神系御曹司の初恋は難攻不落 〜「お前じゃない」と言われ続けて十余年〜

営業二課のフロアは、もはや酸素よりも火薬の濃度の方が高いのではないかと思えるほど、張り詰めていた。
誰もが息を潜め、中心にある“嵐の核”から目を逸らしながらも、無意識に視線を向けてしまう。

拓真のデスク。
その左右を固める二人の「秘書」。

「拓真さーん、見て見て。このタイピン、絶対今日のスーツに合うと思って」

美優は弾む声で距離を詰め、拓真の前に身を滑り込ませた。
ふわりと甘い香りが広がり、指先がネクタイに触れる。
近すぎる距離。周囲が一瞬、ざわめく。

「ちょ、美優ちゃん、近い。自分でできるから離れろ」

拓真は声を低く抑えつつ、視線だけを必死に横へ――優里の方へ走らせた。
そこには、感情を削ぎ落としたような冷たい横顔。

(見てる……。優里が、全部見てる……)

「えー、いいじゃない。秘書なんだし」
美優は悪びれず、さらに身を寄せる。
「ほら、ちょっとズレてる」

無邪気を装った仕草が、かえって距離感を狂わせる。
フロアの空気が、重く、甘く、そして不穏に淀んでいく。

営業部の誰かが、息を呑む音が聞こえた。

一方、優里。

(……見せつけてる)

胸の奥が、じわじわと焼けるように痛む。
それは嫉妬だった。だが、彼女の中でそれは即座に別の感情へと変換される。

――怒り。
――嫌悪。

「……資料の整理が終わりました」

優里は静かに立ち上がった。
声は震えていたが、背筋は不自然なほど真っ直ぐだ。

「西園寺さんとの打ち合わせに行って参ります」

逃げるように席を離れようとした、その瞬間。

「待て!」

拓真が、反射的に美優を引き剥がすようにして叫んだ。

「行くなと言ってるだろう!」

「……これ以上、何をしろと?」

優里は振り返らない。
けれど、その声は鋭かった。

「目の前で二人の関係を見せつけられ続けろ、と?
悪趣味にも程があります、片桐課長」

「違う! これは美優ちゃんが勝手に――」

「ひどーい」

美優が甘えた声で、再び拓真の背に腕を回す。

「昨日はあんなに優しかったのに。
『優里には内緒だよ』って言ったじゃない」

その一言が、決定打だった。

「…………内緒、ですか」

優里の瞳から、すっと光が消えた。

「……大切にしてください。お二人だけの秘密」

淡々と、感情のない声で。

「私は、私の“居場所”へ行きます」

「優里!!」

拓真の叫びを背に、優里はフロアを後にした。
振り返らない。その背中は、決別そのものだった。

ロビー。

待っていたかのように、勝利が立っていた。

「……つらい思いをしましたね」

穏やかな声。
そっと距離を詰め、優里の様子を確かめるように覗き込む。

「もう十分です。今日は、外に出ましょう」

彼の手が、ためらいなく優里の腰に回る。

その光景が、拓真の視界に飛び込んだ瞬間――

「――西園寺ッ!!」

理性が、完全に切れた。

「その手を離せ!!」

椅子を蹴り、デスクを越え、拓真は走り出す。
獣のような怒号が、フロアに響いた。

背後では、美優が両拳を握りしめ、楽しそうに叫んでいる。

「いいよいいよー!
やっと来たじゃん、本番!!」

こうして――
誤解は確信へ、
独占欲は暴走へ。

もはや誰にも止められない地点へと、物語は踏み込んでいった。