三年前の初夏。
真っ赤な火の玉は、火花を散らすことなく、ぽとりと落ちた。
「こっちも早いんだね、コウスケ」
冗談よと言って、美緒は小さくハハハと笑った。
彼女が手に持つ線香花火は、元気にパッパッと火花を散らしている。
少しむっとして、彼女の頭を軽く小突く。
「あ、ダメ、揺らさないで」
赤い玉がぽとりと落ちた。
「ほら!もう……」
彼女はぷんと怒りながら、バケツに線香花火だったものを放り込む。
「さ、行こうか」
「うん、体冷やすといけないしね」
彼女は明日、再び病院に戻る。入院生活は長くなるだろう。
今夜は前倒しの「夏祭り浴衣デート」だ。
どうしても浴衣を着ておきたいと、せがまれたのだ。
「その浴衣の小さい花、可愛いね」
社交辞令でなく、僕は褒める。
「ありがとう……これ、『雪笹』っていうお花」
「なんか、線香花火みたいだね」
「そう。それを狙って、今日これを着てきたの……でもさ、本当は『この浴衣を着た私が可愛い』って褒めて欲しかったんだけどな」
ごめんごめんと言いながら僕はバケツを持ち、彼女と手を繋ぐ。
美緒を揺すって、火の玉を落としてしまったことをちょっと後悔している。
〇
翌年の初夏。
フラワーショップの店先で、雪笹の実物を見た。
『宿根草(しゅっこんそう)の鉢植えシリーズ』というコーナーに、『ユキザサ』と書かれたプレートをつけて、その小鉢が並んでいた。
彼女が着ていた浴衣のそれよりも、白い花々は小さく儚く、しかし凛として咲いている。
僕はお店の女性に話しかける。
「すみません、宿根草ってなんですか?」
「多年草の植物で、茎や葉枯れても、翌年には芽が出て再び花を咲かせる植物のことです」
「この『雪笹』は、育てるの、大変ですか?」
「水やりに少し気を遣いますが、丁寧に育てると毎年咲きますよ」
茎に連なっている小さなつぼみが開き、白くて、か細い花びらが伸びていく。
購入してからしばらく、あの時の線香花火の情景を重ねていた。
その年のお盆。
僕は、雪笹の鉢をベランダに出し、三本だけ線香花火をやってみた。
もちろん、このマンションでは禁止されている行為だけど。
ぱっぱっと細やかな火花が散っているわずかな間だけでも、帰ってきてくれないかな。
鉢植えの花穂が終わると、緑色の実がつき始めた。
秋。
その実は、鮮やかなルビー色になった。線香花火の赤い玉のように。
花屋さんに教えてもらった、雪笹の花言葉。
"憂いを忘れる、穢れのない、美しい輝き”
僕は、その言葉と美緒の浴衣姿を重ね合わせた。
〇
今年、あれから三年後の夏。
僕は、何となくつき合い始めた、栞(しおり)という子と、あの公園で線香花火をしている。
栞は、フラワーショップで雪笹を買った時、育て方や宿根草のことをいろいろ教えてくれた店員さんだ。
彼女は、白地に薄紫の花色の浴衣を着ている。
桔梗。たしかこれも宿根草のはずだ。
はぜる小さな火の玉を見つめる彼女。
僕の視線に気づき、顔を上げ、微笑む。
僕は息をのんだ。
線香花火がほの暗く照らしたのはその女性は、美緒だった。
浴衣の柄は……雪笹だ。
二人の線香花火の赤い玉が、ぽとりと落ちる。
もう一度見ると、僕と向かい合っている女の子は、やっぱり栞だった。
浴衣は桔梗。
再び、線香花火の玉に火をつける。
薄い煙の向こうで微笑む姿は……美緒だ。
「コウスケ、久しぶり」
雪笹の浴衣姿の彼女は確かにそう言った。
火が消えると、再び桔梗の浴衣姿の女性に戻る。
線香花火は、あと何本ある?……まだ十本以上ある。
僕は栞の手に花火のコヨリを持たせ、火をつける。
再び現れた雪笹の浴衣の子に早口で喋る。この三年間あったことを。
線香花火が終わるまでに。
微笑みながら耳を傾け、うなずく彼女。
新しい花火に火をつける。
ほのかな灯りに照らされ、彼女の口元が動く。
「コウスケは元気そうだね」
「うん、なんとか」
「そうか……じゃあ、よかった」
美緒は少し悲しそうに笑う。
「あっ」
片手で残っている線香花火の束を拾い上げ、全部バケツの水の中に放り込んでしまった。
そうしたのは、栞ではなく、美緒だ。
「コウイチ、今手に持っている、これでおしまいにしよう」
二本の花火がチリチリと火花をちらし、少しずつそれが弱くなっていく。
「な……なんで?」
「ほんとはね、『線香花火一本分の時間だけ』って約束で戻ってきたんだ……だからとっくにタイムオーバー」
「……もっと話したかったのに」
彼女は一旦目を伏せ、再び僕を見つめた。
「君はね、これからも生きて行かなくちゃいけないんだ」
「……」
彼女は声のトーンを変える。
「……それにさ、いい子じゃない。栞さんって……安心した。だから」
「美緒……もう少し」
どうか、どうか、落ちないでくれ!……いつまでも。
「そろそろ時間だね。じゃあ、元気でね」
最後の線香花火。
ぽとり。
二つの小さな光の玉が同時に落ちた。
暗闇の中だが、その姿が栞に戻ったことは直感でわかった。
線香花火の燃えかすをもったまま、桔梗の浴衣姿の女性は立ち上がり、僕のそばに寄る。
僕も立ち上がり、彼女を抱き止める。
栞は僕の顔を見上げ、恐々と口を動かした。
「泣いてるの?」
「君だって」
「……なんでかしら」
「……なんでだろうね」
美緒は栞にバトンを渡した。
線香花火が終わるまでに。
-了-
真っ赤な火の玉は、火花を散らすことなく、ぽとりと落ちた。
「こっちも早いんだね、コウスケ」
冗談よと言って、美緒は小さくハハハと笑った。
彼女が手に持つ線香花火は、元気にパッパッと火花を散らしている。
少しむっとして、彼女の頭を軽く小突く。
「あ、ダメ、揺らさないで」
赤い玉がぽとりと落ちた。
「ほら!もう……」
彼女はぷんと怒りながら、バケツに線香花火だったものを放り込む。
「さ、行こうか」
「うん、体冷やすといけないしね」
彼女は明日、再び病院に戻る。入院生活は長くなるだろう。
今夜は前倒しの「夏祭り浴衣デート」だ。
どうしても浴衣を着ておきたいと、せがまれたのだ。
「その浴衣の小さい花、可愛いね」
社交辞令でなく、僕は褒める。
「ありがとう……これ、『雪笹』っていうお花」
「なんか、線香花火みたいだね」
「そう。それを狙って、今日これを着てきたの……でもさ、本当は『この浴衣を着た私が可愛い』って褒めて欲しかったんだけどな」
ごめんごめんと言いながら僕はバケツを持ち、彼女と手を繋ぐ。
美緒を揺すって、火の玉を落としてしまったことをちょっと後悔している。
〇
翌年の初夏。
フラワーショップの店先で、雪笹の実物を見た。
『宿根草(しゅっこんそう)の鉢植えシリーズ』というコーナーに、『ユキザサ』と書かれたプレートをつけて、その小鉢が並んでいた。
彼女が着ていた浴衣のそれよりも、白い花々は小さく儚く、しかし凛として咲いている。
僕はお店の女性に話しかける。
「すみません、宿根草ってなんですか?」
「多年草の植物で、茎や葉枯れても、翌年には芽が出て再び花を咲かせる植物のことです」
「この『雪笹』は、育てるの、大変ですか?」
「水やりに少し気を遣いますが、丁寧に育てると毎年咲きますよ」
茎に連なっている小さなつぼみが開き、白くて、か細い花びらが伸びていく。
購入してからしばらく、あの時の線香花火の情景を重ねていた。
その年のお盆。
僕は、雪笹の鉢をベランダに出し、三本だけ線香花火をやってみた。
もちろん、このマンションでは禁止されている行為だけど。
ぱっぱっと細やかな火花が散っているわずかな間だけでも、帰ってきてくれないかな。
鉢植えの花穂が終わると、緑色の実がつき始めた。
秋。
その実は、鮮やかなルビー色になった。線香花火の赤い玉のように。
花屋さんに教えてもらった、雪笹の花言葉。
"憂いを忘れる、穢れのない、美しい輝き”
僕は、その言葉と美緒の浴衣姿を重ね合わせた。
〇
今年、あれから三年後の夏。
僕は、何となくつき合い始めた、栞(しおり)という子と、あの公園で線香花火をしている。
栞は、フラワーショップで雪笹を買った時、育て方や宿根草のことをいろいろ教えてくれた店員さんだ。
彼女は、白地に薄紫の花色の浴衣を着ている。
桔梗。たしかこれも宿根草のはずだ。
はぜる小さな火の玉を見つめる彼女。
僕の視線に気づき、顔を上げ、微笑む。
僕は息をのんだ。
線香花火がほの暗く照らしたのはその女性は、美緒だった。
浴衣の柄は……雪笹だ。
二人の線香花火の赤い玉が、ぽとりと落ちる。
もう一度見ると、僕と向かい合っている女の子は、やっぱり栞だった。
浴衣は桔梗。
再び、線香花火の玉に火をつける。
薄い煙の向こうで微笑む姿は……美緒だ。
「コウスケ、久しぶり」
雪笹の浴衣姿の彼女は確かにそう言った。
火が消えると、再び桔梗の浴衣姿の女性に戻る。
線香花火は、あと何本ある?……まだ十本以上ある。
僕は栞の手に花火のコヨリを持たせ、火をつける。
再び現れた雪笹の浴衣の子に早口で喋る。この三年間あったことを。
線香花火が終わるまでに。
微笑みながら耳を傾け、うなずく彼女。
新しい花火に火をつける。
ほのかな灯りに照らされ、彼女の口元が動く。
「コウスケは元気そうだね」
「うん、なんとか」
「そうか……じゃあ、よかった」
美緒は少し悲しそうに笑う。
「あっ」
片手で残っている線香花火の束を拾い上げ、全部バケツの水の中に放り込んでしまった。
そうしたのは、栞ではなく、美緒だ。
「コウイチ、今手に持っている、これでおしまいにしよう」
二本の花火がチリチリと火花をちらし、少しずつそれが弱くなっていく。
「な……なんで?」
「ほんとはね、『線香花火一本分の時間だけ』って約束で戻ってきたんだ……だからとっくにタイムオーバー」
「……もっと話したかったのに」
彼女は一旦目を伏せ、再び僕を見つめた。
「君はね、これからも生きて行かなくちゃいけないんだ」
「……」
彼女は声のトーンを変える。
「……それにさ、いい子じゃない。栞さんって……安心した。だから」
「美緒……もう少し」
どうか、どうか、落ちないでくれ!……いつまでも。
「そろそろ時間だね。じゃあ、元気でね」
最後の線香花火。
ぽとり。
二つの小さな光の玉が同時に落ちた。
暗闇の中だが、その姿が栞に戻ったことは直感でわかった。
線香花火の燃えかすをもったまま、桔梗の浴衣姿の女性は立ち上がり、僕のそばに寄る。
僕も立ち上がり、彼女を抱き止める。
栞は僕の顔を見上げ、恐々と口を動かした。
「泣いてるの?」
「君だって」
「……なんでかしら」
「……なんでだろうね」
美緒は栞にバトンを渡した。
線香花火が終わるまでに。
-了-



