が山から離れる。

 「お相手の俳優さん、太陽が昇り切った頃に……って、言ってたんだけどな」

 独り言ちながら周りを見回す。

 と、遠くにぽつりと、白い影を見つけた。
 村とは反対の方角だ。西の方に向かう細道。
 その奥、ずっと遠くに、なにかが動いている。

 マイアは一気に緊張し、手を前に重ねて、遠くの影に深く頭を下げてみせた。


 ◇◇◇


 右手の山稜から太陽が顔を出した。
 約束の時刻だ。
 レヴィンは馬を進ませながら周囲のすべてに意識を集中する。

 と、遠くにひとつの影が見えた。
 草原のずっと奥、丘の上。
 橙色の光に埋められたそこに、なにかが動いている。

 馬を進ませながら目を細めていると、やがて形をはっきりと捉えられるようになった。人の形をした、なにか。
 丘の向こう側から上ってきて、頂に立った。影はひとつだった。

 「……実体化、か。ひとりということはないだろうな」

 レヴィンは冷笑するように独り言ちた。
 が、いつまで待っても、影はひとつのままだった。

 「……複数の妖魔がひとつの身体を形成している、ということか。狙いはなんだ。力を集中するためか……まあ、いい。戦闘になれば残らず殲滅するだけだ」

 彼は生贄としてやってきた。抗うつもりはない。それに、聖騎士団を壊滅させた妖魔たちをひとりで殲滅できるわけがない。もちろんそれらを分かったうえでの、彼の矜持である。

 馬が歩む。影が徐々に大きくなる。
 と、影が上に伸びた。手を差し上げたように見える。
 レヴィンは瞬時、手綱を引き絞った。右手を浮かせ、腰の剣に軽く被せる。遠距離攻撃をされると考えたのだ。
 しかし、攻撃が降ってくることはなかった。

 影はまた小さくなり、なにやら動いている。
 と、その動きが止まり、さらに縦方向に小さくなった。今度はレヴィンは様子を見ている。影はしばらくそうしていたが、すぐに元の大きさに戻った。
 それは彼から見ると、まるでこちらに頭を下げているように見えた。

 「ふん。得体の知れぬ奴らめ。なにを企んでいる」


 ◇◇◇


 白い影は、一頭の白い馬だった。
 その上の男性も、やはり白い装束を身に着けている。
 マイアは本物の騎士を見たことはないが、劇団の演《だ》しものの多くに魔法使いやお姫さまと一緒に登場していたから、それが白い甲冑を身に着けた騎士であることはすぐにわかった。

 馬はゆっくりと近づいてきて、丘のふもとで足を止めた。
 騎士はしばらくこちらを見上げた後でふわりと馬を降り、斜面を登ってくる。
 その距離まで来ると顔かたちがはっきりと見えるようになる。

 荒々しく伸ばされた白金の髪。
 意志の強そうな頬骨、顎。
 装束の上からでもそれとわかる、鍛え上げられた細身の身体。
 そしてなにより、彼女を射抜くように向けられる、紺碧の瞳。

 マイアは、息を呑んだ。よろめいた。数歩下がり、手を口に当てる。涙が滲んでいる。

 まずい。
 タイプすぎる。
 これは、だめなやつだ。

 「……あのっ!」

 声を発し、同時に彼女の全身から汗が噴き出た。
 出した声がきれいに裏返っていたからだ。
 だが、乗り越える。乗り越えてみせる。

 「あの、きょきょ、きょうは、ほんとに、ごきゅろうさまでござす!」

 乗り越えることはできなかった。

 なぜ礼の言葉ではなく、ご苦労さまです、という単語を選択したのかと彼女を責めることは容易だが、もはやそういう次元ではない。が、そのことは彼女も自覚しており、言葉を発した後は顔面を朱に染めて硬直している。
 それでも相手が黙っているから、なんとか続きを絞り出した。

 「き、騎士さまのかっこ、なんですね。へ、へへへ、か、かか、かこよい、です。しゅてき、です。へへへへ、お、おいしそ」

 絞り出した結果はさらに混迷の度合いを深めていた。美味しそうという言葉が自分のどこに埋蔵されていたのかと彼女は自らを呪った。最悪の深度を更新し、彼女の目尻には涙が浮かんできた。
 なんとかせねば。この窮地を。お相手さん、俳優さん、怒って帰っちゃう。こんなんじゃ、呆れられちゃう。

 「ま、まじゅは、座りたまえ。ここ、ここ、ね、ほら」

 足元の下草を指さし、自ら先に腰を下ろす。そのまま膝を抱え、頭を埋める。
 も、帰ってもらおかな……なんか気の毒になってきた……。


 ◇◇◇


 丘のふもとまで馬を進め、その脚を止めた。
 レヴィンは丘の頂に立つ姿に視線を置き、しばらく動かない。観察しているのだ。人間型。女。武装なし。だが、どこか異様だ。
 そう感じる原因は表情かもしれない。一見、笑っているように見える。が、その笑みが顔面の筋肉によって作られていることを彼は鋭敏に見抜いている。

 ……まあ、いい。もとより生贄だ。相手の懐に飛び込むまで。

 そう思い定めて、彼は馬を降り、足を踏み出した。ざくざくと下草を踏んで丘を登ってゆく。近づくにつれて相手の顔かたちが明瞭に捉えられた。
 女というより、少女。人間なら、二十……いや、十七歳ほどか。起伏のない体格。手足も細い。が、いまこちらに向けている紫の瞳だけが、どこか不自然なほどに熱を帯びているように感じられた。

 と、相手が心なしかよろめいたように思えた。攻撃か、と身構えようとしたがそうではないようだった。直後に口を開く。聞き取れない。甲高い音で、早口で発声されるためだ。レヴィンは以前、深夜の街で実体化した妖魔と対峙した際、似たような声を向けられたことがある。
 が、次の言葉は聞き取れた。
 
 へ、騎士さまの恰好かよ、捨てる気だな、美味しそう。

 意味は取れない。が、通じる。王宮の聖騎士ともあろうものが、殺されるとわかっていて命を捨てにきたのだな。美味しく喰ってやるから、覚悟しろ。

 その直後に相手はまた聞き取りずらい発声をし、座り込んだ。苦しんでいるようにも見える。人間の形状を長時間、維持することが困難なのだろう。
 ある程度の会話が成立することが分かったため、彼は相手の隣に腰を下ろした。あとは、委ねるのみだ。自らの命を。相手の望むままに。


 ◇◇◇


 その時、白の騎士が隣に腰を下ろした。
 マイアのほうをちらと見て、遠く山稜に目をやり、ひとつ息を吐く。

 「……約束は、守ってくれるのだろうな」

 騎士はたしかに、そう言った。
 マイアは膝から顔を上げ、目を瞬かせながら騎士の顔を見る。あまりの美麗に直視ができずにすぐに横を向き、高鳴る心臓を押えながら考える。
 約束? なんだろう? しばらく考えてひとつの可能性にたどり着く。

 以前にマイアは、劇団の昼食に手を出した。
 二日間、草の露しか口にしていなかった日。ふと劇団の天幕の横を通ると、香ばしい匂い。昼食の肉を焼いていたのだ。露天のテーブルに並べられたそれをマイアは無意識に失敬し、即座に捕縛された。彼女の動作は他人の倍の時間をかけてなされるためである。
 泣いて謝るマイアに劇団の者は言った。もう、するんじゃないよ。欲しくなったら言ってね、ちゃんと代わりのものを分けてあげるから。
 このことしかない。劇団の者に約束と言われるのであれば。

 「……もう、手は出しません」
 「……確かか」

 重ねて言われ、マイアは相手の顔をきっと見返した。

 「出しません。約束は守ります。代わりのものをもらえることがわかったから」

 そう言うと、騎士は息を呑むような表情をし、それから頷いた。頷いたまま顔を上げず、しばらく足元の下草を見ている。それでもやがて、絞り出すように小さな声を出した。

 「……なにをすればいい」

 マイアはそこに至り、相手の俳優さんに何を頼むかをまったく考えていなかったことに思い至った。心臓の鼓動が加速する。まずい。なにか言わなければ。
 そうした窮地においては、誰もが自らの根底をさらけ出すことになる。心の深層に思い描いていた性癖を露出することになる。
 マイアは乾いた口を動かし、そのことを告げた。

 「あの、あの、そしたら……ぼぼ、僕の小さなうさぎちゃん、って」
 「……なに?」
 「うううさぎちゃん、は、はちみつたっぷりかけて、でろんでろんになった君を抱きしめてあげるよ、ぼぼ僕も全部脱いで、はちみつだらけで、えへ、えへへ」

 数拍後、さすがのマイアもすべてが完全に終了したことを直感した。騎士の顔が歪んだままで固まっている。泣こうかと思ったが涙も出ない。それでもなんとかしなければと声を出そうとした、その時に。

 「……う……うさ、ぎ、ちゃん」

 騎士が声を出した。震えている。声も、身体も。顔の側面を手で覆っている。耳が赤い。

 「でろ、でろん、で……だ、だきしめて、あげる……ぜんぶ、ぬいで……」

 彼の言葉はマイアの言うことを正確に反映していない。が、そんなことはいまどうでもよい。マイアの世界が回転した。宇宙が弾けた。星が飛ぶ。薄紅よりほかの色彩が消失する。
 いちど倒れかけた身体を起こし、マイアは呼吸を荒くしながら先を続けた。

 「きき、君の髪、君の首。なんて美味しそうなんだろうって」
 「……きみの、かみ、くび、なんておいしそう……なんだ……」
 「むしゃぶりつきたい、離したくない、もう僕とひとつに溶けちゃえばいいのに」
 「むしゃぶり、つきた、はなしたくない、ぼくととけちゃえば……のに……」
 「君しか見えない、君が欲しい、いつまでもそばにいてほしい」

 マイアは文字が読める。村人から借りた草紙を読むこともできた。そうした中には大人の女性向けの物語もあり、そのもっとも気に入りのセリフを彼女は無数に暗記していた。それらの言葉が彼女の性癖の根底を形づくっていたのだ。

 こうした応答がしばらく続いたのち、騎士はばっと顔を上げた。マイアを見つめる目には涙が浮かんでいる。あまりの情けなさ、口惜しさゆえだろう。

 「い……い……いい加減にしてくれ! もてあそばれるのはたくさんだ! 妖魔なら妖魔らしく、ひと思いに俺を喰えばいいだろう!」

 叫んだ騎士を、マイアは呆然と見返している。

 「……え? え?」
 「貴様、妖魔だろう? 王を脅し、俺を、聖騎士を差し出せと言っただろうが!」
 「……ちょ、ちょっと、ごめんなさい。え、なに? これって、演技……?」
 「演技じゃねえ!」

 騎士はレヴィンと名乗り、あらかたの経緯を語った。マイアはそれも演技、台本に沿ってのことかと考えたが、どうもおかしい。もしや……。

 「……もしかして、ほんものの……騎士、さま……?」
 「だから! そうだっつってるんだよ! あんたこそなんだよ、妖魔じゃねえのか? なんでこんなとこいるんだよ、ここには妖魔の親玉がいるはずなんだよ!」
 「わたしは……その……それより、妖魔の親玉って、どんなのです?」

 レヴィンは妖魔がどういう存在かを説明しようとしたが、うまく言えない。当然だ。対峙したことがないものに、不条理の世界に巣食う彼らの実態を伝えきれるものではない。
 が、もどかしげに言いよどむレヴィンの額に、ふいにマイアは手をかざした。

 「……ああ、そういうやつ」

 こともなげにいうマイアに、レヴィンは怪訝な顔を向けた。

 「……なにをした」
 「あ、ごめんなさい。わたし、いろんな力があって。誰かの考えてることも読み取れるんです。いま、あなたの覚えてる妖魔のこと、見させてもらいました」
 「……そんなことができるのか。あんた一体、なんなんだよ……だが、そんなことはどうでもいい。あんたが妖魔じゃないとすると、いったい奴ら、どこにいる。まさか、場所を誤ったか……?」

 焦燥した表情で顎に手を当てるレヴィンに、マイアは小首を傾げてみせた。

 「いないと思いますよ、もう」
 「なに」
 「妖魔、っての。だってさっき、森の南の方で消しましたもん。なんか真っ黒で気持ち悪いのがたくさん湧いてきて、ぎゃあってぶっとばしました。あれが妖魔なんですね。親玉だったんですか」
 「……は?」

 マイアはなにか口にしようとしていったん収め、恥ずかし気に後ろを向いてから、横目にレヴィンの方に目を向けた。

 「わたし、先日亡くなった母からこの地方を引き継いだんです。一応、女神さん、やってます。えへへ。でもでも、なるべく力を使わないで、人間のなかで暮らしたいなあって……あ、あの、わたしのこと呼ぶときは、う、うさうさ、うさぎちゃんで……ね。うさちゃん、ぴょ。へへへ」


 <了>