神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

「……これ、退職願です。今までお世話になりました」

翌朝、優里が拓真のデスクにそっと置いたのは、一枚の白い封筒だった。
その瞳には、怒りも悲しみもすでになく、ただ何も映さない静けさだけが宿っている。

「……何だと?」

拓真の指先が、はっきりと分かるほど震えた。

昨日の美優との修羅場。
そして、勝利者のように誰かに抱き寄せられ、背を向けて去っていった優里の姿。
一睡もできず、「どう謝るべきか」だけを考え続けていた拓真にとって、それは――死刑宣告だった。

「もう限界なんです」

優里は淡々と、感情を切り離した声で続ける。

「美優とのイチャイチャを見せつけられるのも、仕事という名目で監視されるのも。……私、西園寺さんの紹介で、別の場所で働きます」

拓真の胸が、ぎゅっと締め付けられる。

「あの人は、私を『便利なおまけ』じゃなく、一人の人間として見てくれましたから」

「……西園寺の紹介? 別の場所……?」

その瞬間、拓真の脳内で、何かが乾いた音を立てて切れた。

優里が、自分の視界から消える。
自分以外の男が用意した場所で、
自分以外の男に向かって、微笑む――。

(……そんな未来、許せるはずがない)

地球が滅んでも、逃がすものか。

「認めない。その退職願は受理しない」

「辞めるのは、個人の自由です。……失礼します」

優里が背を向け、ドアへと歩き出した、その瞬間だった。

拓真はスマートフォンを取り出し、震える指である番号を押す。

「……親父か。俺だ」

低く、冷え切った声。

「今すぐ、桜田商社を買い取れ。……ああ、株を全部だ。言い値でいい。
一時間以内に、俺をこの会社の『オーナー正当代理人』にしろ」

「か、課長!? 何を言って――」

優里が振り返った時には、もう遅かった。

そこにいたのは、優柔不断な上司ではない。
世界企業・片桐グループの次期総帥。
獲物を逃さぬためなら、世界ごと噛み砕く――冷酷な捕食者の顔だった。

一時間後。

桜田商社の全館放送に、動揺を隠しきれない社長――優里の父の声が響いた。

「……本日、我が桜田商社は片桐グループの傘下に入ることとなりました。
これに伴い、全権事項は片桐拓真氏に委譲されます……」

社内が蜂の巣をつついたような騒ぎになる中、
拓真は優里の目の前で、退職願をゆっくりとシュレッダーにかけた。

「これで、お前がどこへ行こうと、そこは俺の支配下だ」

紙片が無残に裁断されていく。

「西園寺の紹介する会社? それも今すぐ買収リストに入れさせる。
お前が働く場所は、この地球上に――俺の目の届かない場所なんて、存在しない」

「……狂ってる」

優里の声が震える。

「あなた、狂ってます……っ」

「ああ、狂ってるさ」

拓真は微笑んだ。

「二十四年間、お前という呪いにかけられている」

細い腰を引き寄せ、逃げ場を塞ぐようにデスクへ押し付ける。

(どこにも行くな。
お前を失うくらいなら、俺は悪魔にだってなる。
守るためなら、会社の一つや二つ、安い)

だが――
優里の目から溢れたのは、喜びではなく、絶望の涙だった。

(……ひどい)
(美優と幸せになるために、私の逃げ場まで奪うのね)
(この人は……私が壊れるまで、やめない……)

その時、勢いよくドアが開いた。

「ちょっと拓真さん!? 買収って何よ!」

美優が慌てて飛び込んでくる。

「私の『お姉ちゃん覚醒作戦』、台無しじゃない!!」

「美優、黙れ」

拓真は一瞥すらくれず、優里だけを見つめた。

「……もう一度言う。
お前の居場所は、俺の隣だけだ」

「神系イケメン」が、
完全に「最凶の独裁者」へと堕ちた瞬間。

優里の勘違いは、もはや命の危険を感じるほどの絶望へと変わり、
二人の歪んだ関係は、誰にも止められない泥沼へと突き進んでいく。