朝五時。目覚まし時計が鳴る三分前。私は今日も、時計に負けずに目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む、まだ薄暗い光。空気がひんやりと澄んでいる、一日で一番好きな時間だ。
窓を開けると、十二月の冷たい空気が頬を撫でていった。
「ふう……」
深呼吸をすると、肺の奥まで冷気がしみ渡って清々しい。この感覚があるから、私は朝が好きなのだ。
白湯を飲みながら、今日のスケジュールを頭の中で確認する。
午前中は、公園でヨガのレッスン、午後は新規の生徒さんとの面談。夕方には事務作業を済ませて、夜九時には就寝……完璧だ。
私、朝倉ひかり・二十六歳は、ヨガインストラクターとして独立して三年になる。
三年前まで広告代理店で働いていたけれど、連日の激務で体を壊した。入院中、窓から見えた朝日が妙に綺麗で。
退院してから、朝型の生活に切り替えた。早寝早起き、規則正しい食事、適度な運動。それだけで、人生が変わった。
だから、私は信じている。朝型の生活こそが、人間にとって一番健康的なのだと。
私が住む、このシェアオフィス併設マンションのお隣・五〇六号室は、つい最近まで空室だったのだが。どうやら先週、新しい入居者が決まったらしい。
一体、どんな人なんだろう。願わくば、私と同じように朝を大切にする人だといいのだけれど。
ヨガマットを広げ、いつものように三十分ほど体を動かす。
呼吸を整え、筋肉を伸ばしていると、窓の外が少しずつ明るくなっていく。この時間帯の空の色の変化は、何度見ても飽きない。
シャワーを浴び、オートミールとフルーツの朝食。今日も完璧なスタートだ。
六時半。私は自室を出て、共用キッチンへ向かった。ここで毎朝、グリーンスムージーを作るのが日課になっている。窓が大きくて朝日がよく入るから、私のお気に入りの場所なのだ。
小松菜、バナナ、リンゴ、豆乳。ミキサーに材料を入れながら、今日のレッスンに来る生徒さんたちの顔を思い浮かべる。
みんな、最近表情が明るくなってきた。ヨガを続けることで、心も体も健康になっていく。それが何より嬉しい。
ミキサーのスイッチを入れようとした、その時だった。
「……」
背後に人の気配を感じて振り返ると、真っ黒な服を着た若い男性が立っていた。見慣れない顔。
身長は百八十センチほど。上下黒い服に、少し長めの黒髪が目にかかっている。色白で、目の下には薄くクマがあるが、疲れているのだろうか。
でも、不思議と不健康そうには見えない。むしろ、どこか艶やかな雰囲気すら漂っている。まるで、夜の闇を纏っているような。
「おはようございます!」
私は明るく挨拶をした。朝から人に会えるなんて、ラッキーだ。
男性は少しだけ目を細めて、「……おはよう」と低い声で返した。
無言でキッチンに入ってくると、棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出した。お湯を沸かし、カップに粉を入れる。動作は静かで、無駄がない。
私はスムージーを作りながら、チラリと時計を見た。六時四十分。
「こんな早い時間から、お仕事ですか?」
思わず声をかけてしまった。このビルに入居している人は、フリーランスやスタートアップ企業の人が多い。朝早くから、働く人がいても不思議ではないけれど。
男性はカップを手に取りながら、「いや、今から寝る」と答えた。
私の手が止まる。
「え……今から、ですか?」
「ああ。仕事が深夜までだから」
淡々とした口調。当たり前のことを言っているような顔をしている。
気づけば口に出ていた。
「それ、体に悪いですよ!」
男性がこちらを見た。少し面倒くさそうな目をしている。
「朝日を浴びないと、体内時計が狂ってしまいます。人間は本来、朝起きて夜寝る生き物なんです。夜更かしを続けると、自律神経が乱れて、免疫力も下がって、将来的には生活習慣病のリスクも……」
「人の生活に、口出ししないでくれる?」
冷たい声で遮られ、私は言葉を失った。
男性はコーヒーを一口飲んでから、こちらを見た。
「俺の仕事は深夜がメインなんだ。それに、夜型の生活が体に悪いって決めつけるのはどうかと思うけど」
「ですが、医学的にも……」
「君は、夜の世界を何も知らないんだろ? 知りもしないで否定するのは、フェアじゃない」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
確かに、私は夜九時には寝ている。夜の世界なんて知らない。だけど――。
男性はコーヒーカップを持ったまま、キッチンを出ていった。
「……なんなの、あの人」
私は小さく呟いた。せっかくの爽やかな朝が、台無しになった気分だった。
◇
それから一週間。私は、あの男性と何度も顔を合わせることになった。
朝六時、私が共用キッチンへ行くと、彼が帰ってくる。お互い、挨拶だけで会話はしない。だが、問題はそれだけじゃなかった。
私の部屋は五〇五号室。そして、あの男性の部屋は隣の五〇六号室だったのだ。まさかのお隣さん……。
このマンションの壁は薄いのか、お互いの生活音が筒抜けだった。
朝六時。私が部屋でヨガの音楽をかけると、隣の部屋から「ドンドン」と壁を叩く音が聞こえてくる。
深夜三時。私が眠りについている時、隣の部屋のドアが開く音、シャワーの音が聞こえてくる。そのたびに目が覚めてしまう。
私は管理会社に電話をした。
「隣の部屋の方の帰宅時間が遅くて、毎晩起こされるんです」
すると翌日、管理会社から連絡があった。
「隣室の方からも、朝の音楽がうるさいとクレームが来ています。お互い様なので、話し合いをしていただけますか?」
お互い様……? 私は腹が立った。
私は朝六時、常識的な時間に起きているだけだ。それに比べて、深夜三時に帰ってくるなんて、どう考えても非常識じゃないか。
◇
数日後の夕方。私はレッスンを終えて、共用ラウンジでハーブティーを飲んでいた。すると、ソファの反対側に、あの男性が座った。
昼間に彼を見るのは、初めてだった。
白いTシャツにジーンズ。ラフな格好だけど、やはりどこか艶やかな雰囲気がある。起きたばかりなのだろうか、髪が少し乱れている。
その無防備な様子が、妙に色っぽい。
凝視していたからか、彼と目が合ってしまった。
「……あの」
私が口を開くと、彼も同時に「話がある」と言った。お互い、言いたいことは同じだったようだ。
「あなたのせいで、毎晩起こされるんですけど」
「こっちこそ。朝からうるさくて眠れない」
同時に言い合って、気まずい沈黙が流れる。
私は深呼吸をしてから、落ち着いて言った。
「私は、朝六時に起きています。常識的な時間ですよね?」
「俺は深夜三時に帰る。仕事があるから、仕方ない」
「でも、もう少し静かに帰宅することはできませんか?」
「できるだけ気をつけてるつもりだけど。俺だって、朝のあの音楽、我慢してるんだから」
「あれは、ヨガのための音楽です。健康のために必要なんです」
「俺の仕事も、生活のために必要なんだ」
また、平行線。私たちはお互いに腕を組んで、睨み合う。
すると、そこへ管理人が通りかかった。うまくフォローしてくれないかな……そう思ったのに。
「お二人とも、防音対策はご自身で工夫してくださいね」
それだけ言い残して、去っていった。
淡い期待があっさりと打ち砕かれてしまった。
仕方なく、私たちは少しだけ話をすることにした。
沈黙の後、彼が先に口を開いた。
「……そういえば、名前も名乗ってなかったな。俺は、夜久涼」
「夜久……さん」
私は彼の名前を繰り返した。夜に久しい、と書いて夜久。珍しいけど、夜型人間にぴったりの名前だ。
「俺のことは涼でいい。敬語も別にいらない」
「でも、ほぼ初対面ですし」
「隣人だろ。堅苦しいのは苦手なんだ」
彼――涼さんは、少し面倒くさそうに肩をすくめた。
「私は、朝倉ひかりです。朝に倉、って書いて……」
「朝倉さんか。君も、朝型人間らしい名前だな」
涼さんは口元を緩めた。その笑顔が、初めて見る柔らかい表情で、私は少しドキリとした。
「……あなたの仕事って、何なんですか?」
私が尋ねると、涼さんは少し間を置いてから答えた。
「バー。自分の店を経営してる」
「バー……」
私は驚いた。バーなんて行ったことがない。
「経営してるって……涼さん、おいくつなんですか?」
「二十八。君は?」
「二十六です」
「そっか。俺の方が年上か」
涼さんは少し意外そうな顔をした。
「もう少し、上かと思ってた。君、しっかりしてるから」
「そんなことないです。涼さんも若く見えます」
「夜型だからな。老けるのが遅いのかもしれない」
涼さんは冗談めかして笑う。
「それは、科学的根拠がありません!」
つい反論してしまい、涼さんは苦笑した。
「で? 君は、バーには行ったことないの?」
「ないです。お酒もあまり飲まないし、夜遅くまで起きていることもないので」
「……マジで? 二十六歳で?」
「はい」
彼は少し呆れたような顔をして、コーヒーを飲んだ。
「それじゃあ君は、夜に何してるの?」
「寝てます。九時には」
「……」
彼は言葉を失ったようだった。そして、小さく笑った。
「子どもかよ。人生の半分、損してるな」
その言葉に、カチンときた。
「そっちこそ! 朝日を見ない人生なんて、もったいないです!」
「朝日なら、たまに見るよ。帰り道で」
「それじゃダメなんです。朝日は、朝起きてすぐ浴びるからいいんです。体内時計がリセットされて、セロトニンが分泌されて――」
「はいはい」
彼は面倒くさそうに手を振った。
私はムッとして、ハーブティーを一気に飲み干した。
なんなの、この人。人の話を全然聞かない。
その時。彼がふと窓の外を見て呟いた。
「夕焼け、綺麗だな」
その横顔が、どこか寂しそうに見えた。
私も窓の外に目をやる。オレンジ色に染まる空。朝日とも違う、柔らかな光。
「夕焼け……朝日とは、違いますね」
「ああ。朝と夜の間の、特別な時間だ」
その言葉に、私の心が動いた。
朝と夜の間。私が知らない時間。
◇
それから数日、私たちは顔を合わせないようにしていた。
だが、壁一枚隔てた隣に住んでいる以上、完全に避けることはできない。
朝六時、私がヨガをしていると、壁越しに微かな呼吸音が聞こえてくる。普段は気づかないその音に、今は耳が引き寄せられる。深く、規則正しい呼吸だ。
深夜三時。私が眠っていると、隣の部屋のドアが開く音が聞こえる。そして、シャワーの音。
そのたびに目が覚めてしまい、お互いの存在を意識せずにはいられなかった。
そして、ある夜。いや、正確には深夜だった。
「はぁ……しんどい」
私は体調を崩していた。
レッスンが続いて、疲れが溜まっていたのだろうか。夕方から頭が痛く、体が重かった。でも、いつも通り夜九時には就寝した。
しかし、深夜二時頃、喉の渇きで目が覚めた。体が熱い。起き上がろうとしたが、足に力が入らない。
どうしよう。スマホはベッドの上だ。手が届かない。
これじゃあ、助けも呼べない。もしかして、このまま朝まで……?
「……っう」
私は、なんとか玄関まで這っていった。けれど、そこで体が限界を迎えた。視界が白く滲んで、頬が冷たい床につく。
――ドアまで、あと少しなのに。
その時、ふと気づいた。この壁の向こうは、涼さんの部屋だ。
この時間は、まだ帰っていないかもしれない。だけど、もし帰ってきていたら……。
最後の力を振り絞って、私は壁を叩いた。
――ドンッ!
「……涼、さん……」
声が出ない。でも、届いて……。
この壁の向こうは涼さんの部屋だけど、反応がない。
ダメだ、もう誰にも気づいてもらえない……。
瞼が重くなり、意識が遠のいた――その時。
――ドンドンドン!
「おい、ひかり、どうした!?」
激しいノックの音が聞こえた。それは、隣の部屋のドアが開く音と、ほぼ同時だった。
「さっき、壁を叩く音がしたけど、何かあったのか!?」
この声は……涼さん? 帰ってきていたんだ……。
「ドア、鍵がかかってない……入るぞ!」
――ガチャッ。
ドアが開く音がしたのと同時に、肩を激しく揺さぶられる。
「おい、ひかり! しっかりしろ!」
「……」
目を開けようとするが、まぶたが重い。
「くそ、熱い……! 救急車より、俺が運んだ方が早い」
気づくと、体が宙に浮いていた。涼さんに、抱き上げられている。
「大丈夫だからな。今、病院に連れてくから」
その声と、ほのかに香るお酒と石鹸の混ざった匂いに、不思議と安心した。
◇
次に目を覚ますと、見慣れた天井があった。
「ここは……」
私の部屋だ。頭がぼんやりとして、昨夜の記憶が曖昧。
確か、夜中に体調を崩して……それから――。
ふと、断片的に記憶が蘇る。
『大丈夫だからな』
涼さんの声。抱きかかえられる温かさ。
車の揺れ。明るい照明。病院……?
点滴の冷たさ。そして、涼さんの手の温もり。
「……っ」
そうだ。涼さんが、助けてくれたんだ。
体が重く、頭も痛い。だけど、ちゃんとベッドで寝ている。
ベッドサイドのテーブルには、スマホが置いてある。画面を見ると、生徒さんたちへの休講メッセージが送信されていた。
私は、送っていない……ということは、涼さんが?
ふと、視線を動かすと、ドアの前に何かがあることに気づいた。なんとか体を起こして、ドアへと向かう。
紙袋が置いてあった。中には、レトルトのお粥、スポーツドリンク、そして手書きのメモ。
『ちゃんと食え。無理すんな。夜型人間より』
「ふふ、夜型人間って」
私は笑ってしまった。
涼さんだ。涼さんが、全部してくれたんだ。
病院に連れて行って、生徒さんに連絡して、部屋まで送り届けて、お粥まで用意してくれて。
胸の奥が温かくなり、涙が溢れそうになる。
あんなに喧嘩ばかりしていたのに。生活リズムが違うって、いつも衝突していたのに。
それなのに、こんなに優しくしてくれるなんて。
「ありがとう……」
私はさっそく、お粥を温めて食べた。体にしみ渡る優しい味。
そして、決めた。涼さんに、ちゃんとお礼を言おう。
◇
その日の夕方。体調が少し回復した私は、涼さんの部屋をノックした。
ドアが開くと、涼さんは起きたばかりのようで、髪が乱れていた。寝癖がついている。なんだか、可愛い。
「もしかして、起こしちゃいました?」
「いや、ちょうど起きたとこ。どうした? 体調は?」
「だいぶ良くなりました。あの、昨日は本当にありがとうございました」
私は、軽く頭を下げる。
「別に。隣人として当然のことをしただけ」
涼さんはそっけなく言うけれど、目は優しい。
私は、手作りのマフィンを差し出した。
「さっき、焼いたんです。お礼に」
涼さんは目を見開き、マフィンを受け取った。
「……ありがとう。でも、無理すんなよ。まだ体調悪いんだろ?」
「大丈夫です。これくらいなら」
私は笑顔で答えた。
涼さんは少し困ったような顔をして、マフィンを一口食べた。
「……美味い」
「本当ですか?」
「ああ。久しぶりに、ちゃんとした朝ごはんって感じの味だ」
その言葉に、私は嬉しくなった。勇気を出して、口を開く。
「あの……よかったら、私に夜の世界を教えてもらえませんか?」
涼さんは目を丸くした。
「夜の世界?」
「はい。私、夜のことを何も知らないで否定していました。だから、涼さんが大切にしてる時間を、ちゃんと知りたいんです」
涼さんは少し考えてから、小さく笑った。
「……いいよ。じゃあ、今度うちの店においでよ」
涼さんは優しく微笑む。
「夜型人間の世界、見せてあげる」
その笑顔に、胸が高鳴った。
ドキドキする。どうして、こんなに嬉しいんだろう。
◇
数日後の夜九時。
私にとって、いつもなら就寝時間だ。パジャマに着替えて、ベッドに入る時間。
だけど、今日は違う。ワンピースを着て、軽くメイクをして。鏡を見ながら、自分でも驚く。
「デートじゃないのに、なんでこんなに緊張してるんだろう」
今日は、涼さんのバー『midnight blue』へ、初めて訪れる日だ。
家から徒歩数分、ビルの地下にある小さなバー。階段を降りると、重厚なドアが見える。
私は深呼吸をして、ドアを開ける。その瞬間、異世界が広がった。
薄暗い照明。ジャズの音楽。カウンターに並ぶ、色とりどりのボトル。静かに揺れるグラス。
空気が朝とは全然違う。しっとりと、大人の雰囲気。
私は息を呑む。こんな世界が、あったんだ。
カウンターには数人のお客がいる。みんな静かにグラスを傾けている。
「いらっしゃい」
涼さんの声。
カウンターの奥から、彼が現れた。黒いベストに白いシャツ。ネクタイをきちんと締めて、髪も整えている。
いつもとは違う、プロの顔。かっこいい。
私は見惚れてしまった。
「初めてのバーは、どう?」
涼さんが微笑みながら尋ねた。
「綺麗……。朝とは、全然違います」
私は正直に答えた。
涼さんはカウンターの中へ私を案内し、席を勧めた。革張りの椅子。座ると、ふかふかで心地いい。
涼さんは、シェーカーを手に取った。氷を入れ、何種類かの液体を注ぐ。その動作は流れるように美しく、無駄がない。
シェーカーを振る音がリズミカルに響く。そして、グラスに注いだ。
「君のために作った。『サンライズ・ミッドナイト』」
涼さんが私の目の前に、グラスを差し出してくれる。中を覗き込んだ瞬間、息を呑んだ。
オレンジとブルーのグラデーション。まるで、夕焼けと夜空が混ざり合ったような色。層になって、美しく揺れている。
「朝と夜が、一緒になってる」
呟く私に、涼さんは優しく微笑んだ。
「そう。朝と夜は、対立するものじゃない。繋がってるんだ」
その言葉が、心に沁み入った。
ずっと朝型が正しいと、夜型は不健康だと決めつけていたけれど、違うのかもしれない。
朝には朝の美しさがあって、夜には夜の美しさがある。どちらが正しいとか、間違っているとか、そういうことじゃないんだ。
「飲んでみて」
涼さんに促され、私はグラスを手に取った。一口飲むと、甘酸っぱくて、でもどこか爽やか。
オレンジの風味と、ブルーキュラソーの香りが口の中で混ざり合う。
「美味しい……」
「良かった。ノンアルコールだから、安心して」
涼さんは、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見て、また胸が跳ねた。
しばらくして、常連のお客さんが何人か入ってきた。みんな、涼さんに親しげに話しかける。
「涼くん、いつもの」
「今日はどんな一日だった?」
涼さんは、一人一人の話を丁寧に聞いている。相槌を打ち、時々笑い、時々真剣な顔で頷く。
この人は、ただお酒を作っているだけじゃない。お客さんの話を聞いて、心を癒している。
私がヨガで心と体を整えるように、涼さんも誰かの心を支えている。
やり方は違うけれど、私たちは同じことをしているんだ。
「ひかり」
お客さんが少し落ち着いた頃、涼さんが私の名前を呼んだ。
「どう? 夜の世界は」
涼さんは、カウンター越しに私の目を見つめる。
「素敵です。私、知らなかった。夜にも、こんなに美しい時間があるなんて」
そう言うと、涼さんは満足そうに頷いた。
その時、また新しいお客さんが入ってきた。
涼さんは「ちょっと待ってて」と言って、接客へ向かった。
私は一人、カウンターに座ったままグラスを見つめる。
オレンジとブルー。朝と夜。この二つの色が、一つのグラスの中で美しく混ざり合っている。
まるで、私と涼さんみたいに。
涼さんは、お客さんと楽しそうに話している。笑顔が、昼間よりも自然だ。
こんな表情、初めて見た。この人は、ここで輝いている。
この場所が、涼さんにとって何よりも大切な時間なんだ。
私がそれを否定していたのは、間違っていた。
涼さんが大切にしているこの夜の世界を、もっと理解したい……そう思った。
そして――私の心臓が、いつもと違う音を立てていることに気づく。
この胸の高鳴りは、何?
「ひかり、お待たせ」
涼さんが戻ってきた。
「もう一杯、作ろうか?」
「あ、いえ、大丈夫です。私、そろそろ帰らないと……」
時計を見ると、もう夜十時を過ぎていた。私にとっては、とっくに就寝時間を過ぎている。
「そっか。送るよ」
「え、でもお店は?」
「スタッフがいるから大丈夫」
店を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。朝の空気とは違う、しっとりとした冷たさ。
「寒くない?」
涼さんが尋ねる。
「大丈夫です」
私は笑顔で答えた。でも、少し寒い。十二月の夜は、思ったより冷える。
すると、涼さんが自分のジャケットを脱いで、私の肩にそっとかけてくれた。
「え……」
「いいから。風邪、ぶり返したら大変だろ」
涼さんの優しさに、また胸が熱くなる。
ジャケットから、涼さんの匂いがする。少しお酒の香りと、石鹸の香り。
マンションまでの道を、二人で歩く。静かな夜道。街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。
「今日は、ありがとうございました」
私は歩きながら言った。
「こちらこそ。君が来てくれて嬉しかった」
涼さんは微笑む。
「夜の世界、少しは理解してもらえた?」
「はい。とても素敵でした。私、夜のことを何も知らないで否定してて……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。お互い、知らない世界があるってことだろ」
涼さんの言葉に、私は頷いた。
ビルに到着し、エレベーターで五階へ。廊下を歩いて、それぞれの部屋の前で立ち止まる。
「今日は、本当に楽しかったです」
私は涼さんに向き直って言った。
「俺も。また来てよ」
「はい」
私たちは見つめ合う。涼さんの目は、優しくて温かい。心臓がドキドキする。
この人と、もっと一緒にいたい。もっと、話したい。もっと――。
「それじゃあ、おやすみ」
涼さんが先に言った。
「おやすみなさい」
私は笑顔で答えて、部屋に入った。
ドアを閉めて、背中をドアに預ける。胸が苦しい。心臓が、激しく鳴っている。
私は、涼さんのことが――好き、なのかもしれない。
窓の外を見ると、夜空に星が輝いている。朝には見えない、夜の星。
綺麗だ。涼さんが毎日見ている景色。
私は、ベッドに横になった。いつもならすぐに眠れるのに、今日は目が冴えている。涼さんの顔が、何度も頭に浮かぶ。
彼の笑顔、優しい目。バーテンダーとして働く姿。全部、かっこよくて。全部、素敵で。
隣の部屋から、涼さんの生活音が聞こえてくる。ドアの開閉音。シャワーの音。
いつもなら「うるさいな」と思っていた音なのに、今日は違う。その音が、愛おしい。
涼さんがすぐ隣にいる。壁一枚隔てた、すぐそばに。
私は、枕に顔を埋めた。
恥ずかしい。まさか、こんな気持ちになるなんて……だけど、もう止められない。
涼さん。私、あなたのことがもっと知りたい。
その時、スマホが鳴った。涼さんからのメッセージだった。
『今日はありがとう。君の笑顔、店が明るくなった。また来てね』
自然と頬がゆるむ。私はすぐに返信した。
『こちらこそ、ありがとうございました。また行きますね。おやすみなさい』
送信ボタンを押して、スマホを胸に抱く。温かい。胸が、こんなにも温かい。
スマホが再び鳴る。涼さんからだった。
『そういえば、ひかりの「朝」をまだ見たことないな。今度、君と一緒に朝日を見せてくれない? 夜型人間が朝を体験するのも、悪くないかもしれない』
「え?」
私は驚いて目を丸くした。
涼さんが、朝の世界に来てくれる?
私のために、生活リズムを変えようとしてくれてる?
嬉しい。すごく嬉しい。
だけど――ふと、不安がよぎる。
夜型の涼さんが、本当に朝早く起きられるの?
それとも、私が夜型にならないといけないの?
私たちは、どうやって一緒にいればいいんだろう。
窓の外の空が、少しずつ明るくなっていく。
朝と夜。正反対の私たち。
でも、きっと――何か、方法があるはず。
そう信じたい。



