「お、ボディコピー、変えてくれたのか!
断然こっちの方が響くな」
「そうね、友崎さんのこういう機転でクォリティがワンランクアップするわ」
褒めてくれるクライアント。認めてくれる上司。
何もかもうまくいって、笑みがこぼれる私。
……でも、これは夢の中の私。
そう。現実はその逆だ。
「あれ、申込方法の説明がブロックごと無くなってるぞ」
「す、すみません!修正して再度アップします……」
クライアントにミスを指摘され、上司にフォローされる私。
よかれと思って加えた『最後のひと手間』が、新たなミスを誘発する。
アルアルな凡ミスだが、これを繰り返してしまう。
余計なことをする上に、詰めが甘い。
痛いほどわかっている、私の欠陥。
仕事だけではない。
「もう、一人でやっていけるから!
お金も口も出さなくていいってば!」
就職先を心配する両親に口ごたえし、ケンカ別れ状態で家を出た。
「あなたみたいに、愛想よく人づきあいするのは無理。放っておいて欲しいの」
つきあい始めた外交的な元彼に向かって、つい口をついて出た言葉。
私のリクエスト通り、彼は私を放っておいてくれた。永久に。
余計な一言。それをフォローできる器用さも勇気もない。
運が悪いとこぼすけれど、そうじゃないことはわかっている。自分が不幸を呼び寄せて増幅させる、負のスパイラル。この澱んだ渦を、私はいつまで回し続けるのだろう。
ただひとつ、私には特殊な才能がある。
それは、ベッドの中でしか発揮されない。
実際に起きたこととは真逆の夢を見ること。冒頭の夢がまさにそれだ。現実の私に代償を与えるかのように、夢の世界だけは幸せに満ちている。
けれど、わかっている。
目が醒めれば地獄の一日が始まることを。
ずっと、夢の続きを見ていたい。もう布団から抜け出すことなく……永遠に。
「ごめんな……無理に俺のペースにつき合わせて。これからはコハルの気持ちを尊重するよ」
そう言って、元彼が手を差し伸べる。
心なしかラベンダーのような香りがして、心の奥底をくすぐった。でも、元彼はそんな香りのフレグランスはつけていなかったはず。
……夢だ。これは夢の中の話だ。
そう自覚した途端、悲しさと恐怖で涙が溢れ出した。それでも、私は彼に向かって手を伸ばさずにはいられない。万に一つ、「これは夢なんかじゃなかった!」って叫べる未来があるかもしれないから。
もふ。
伸ばした手が、何か柔らかいものに触れた。
ぬいぐるみのような感触。でも、この部屋には壁のラックにフクロウのぬいぐるみが鎮座しているだけだ。
もぞもぞ。
う、動いた!?
何かいる!
私が布団をめくって確かめるよりも早く、そいつは顔を突き出し、私をガン見してきた。
驚きで声が出ない。
カーテンから漏れる街灯が映し出したのは、白黒ツートンの顔に、小さくてツヤツヤした黒い目。動いているからには生き物なのだろう。でもなぜ、私のベッドの中に!?
ソイツはさらに顔を近づけてきた。
ペロリ。
「ギャー!!!」
初めて声が出た。その小動物はあろうことか、私の頬を舐めたのだ。
「うんうん、思った通り、なかなかいい味してる」
し、喋った……そうか、これもまだ夢の続きなのだ。だから、もう驚くのはよそう。
「ねえねえ、リリン、起きてこっちにおいでよ」
ソイツは布団の中に顔を戻し、モゴモゴと言った。
「もうウルサイなあ、ギャーとかワーとか……」
布団と一緒に、何かがモゾモゾと私に接近してきた。
小動物の隣りに顔を出したのは、女の子だった。とろんと半分だけ目を開け、眠そうに手でこする。
青銀色の長い髪。同色のまつ毛と瞳。
ふわりと、ラベンダーの香りが漂った。
「あれ、おねえさん、起きちゃった?」
いや起きてない。だってこうやって今、不思議な夢を見てるんだもの。
……でも気になる。一緒に寝ていた、モフモフの小動物と青銀の髪の女の子。
上体を起こすと布団がめくれ、その子の変わった服装が露わになった。髪と同系色のローブを着て、マントで体を覆っている。このまま寝ていたのか?
季節外れのハロウィンパーティーから抜け出してきたみたい。
彼女も私をまねて、上体を起こす。
「ごめんごめん。君が泥のように寝ているので、ボクも眠くなってつい布団に入っちゃった」
「あ、あの。えーっと、あなたは?」
女の子は布団の中を探ってケモミミ型の帽子を被り、服装を整えた。そして、ふわりと浮くようにベッドを降りる。
私はベッドに腰かけ、向き合った。正装の魔女(?)に対するパジャマ姿の自分が、少し恥ずかしい。
「ボクはね、アルメリナ・ラベンダー・リリーネ。リリンって呼んでいいよ」
名は体を表す、じゃなくて香りを表す。名前にラベンダーが入っている。
「おねえさんの名前は?」
「え、あ、ごめん……私は、友崎コハル」
「コハルねえさんか……いい名前」
随分馴れ馴れしい。彼女は物言いも物腰もリアル。夢か現実かを測定するメーターの針が、少しずつ「現実」の方に振れ始めていた。
「り、リリン……ところであなたは何でココにいるのかしら?」
「ああ、一緒に夢探しをしているコイツがね、コハルねえさんの夢に気づいてね」
「夢探し?コイツ?」
疑問を投げかけた瞬間、私の脚がペロンと舐められた。
「どわっ!」
慌てて下を向くと、さっきの白黒ツートンの生き物がいた。
「ああ、わるい。そいつは、獏(バク)のバックンだ」
バックンと呼ばれた生き物がリリンの隣りに並び、彼女はその背中を愛おしそうに撫でた。
「この家の上空を飛んでると、コイツが急降下し始めてさ、食べごたえありそうな夢を見つけたんだって」
そうか。獏は夢を食べるんだっけ……でも。
「確か獏って、悪夢を食べるんじゃなかった?」
「そう、コイツは悪夢が大好物なんだ。でも最近、悪夢不足でね」
「悪夢不足?」
「うん。昔に比べるとだいぶ減ったんだ」
「それって、みんな幸せになったってこと?」
「いや、逆だと思うよ。君だってそうだろ?」
確かに。日中が悪夢みたいなものだから、それを夢がカバーしている。
リリンは私に至近距離まで顔を近づけると、いきなり私の頬をペロリと舐めた!
「なっ、なによ、いきなり!」
「あはは、ごめん……でもバックンが見立てた通り、おねえさんは美味しい」
「お、美味しい!?」
この魔女、人食い人種なのか?
「それでね、コハルねえさんに契約の提案があるんだ」
「契約?提案?」
「うん。夢と現実を逆転しない?」
「……逆転!?どういうこと?」
「不幸な現実を、幸せな夢と取っ替えっこするんだよ」
「そ、そんなこと、できるわけが……」
「最初に言った通り、ボクは魔女だよ。そんなこと、お茶の子サイサイさ」
古風な言い回しは置いておいて、すぐには信じられない。それに……。
「そうしたら、夜に眠るたび、悪夢ばかり見ることになるよね?」
「そう!そこ。このバックンが悪夢を全部いただいちゃいます」
なんだか訳がわからない。やっぱり、今この状況こそが悪夢なんだろうか。
「どう、三日間お試しでやってみない?気に入らなきゃ、返品可能です!」
「なんか、通販みたいね……いいわ。試してみる。で、どうすればいいの?」
「簡単さ。ボクがちょいちょいと魔法をかけるだけ」
そう言うと魔女っ娘は小さな杖を取り出し、私の頭から足元まで振った。銀色の小さな光の粒が、杖の軌道に沿って舞った。
○
カーテンの隙間から漏れた光に目を醒ます。
どうやら二度寝したようだ。
夕べの出来事を思い出す。やっぱり夢だよね。
ちょっとがっかりしながらベッドから抜け出そうとしたら――魔女のリリンと名乗った女の子が、布団に潜ってスヤスヤと寝ていた。バックンも、テーブルの下で丸まっていた。
私は身支度をし、トーストとハムエッグ、スープの簡単な朝食を用意し――念のためその子の分も作って――さっさと食べて仕事に出かけた。獏は夢を食べるそうだから、朝食は不要だろう。
こうして、女の子と一匹との奇妙なお試し同居生活が始まった。
リリン曰く『愛の……何とかシステム』。何だっけ?
お試し初日。
いろいろとトラブっていた仕事が、私の提案によってうまく回り始めた。
翌日。
同僚がランチに誘ってくれた。
翌々日。
父から電話があった。「元気にしているか?たまには家に帰ってこい」と。
お試し開始から三日目の夜。
リリンと一緒に作ったカレーライスを平らげ、紅茶を飲んでいると、彼女が少しかしこまって話しかけてきた。部屋の中にずっといるのに、律儀にローブとマントを身に着け、帽子まで被っている。バックンは私の膝元でゴロゴロ転がっていた。
「コハルねえさん、この三日間いかがでしたか?」
敬語なのが気味悪い。
「そうね、ちょっとずつだけど、昼間はいいことが起きていて、楽しく過ごせそうな気がしてる」
「それは何よりです……で、お試し期間が過ぎましたが、このあといかがいたしましょうか?」
私はティーカップをソーサーに戻し、この三日間を振り返る。
……そういえば。
「二つ、気になることがあるんだけど」
「なんでしょうか?」
「ちょっと、その喋り方!調子狂っちゃうから普通にして?」
「わかったわかった……で?」
「一つはね、夢を見なくなっちゃったの」
「ああそれね。ホントはコハル、夢を見てるんだけど、コイツが食べちゃってるんだ」
魔女っ娘がバックンの背中をポンポンと叩く。
「そうなんだ。……でね、夜寝ているのに夢を見ないって、なんか味気ないなあって思ったの……今まではいい夢を見ていただけに、贅沢かなあ」
その子はそれには答えなかった。
「もう一つは?」
「リリンから提案された契約のお試しで、昼間の私は幸せになった。バックンも悪夢を食べられて得してる……でも、あなたにとってのメリットは何?」
魔女っ娘はビクッと体を震わせ、オホンと咳払いをした。
「ちょうど今から話そうと思ってたんだ……一つ目の疑問にも関係あるし」
「どういうこと?」
「ボク、魔女って自己紹介したけど、正確には『サキュバス』って種類の魔女なんだ……ねえ、サキュバスって知ってる?」
「え、うん……何となく」
「ボクはね、人と『愛し合う』ことによって、生き永らえているんだ」
「あ、愛し合うって?」
「え……文字通り」
「文字通りって?」
「……もう、恥ずかしいなあ」
まあ、予想はしていたけど。でも疑問がある。
「でもサキュバスって、男の人とするんじゃないの?」
「……そうなんだけど。サキュバスの種族も色々いてね……人間だってそうでしょ?」
彼女は顔を赤らめる。そういうことか。
「そうなの……でも、それって私の二つの疑問とどう関係しているの?」
何となくわかってきたが、少し意地悪して聞いてみる。
魔女っ娘は顔を真っ赤にして、叫ぶように言った。
「コハルが夢を見なくなったかわりに、ボクと愛し合って夜を過ごす。もっと正確に言うと、ボクは君から『愛の雫』をもらって命をつなぐ!」
リリンはそう叫ぶと、膝を抱えて顔をうずめた。ちょっと可愛い。
「あ、愛の雫って?」
「瞳から出る涙とか……」
「それでバックンもリリンも私の涙を舐めて味見したのか。それから『とか……』って他にもあるの?」
「それは、恥ずかしくて言えないのでお察しください」
そんなこと急に言われても……私は正式に契約するか迷った。
「ねえ、『それ』もまずは三日間のお試しにしてもらえる?」
恥を忍んでの、私からの精一杯の提案だ。
「え……いいよ」
魔女っ娘は顔を上げ、恥ずかしそうに、でも少し嬉しそうに微笑んだ。
その夜、彼女は初めてローブを脱いだ。
一緒にお風呂に入る。赤ん坊のように白い玉の肌。意外と凹凸のある体のライン。
そういえばこの子、いったいいくつなんだろう。
洗いっこをして、上がったら互いに髪を乾かす。彼女の青銀色に輝く髪にうっとりした。ドライヤーの風に乗り、ラベンダーの香りが私を包み込む。
部屋の電気を消し、二人で布団に入った時、急に恥ずかしくなった。
初めて会った時とは違い、今の彼女は無防備だ。
獏のバックンは気を遣ってか、部屋にはいない。
彼女はふわりと私を抱き、ゆっくりと唇を重ねてきた。
気持ちよさとともに、絶対的な安らぎを感じる。
唇と指が私の体を優しく撫でる。私も真似をする。
途中で目が合い、お互いに微笑む。
そして、愛し合う。
涙とともに、私から溢れ出るもの。
リリンはまるで子猫がミルクを飲むように、それを舐める。
それは、彼女が生き永らえるために必要なんだとか。
刹那的ではない、永遠に続くような幸福感に包まれ、私は朝まで眠った。
○
『第二のお試し期間』の三日目。
本契約を結ぶかどうか、リリンに返事をしなくてはいけない。
仕事中も迷っていたが、部屋に戻る頃には答えは出ていた。
迷いはない。私は彼女のことを、すごく好きになってしまっていたから。
でも。不安はある。
今やっていることは、あくまでも『契約』だ。
私が悪夢を売って獏は空腹を満たし、私は幸せな日常を手に入れ、その対価としてリリンと愛し合う。
彼女は、自分の命をつなぐために私と一緒にいるだけなんだよね?
『愛し合う』といっても、そこに本当の愛なんかないかもしれない。
この契約が終わったら、リリンはどこかへ行ってしまうのだろうか。
アパートが見えると急に不安になり、急いで鍵を開けた。
部屋の中は暗く、人の気配がなかった。獏の気配もない。
廊下、居間、キッチン、寝室、お風呂場、トイレ……どこにも彼女はいなかった。
居間のソファにバッグを投げ、座り込む。
私の返事を聞くまで、待っていてくれてもいいじゃない。
なんで何も言わないでいなくなっちゃうの?
これこそ最悪の不幸だ。悪夢だ。
暗闇の中でじっと耐える。
……だめ、やっぱり耐えられない!
顔を覆って泣く。泣く。ひたすら泣く。
泣き疲れたころ、ベランダで物音がして窓がガラリと開いた。
ビックリして立ち上がる。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
魔女っ娘リリンはバックンを引き連れ入ってきた。
「ど、どこに行ってたの?」
「ちょっと魔界にショッピングに」
「ショッピング……バカ!」
堪らず彼女を抱きしめた。
「出て行っちゃったかと思ったじゃない!」
「どこにも行かないよ……ちゃんと契約してくれればね」
「……そうよね、これは契約よね。あなたにとってはね。でも、私にとっては」
言葉を続けようとしたが、リリンに遮られた。
「馬鹿だなあ」
「馬鹿って何よ!」
私は口を尖らす。
「ボクがかけた魔法、覚えてる?」
「う、うん」
「で、どうなった?」
「夢と引き換えに、仕事がうまくいった」
「ほかに?」
「同僚と仲良くなれた」
「ほかに?」
「両親とヨリが戻せた」
「じゃあ、まだうまくいってないことってある?」
「……そうね、彼氏に捨てられっぱなし」
「そうだね。それはね、ボクがわざとそうしたんだ。……魔法はかけなかった」
「え、どうして?」
「決まってるじゃん。ボクはコハルが大好きだからさ!」
さらにギュッとリリンを抱きしめた。グエッ、苦しいとか言っているけど構うもんか。私を不安がらせた罰だよ。
抱きしめられながら、リリンは手に持つ包みを上げた。
「魔界に行ってね、パジャマを買ってきたんだ。特製の、お揃いのパジャマ」
「?」
「多分、本契約してくれると思ってさ。そのお祝いにね」
「え、ありがとう」
魔女っ娘が手にした紙袋からは、虹色の光がじんわりと漏れている。
「これを着て、コハルと夢の続きが見たくてさ」
○
「ところで、なんだけど」
ある日。
いつの間にか同居人(同棲人⁉)になったリリンに尋ねる。
「うーん、なーに?」
私と同じ布団で寝ているその子が顔を出す。
「あなたたち二人は足りているのかしら」
「なんのことだろー?」
「あ、あの、その……生きていくために必要なもの」
「ああ、その話か」
魔女っ娘はようやく布団から上半身だけ抜け出してきた。虹色にぼんやり光るパジャマが可愛い。私とお揃いなのが照れる。
「それなら、コハルのが溢れるほど……」
「ちょっ、ちょい待ち!それ以上はいいよ、ストップ!」
「え、わかったの?」
「……うん、足りてるってことでしょ?」
「うん。問題ないよ」
「ならいいけど、バックンの方はどうかしら?」
『夢探し』をしながらリリンと一緒にやってきた獏のバックンは、悪夢を食べて生きる糧としている。
「ああ、そっちも大丈夫。コハルが毎晩恐い夢をみてくれてるから、全然余裕!」
確かにベッドの足元で丸まっている白黒ツートンの謎のイキモノは、余裕を見せてぐっすりと寝ている。
私とリリンとバックンは、こういう微妙なバランスのもと、関係を保っている。
だから、たやすくこの均衡が崩れてしまうのではないかと恐れている。この魔女っ娘さんがどう思っているかは知らないけれど、私にはかけがえのない大切な人なのだ。
「あのね、今日、ボク出かけるんだ」
「え、どこに?」
考えているそばからこの子、不安の種をばら撒いてきた。今まで私が仕事に出かけている間、彼女とバックンは部屋の中で過ごしていた。たまに近所の公園やコンビニに出かけているらしいが。
「仕事を始めるんだ」
「仕事って……お金がいるの?言ってくれれば出すよ」
「そうじゃなくってね、ボクたち種族の天職なんだ」
「?」
スマホのアラームが鳴る。やばい。このままベッドでゴロゴロしながら話していると遅刻する。
私は慌てて支度をし、部屋を飛び出した。
「じゃ、お先にいってきます。出かけるんなら気をつけるのよ」
「わかった。いってらっしゃい」
彼女がどんな仕事を始めるのか気になったが、時間切れだ。
○
その日の夜八時頃。
疲れを背負ったまま部屋に戻ると、リリンはまだ帰っていなかった。うす暗い部屋の床で、バックンが一匹、ゴロゴロと転がって遊んでいた。
ひんやりとした、リリンのいない部屋。
私の胸の中に重くて冷たい液体がにじんできた。
彼女はスマホも持っていない。
つながれない不安が、ボディブローのように効いてくる。
まさか、バックンまで置いて一人でどこかへ行っちゃわないよね?
思わずウルっとしながら見つめると、彼は仰向けのまま小さな黒い目で私を見つめ返した。
「ねえ、リリンがどこにいるか、知ってる?」
バックンはしばらく静止していたが、やがてコクンとうなずいた。この子、たまにしか喋らない。
「お願い……そこに連れていって」
彼はノソノソと玄関に向かった。慌ててあとを追う。
ドアを開けると彼はピョコンと飛び出し、宙に浮いた。スルスルと地上一.五メートルの高さを前に進む。私は離されないように小走りでついていく。
隣駅の方まで連れられてくると、商店街のはずれに風変わりな一軒家があった。
北欧風の少し古ぼけた木造の建物。窓から薄いオレンジの明かりが漏れている。
ドアの上には『アルメリナのアロマショップ』と、舌を噛みそうな店名の看板がかかっていた。
扉が開き、二人組の女性が出てきた。手に手に虹色の手提げ袋を持っている。
バックンはドアの隙間にスッと入っていく。私も彼に続いた。
「いらっしゃいませー」
複数の女性の声が迎えた。彼女たちの制服は、カラフルなストライプのブラウスに、ダークグレーのプリーツスカート。
看板の通り、店内は様々な香りが渾然一体となって漂っている。
「あっ、コハル⁉」
奥の薄紫色のコーナーから声がした。リリンだ。みんなと同じ制服を身につけている。
彼女は駆け寄ってくると、バックンのおでこをコツンと小突いた。
「こら!
あれほど連れてきちゃだめって言ったのに」
いまいち状況がわからないが、リリンはこの場所に私が来ることを望んでいなかったらしい。
「もうすぐお店終わるからさ、『外で』待っててくれるかな?」
「えー!
せっかくだからお店の中をみて回ってもいいでしょ。なんで外?」
「……それは……じゃあ、ボクの売場に来て」
可愛い店員さんは私の手を引いて奥にぐいぐい進む。
そこはラベンダーのコーナーだった。
この一角は、柔らかなラベンダーの香りが漂っている……そうだ、これはリリンの香りだ。
ちょっと照れて頬を染めた彼女は、やや緊張しながら商品の説明をする。
そうか、今日は仕事の初日なんだ。
私はそのたどたどしい説明に頷き、結局、入浴剤とハンドクリームを買って彼女の売り上げに貢献した。
閉店間際に店を出て、リリンを待つ。
「おまたせ!」
リリンが店から飛び出てきた。制服のままだ。
「そんな格好でいいの?」
「うん、他に持ってないし」
返答に困る。服を買ってあげなくちゃ。
「一緒に帰ろう!」
小さな手を私に差し出してきた。ちょっと冷たいその手をとる。
「ねえ、聞いていい?
あのお店は?」
「ボクたちの種族の直営店なんだ」
「へえ、同じ種族でアロマの商品を売っているの?」
「うん、製造から販売まで……あっ、特に妖しいものは入ってないよ!」
「ほんとう?」
私は疑いの目を向け、冗談よと笑う。
「ボクの正式な名前は、『アルメリナ・ラベンダー・リリーネ』。アルメリナは種族の名前でお店の名前。ラベンダーはボクの家系の名前で、歴代の女王の直系なんだ。あ、それでラベンダーのアロマの製造販売を代々担当しているんだ」
さらっと、女王の直系だと言った。
「ねえリリン、ということは、あなたは……」
「ああ、そのうち王位を継ぐときが来るかもね……だから、こっちの世界に来てお店の手伝いをしているのも、見聞を広め王位にふさわしい魔女になるための修行みたいなものなんだ」
「そ、そうなんだ」
驚きとともに、胸の奥を冷たい針が刺したような気分になった。
いずれこの子が、遠いところに行ってしまう。
「ところでリリン、私をあまりあのお店に入れたくないみたいだけど、どうして?」
「えーっとそれは……」
少女は困って下を向く。
「ボクたち一族は、『女の子大好き!』のサキュバスだよ。ちょっとヤバイ子もいて……ほら、カモミールの売り場でニタニタしてた女の子に気がつかなかった?」
「え、そんな子いたっけ?」
「うん……で、とられたらやだなって思ったんだ」
そういうことか。
「それはどういうことかな?『生きる糧』をとられちゃうから?それとも?」
「もう、言わせないでよ!」
魔女っ娘がパシッと手を離した。
そんな二人と一匹が帰る夜道を、風が吹き抜けた。
「寒くなったり、少し暖かくなったり、最近は着るものが難しいね」
「ボクは魔女服の一張羅しか持ってないよ」
「あ、ごめんごめん……よし、今度のお休み、一緒に洋服買いに行こう」
「やった!」
再び手をつなぐ。
「コハル……今夜は、買ってくれた入浴剤で一緒にお風呂に入ろうよ」
「いいけど、いつもそうしてない?」
「今日は特別」
「どうして?」
「……だって、今夜から明日、多分『コハル日和』だよ」
「誰がうまいことを言えと!」
お湯をためた浴槽に薄紫のアロマのボールを放り込み、私たちは秋と冬の間のバスタイムを楽しんだ。
いつまでもブクブクと香りの泡を生み出す入浴剤。
きっと何か妖しい魔法がかかっているに違いない。
○
サキュバスのアルメリナ一族が暮らしている魔界には、その表裏の関係で男性型の夢魔、インキュバスが棲む『シャドウ・エロスワールド』という地域がある。
インキュバスの魔王ノックスは、宮殿の王室で、跡取りのフラゴル王子に婚姻の儀礼について話していた。
「なあフラゴル、我々夢魔の一族はどうやって子孫を遺しているか知っておるだろう?」
「ええお父様、家庭教師のサピア先生から教えていただいております」
ソファに深く腰掛けた美貌の青年――フラゴルは、退屈そうにグラスを揺らした。
「そうか。お主もそろそろ婚姻の儀礼を受けねばならない」
「そうですか。でも契りを結ぶアルメリナ一族の次期王女はまだ子供で、人間世界にて修行中だとうかがっております。まだ早いのでは?」
「わが一族の勢力を考えると、そう悠長なことは言っておれん。一定数の血統を存続させていくためにな……それに、リリーネ王女は、もう十分に子を授かれる時期には来ておる」
「……そうですか。でも父上、私はまだリリーネ王女に一度も会ったことがありません」
「そうだな。ではこうしたらどうか?
お前も修行がてら人間世界に行って、彼女と会ってきてはどうか?」
「……人間界へ?俺がですか?」
「ああ。挨拶がてら見てこい」
フラゴルは鼻を鳴らした。
「ふん。どうせ、脆弱でつまらない生き物たちでしょう。リリーネも、人間ごときに現を抜かして修行とは、酔狂なことだ」
フラゴルは口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「ま、いいでしょう。退屈しのぎに、その『人間界』とやらを覗いてやりますよ。俺の魅力で、その辺の人間女を気絶させないように気をつけないとな」
「ああ……それから、人間世界の誘惑には負けるなよ」
「どういうことでしょうか?」
「あやつらは、魔法も使えない無力な連中だが、侮ってはいかん」
断然こっちの方が響くな」
「そうね、友崎さんのこういう機転でクォリティがワンランクアップするわ」
褒めてくれるクライアント。認めてくれる上司。
何もかもうまくいって、笑みがこぼれる私。
……でも、これは夢の中の私。
そう。現実はその逆だ。
「あれ、申込方法の説明がブロックごと無くなってるぞ」
「す、すみません!修正して再度アップします……」
クライアントにミスを指摘され、上司にフォローされる私。
よかれと思って加えた『最後のひと手間』が、新たなミスを誘発する。
アルアルな凡ミスだが、これを繰り返してしまう。
余計なことをする上に、詰めが甘い。
痛いほどわかっている、私の欠陥。
仕事だけではない。
「もう、一人でやっていけるから!
お金も口も出さなくていいってば!」
就職先を心配する両親に口ごたえし、ケンカ別れ状態で家を出た。
「あなたみたいに、愛想よく人づきあいするのは無理。放っておいて欲しいの」
つきあい始めた外交的な元彼に向かって、つい口をついて出た言葉。
私のリクエスト通り、彼は私を放っておいてくれた。永久に。
余計な一言。それをフォローできる器用さも勇気もない。
運が悪いとこぼすけれど、そうじゃないことはわかっている。自分が不幸を呼び寄せて増幅させる、負のスパイラル。この澱んだ渦を、私はいつまで回し続けるのだろう。
ただひとつ、私には特殊な才能がある。
それは、ベッドの中でしか発揮されない。
実際に起きたこととは真逆の夢を見ること。冒頭の夢がまさにそれだ。現実の私に代償を与えるかのように、夢の世界だけは幸せに満ちている。
けれど、わかっている。
目が醒めれば地獄の一日が始まることを。
ずっと、夢の続きを見ていたい。もう布団から抜け出すことなく……永遠に。
「ごめんな……無理に俺のペースにつき合わせて。これからはコハルの気持ちを尊重するよ」
そう言って、元彼が手を差し伸べる。
心なしかラベンダーのような香りがして、心の奥底をくすぐった。でも、元彼はそんな香りのフレグランスはつけていなかったはず。
……夢だ。これは夢の中の話だ。
そう自覚した途端、悲しさと恐怖で涙が溢れ出した。それでも、私は彼に向かって手を伸ばさずにはいられない。万に一つ、「これは夢なんかじゃなかった!」って叫べる未来があるかもしれないから。
もふ。
伸ばした手が、何か柔らかいものに触れた。
ぬいぐるみのような感触。でも、この部屋には壁のラックにフクロウのぬいぐるみが鎮座しているだけだ。
もぞもぞ。
う、動いた!?
何かいる!
私が布団をめくって確かめるよりも早く、そいつは顔を突き出し、私をガン見してきた。
驚きで声が出ない。
カーテンから漏れる街灯が映し出したのは、白黒ツートンの顔に、小さくてツヤツヤした黒い目。動いているからには生き物なのだろう。でもなぜ、私のベッドの中に!?
ソイツはさらに顔を近づけてきた。
ペロリ。
「ギャー!!!」
初めて声が出た。その小動物はあろうことか、私の頬を舐めたのだ。
「うんうん、思った通り、なかなかいい味してる」
し、喋った……そうか、これもまだ夢の続きなのだ。だから、もう驚くのはよそう。
「ねえねえ、リリン、起きてこっちにおいでよ」
ソイツは布団の中に顔を戻し、モゴモゴと言った。
「もうウルサイなあ、ギャーとかワーとか……」
布団と一緒に、何かがモゾモゾと私に接近してきた。
小動物の隣りに顔を出したのは、女の子だった。とろんと半分だけ目を開け、眠そうに手でこする。
青銀色の長い髪。同色のまつ毛と瞳。
ふわりと、ラベンダーの香りが漂った。
「あれ、おねえさん、起きちゃった?」
いや起きてない。だってこうやって今、不思議な夢を見てるんだもの。
……でも気になる。一緒に寝ていた、モフモフの小動物と青銀の髪の女の子。
上体を起こすと布団がめくれ、その子の変わった服装が露わになった。髪と同系色のローブを着て、マントで体を覆っている。このまま寝ていたのか?
季節外れのハロウィンパーティーから抜け出してきたみたい。
彼女も私をまねて、上体を起こす。
「ごめんごめん。君が泥のように寝ているので、ボクも眠くなってつい布団に入っちゃった」
「あ、あの。えーっと、あなたは?」
女の子は布団の中を探ってケモミミ型の帽子を被り、服装を整えた。そして、ふわりと浮くようにベッドを降りる。
私はベッドに腰かけ、向き合った。正装の魔女(?)に対するパジャマ姿の自分が、少し恥ずかしい。
「ボクはね、アルメリナ・ラベンダー・リリーネ。リリンって呼んでいいよ」
名は体を表す、じゃなくて香りを表す。名前にラベンダーが入っている。
「おねえさんの名前は?」
「え、あ、ごめん……私は、友崎コハル」
「コハルねえさんか……いい名前」
随分馴れ馴れしい。彼女は物言いも物腰もリアル。夢か現実かを測定するメーターの針が、少しずつ「現実」の方に振れ始めていた。
「り、リリン……ところであなたは何でココにいるのかしら?」
「ああ、一緒に夢探しをしているコイツがね、コハルねえさんの夢に気づいてね」
「夢探し?コイツ?」
疑問を投げかけた瞬間、私の脚がペロンと舐められた。
「どわっ!」
慌てて下を向くと、さっきの白黒ツートンの生き物がいた。
「ああ、わるい。そいつは、獏(バク)のバックンだ」
バックンと呼ばれた生き物がリリンの隣りに並び、彼女はその背中を愛おしそうに撫でた。
「この家の上空を飛んでると、コイツが急降下し始めてさ、食べごたえありそうな夢を見つけたんだって」
そうか。獏は夢を食べるんだっけ……でも。
「確か獏って、悪夢を食べるんじゃなかった?」
「そう、コイツは悪夢が大好物なんだ。でも最近、悪夢不足でね」
「悪夢不足?」
「うん。昔に比べるとだいぶ減ったんだ」
「それって、みんな幸せになったってこと?」
「いや、逆だと思うよ。君だってそうだろ?」
確かに。日中が悪夢みたいなものだから、それを夢がカバーしている。
リリンは私に至近距離まで顔を近づけると、いきなり私の頬をペロリと舐めた!
「なっ、なによ、いきなり!」
「あはは、ごめん……でもバックンが見立てた通り、おねえさんは美味しい」
「お、美味しい!?」
この魔女、人食い人種なのか?
「それでね、コハルねえさんに契約の提案があるんだ」
「契約?提案?」
「うん。夢と現実を逆転しない?」
「……逆転!?どういうこと?」
「不幸な現実を、幸せな夢と取っ替えっこするんだよ」
「そ、そんなこと、できるわけが……」
「最初に言った通り、ボクは魔女だよ。そんなこと、お茶の子サイサイさ」
古風な言い回しは置いておいて、すぐには信じられない。それに……。
「そうしたら、夜に眠るたび、悪夢ばかり見ることになるよね?」
「そう!そこ。このバックンが悪夢を全部いただいちゃいます」
なんだか訳がわからない。やっぱり、今この状況こそが悪夢なんだろうか。
「どう、三日間お試しでやってみない?気に入らなきゃ、返品可能です!」
「なんか、通販みたいね……いいわ。試してみる。で、どうすればいいの?」
「簡単さ。ボクがちょいちょいと魔法をかけるだけ」
そう言うと魔女っ娘は小さな杖を取り出し、私の頭から足元まで振った。銀色の小さな光の粒が、杖の軌道に沿って舞った。
○
カーテンの隙間から漏れた光に目を醒ます。
どうやら二度寝したようだ。
夕べの出来事を思い出す。やっぱり夢だよね。
ちょっとがっかりしながらベッドから抜け出そうとしたら――魔女のリリンと名乗った女の子が、布団に潜ってスヤスヤと寝ていた。バックンも、テーブルの下で丸まっていた。
私は身支度をし、トーストとハムエッグ、スープの簡単な朝食を用意し――念のためその子の分も作って――さっさと食べて仕事に出かけた。獏は夢を食べるそうだから、朝食は不要だろう。
こうして、女の子と一匹との奇妙なお試し同居生活が始まった。
リリン曰く『愛の……何とかシステム』。何だっけ?
お試し初日。
いろいろとトラブっていた仕事が、私の提案によってうまく回り始めた。
翌日。
同僚がランチに誘ってくれた。
翌々日。
父から電話があった。「元気にしているか?たまには家に帰ってこい」と。
お試し開始から三日目の夜。
リリンと一緒に作ったカレーライスを平らげ、紅茶を飲んでいると、彼女が少しかしこまって話しかけてきた。部屋の中にずっといるのに、律儀にローブとマントを身に着け、帽子まで被っている。バックンは私の膝元でゴロゴロ転がっていた。
「コハルねえさん、この三日間いかがでしたか?」
敬語なのが気味悪い。
「そうね、ちょっとずつだけど、昼間はいいことが起きていて、楽しく過ごせそうな気がしてる」
「それは何よりです……で、お試し期間が過ぎましたが、このあといかがいたしましょうか?」
私はティーカップをソーサーに戻し、この三日間を振り返る。
……そういえば。
「二つ、気になることがあるんだけど」
「なんでしょうか?」
「ちょっと、その喋り方!調子狂っちゃうから普通にして?」
「わかったわかった……で?」
「一つはね、夢を見なくなっちゃったの」
「ああそれね。ホントはコハル、夢を見てるんだけど、コイツが食べちゃってるんだ」
魔女っ娘がバックンの背中をポンポンと叩く。
「そうなんだ。……でね、夜寝ているのに夢を見ないって、なんか味気ないなあって思ったの……今まではいい夢を見ていただけに、贅沢かなあ」
その子はそれには答えなかった。
「もう一つは?」
「リリンから提案された契約のお試しで、昼間の私は幸せになった。バックンも悪夢を食べられて得してる……でも、あなたにとってのメリットは何?」
魔女っ娘はビクッと体を震わせ、オホンと咳払いをした。
「ちょうど今から話そうと思ってたんだ……一つ目の疑問にも関係あるし」
「どういうこと?」
「ボク、魔女って自己紹介したけど、正確には『サキュバス』って種類の魔女なんだ……ねえ、サキュバスって知ってる?」
「え、うん……何となく」
「ボクはね、人と『愛し合う』ことによって、生き永らえているんだ」
「あ、愛し合うって?」
「え……文字通り」
「文字通りって?」
「……もう、恥ずかしいなあ」
まあ、予想はしていたけど。でも疑問がある。
「でもサキュバスって、男の人とするんじゃないの?」
「……そうなんだけど。サキュバスの種族も色々いてね……人間だってそうでしょ?」
彼女は顔を赤らめる。そういうことか。
「そうなの……でも、それって私の二つの疑問とどう関係しているの?」
何となくわかってきたが、少し意地悪して聞いてみる。
魔女っ娘は顔を真っ赤にして、叫ぶように言った。
「コハルが夢を見なくなったかわりに、ボクと愛し合って夜を過ごす。もっと正確に言うと、ボクは君から『愛の雫』をもらって命をつなぐ!」
リリンはそう叫ぶと、膝を抱えて顔をうずめた。ちょっと可愛い。
「あ、愛の雫って?」
「瞳から出る涙とか……」
「それでバックンもリリンも私の涙を舐めて味見したのか。それから『とか……』って他にもあるの?」
「それは、恥ずかしくて言えないのでお察しください」
そんなこと急に言われても……私は正式に契約するか迷った。
「ねえ、『それ』もまずは三日間のお試しにしてもらえる?」
恥を忍んでの、私からの精一杯の提案だ。
「え……いいよ」
魔女っ娘は顔を上げ、恥ずかしそうに、でも少し嬉しそうに微笑んだ。
その夜、彼女は初めてローブを脱いだ。
一緒にお風呂に入る。赤ん坊のように白い玉の肌。意外と凹凸のある体のライン。
そういえばこの子、いったいいくつなんだろう。
洗いっこをして、上がったら互いに髪を乾かす。彼女の青銀色に輝く髪にうっとりした。ドライヤーの風に乗り、ラベンダーの香りが私を包み込む。
部屋の電気を消し、二人で布団に入った時、急に恥ずかしくなった。
初めて会った時とは違い、今の彼女は無防備だ。
獏のバックンは気を遣ってか、部屋にはいない。
彼女はふわりと私を抱き、ゆっくりと唇を重ねてきた。
気持ちよさとともに、絶対的な安らぎを感じる。
唇と指が私の体を優しく撫でる。私も真似をする。
途中で目が合い、お互いに微笑む。
そして、愛し合う。
涙とともに、私から溢れ出るもの。
リリンはまるで子猫がミルクを飲むように、それを舐める。
それは、彼女が生き永らえるために必要なんだとか。
刹那的ではない、永遠に続くような幸福感に包まれ、私は朝まで眠った。
○
『第二のお試し期間』の三日目。
本契約を結ぶかどうか、リリンに返事をしなくてはいけない。
仕事中も迷っていたが、部屋に戻る頃には答えは出ていた。
迷いはない。私は彼女のことを、すごく好きになってしまっていたから。
でも。不安はある。
今やっていることは、あくまでも『契約』だ。
私が悪夢を売って獏は空腹を満たし、私は幸せな日常を手に入れ、その対価としてリリンと愛し合う。
彼女は、自分の命をつなぐために私と一緒にいるだけなんだよね?
『愛し合う』といっても、そこに本当の愛なんかないかもしれない。
この契約が終わったら、リリンはどこかへ行ってしまうのだろうか。
アパートが見えると急に不安になり、急いで鍵を開けた。
部屋の中は暗く、人の気配がなかった。獏の気配もない。
廊下、居間、キッチン、寝室、お風呂場、トイレ……どこにも彼女はいなかった。
居間のソファにバッグを投げ、座り込む。
私の返事を聞くまで、待っていてくれてもいいじゃない。
なんで何も言わないでいなくなっちゃうの?
これこそ最悪の不幸だ。悪夢だ。
暗闇の中でじっと耐える。
……だめ、やっぱり耐えられない!
顔を覆って泣く。泣く。ひたすら泣く。
泣き疲れたころ、ベランダで物音がして窓がガラリと開いた。
ビックリして立ち上がる。
「ごめんごめん、遅くなっちゃった」
魔女っ娘リリンはバックンを引き連れ入ってきた。
「ど、どこに行ってたの?」
「ちょっと魔界にショッピングに」
「ショッピング……バカ!」
堪らず彼女を抱きしめた。
「出て行っちゃったかと思ったじゃない!」
「どこにも行かないよ……ちゃんと契約してくれればね」
「……そうよね、これは契約よね。あなたにとってはね。でも、私にとっては」
言葉を続けようとしたが、リリンに遮られた。
「馬鹿だなあ」
「馬鹿って何よ!」
私は口を尖らす。
「ボクがかけた魔法、覚えてる?」
「う、うん」
「で、どうなった?」
「夢と引き換えに、仕事がうまくいった」
「ほかに?」
「同僚と仲良くなれた」
「ほかに?」
「両親とヨリが戻せた」
「じゃあ、まだうまくいってないことってある?」
「……そうね、彼氏に捨てられっぱなし」
「そうだね。それはね、ボクがわざとそうしたんだ。……魔法はかけなかった」
「え、どうして?」
「決まってるじゃん。ボクはコハルが大好きだからさ!」
さらにギュッとリリンを抱きしめた。グエッ、苦しいとか言っているけど構うもんか。私を不安がらせた罰だよ。
抱きしめられながら、リリンは手に持つ包みを上げた。
「魔界に行ってね、パジャマを買ってきたんだ。特製の、お揃いのパジャマ」
「?」
「多分、本契約してくれると思ってさ。そのお祝いにね」
「え、ありがとう」
魔女っ娘が手にした紙袋からは、虹色の光がじんわりと漏れている。
「これを着て、コハルと夢の続きが見たくてさ」
○
「ところで、なんだけど」
ある日。
いつの間にか同居人(同棲人⁉)になったリリンに尋ねる。
「うーん、なーに?」
私と同じ布団で寝ているその子が顔を出す。
「あなたたち二人は足りているのかしら」
「なんのことだろー?」
「あ、あの、その……生きていくために必要なもの」
「ああ、その話か」
魔女っ娘はようやく布団から上半身だけ抜け出してきた。虹色にぼんやり光るパジャマが可愛い。私とお揃いなのが照れる。
「それなら、コハルのが溢れるほど……」
「ちょっ、ちょい待ち!それ以上はいいよ、ストップ!」
「え、わかったの?」
「……うん、足りてるってことでしょ?」
「うん。問題ないよ」
「ならいいけど、バックンの方はどうかしら?」
『夢探し』をしながらリリンと一緒にやってきた獏のバックンは、悪夢を食べて生きる糧としている。
「ああ、そっちも大丈夫。コハルが毎晩恐い夢をみてくれてるから、全然余裕!」
確かにベッドの足元で丸まっている白黒ツートンの謎のイキモノは、余裕を見せてぐっすりと寝ている。
私とリリンとバックンは、こういう微妙なバランスのもと、関係を保っている。
だから、たやすくこの均衡が崩れてしまうのではないかと恐れている。この魔女っ娘さんがどう思っているかは知らないけれど、私にはかけがえのない大切な人なのだ。
「あのね、今日、ボク出かけるんだ」
「え、どこに?」
考えているそばからこの子、不安の種をばら撒いてきた。今まで私が仕事に出かけている間、彼女とバックンは部屋の中で過ごしていた。たまに近所の公園やコンビニに出かけているらしいが。
「仕事を始めるんだ」
「仕事って……お金がいるの?言ってくれれば出すよ」
「そうじゃなくってね、ボクたち種族の天職なんだ」
「?」
スマホのアラームが鳴る。やばい。このままベッドでゴロゴロしながら話していると遅刻する。
私は慌てて支度をし、部屋を飛び出した。
「じゃ、お先にいってきます。出かけるんなら気をつけるのよ」
「わかった。いってらっしゃい」
彼女がどんな仕事を始めるのか気になったが、時間切れだ。
○
その日の夜八時頃。
疲れを背負ったまま部屋に戻ると、リリンはまだ帰っていなかった。うす暗い部屋の床で、バックンが一匹、ゴロゴロと転がって遊んでいた。
ひんやりとした、リリンのいない部屋。
私の胸の中に重くて冷たい液体がにじんできた。
彼女はスマホも持っていない。
つながれない不安が、ボディブローのように効いてくる。
まさか、バックンまで置いて一人でどこかへ行っちゃわないよね?
思わずウルっとしながら見つめると、彼は仰向けのまま小さな黒い目で私を見つめ返した。
「ねえ、リリンがどこにいるか、知ってる?」
バックンはしばらく静止していたが、やがてコクンとうなずいた。この子、たまにしか喋らない。
「お願い……そこに連れていって」
彼はノソノソと玄関に向かった。慌ててあとを追う。
ドアを開けると彼はピョコンと飛び出し、宙に浮いた。スルスルと地上一.五メートルの高さを前に進む。私は離されないように小走りでついていく。
隣駅の方まで連れられてくると、商店街のはずれに風変わりな一軒家があった。
北欧風の少し古ぼけた木造の建物。窓から薄いオレンジの明かりが漏れている。
ドアの上には『アルメリナのアロマショップ』と、舌を噛みそうな店名の看板がかかっていた。
扉が開き、二人組の女性が出てきた。手に手に虹色の手提げ袋を持っている。
バックンはドアの隙間にスッと入っていく。私も彼に続いた。
「いらっしゃいませー」
複数の女性の声が迎えた。彼女たちの制服は、カラフルなストライプのブラウスに、ダークグレーのプリーツスカート。
看板の通り、店内は様々な香りが渾然一体となって漂っている。
「あっ、コハル⁉」
奥の薄紫色のコーナーから声がした。リリンだ。みんなと同じ制服を身につけている。
彼女は駆け寄ってくると、バックンのおでこをコツンと小突いた。
「こら!
あれほど連れてきちゃだめって言ったのに」
いまいち状況がわからないが、リリンはこの場所に私が来ることを望んでいなかったらしい。
「もうすぐお店終わるからさ、『外で』待っててくれるかな?」
「えー!
せっかくだからお店の中をみて回ってもいいでしょ。なんで外?」
「……それは……じゃあ、ボクの売場に来て」
可愛い店員さんは私の手を引いて奥にぐいぐい進む。
そこはラベンダーのコーナーだった。
この一角は、柔らかなラベンダーの香りが漂っている……そうだ、これはリリンの香りだ。
ちょっと照れて頬を染めた彼女は、やや緊張しながら商品の説明をする。
そうか、今日は仕事の初日なんだ。
私はそのたどたどしい説明に頷き、結局、入浴剤とハンドクリームを買って彼女の売り上げに貢献した。
閉店間際に店を出て、リリンを待つ。
「おまたせ!」
リリンが店から飛び出てきた。制服のままだ。
「そんな格好でいいの?」
「うん、他に持ってないし」
返答に困る。服を買ってあげなくちゃ。
「一緒に帰ろう!」
小さな手を私に差し出してきた。ちょっと冷たいその手をとる。
「ねえ、聞いていい?
あのお店は?」
「ボクたちの種族の直営店なんだ」
「へえ、同じ種族でアロマの商品を売っているの?」
「うん、製造から販売まで……あっ、特に妖しいものは入ってないよ!」
「ほんとう?」
私は疑いの目を向け、冗談よと笑う。
「ボクの正式な名前は、『アルメリナ・ラベンダー・リリーネ』。アルメリナは種族の名前でお店の名前。ラベンダーはボクの家系の名前で、歴代の女王の直系なんだ。あ、それでラベンダーのアロマの製造販売を代々担当しているんだ」
さらっと、女王の直系だと言った。
「ねえリリン、ということは、あなたは……」
「ああ、そのうち王位を継ぐときが来るかもね……だから、こっちの世界に来てお店の手伝いをしているのも、見聞を広め王位にふさわしい魔女になるための修行みたいなものなんだ」
「そ、そうなんだ」
驚きとともに、胸の奥を冷たい針が刺したような気分になった。
いずれこの子が、遠いところに行ってしまう。
「ところでリリン、私をあまりあのお店に入れたくないみたいだけど、どうして?」
「えーっとそれは……」
少女は困って下を向く。
「ボクたち一族は、『女の子大好き!』のサキュバスだよ。ちょっとヤバイ子もいて……ほら、カモミールの売り場でニタニタしてた女の子に気がつかなかった?」
「え、そんな子いたっけ?」
「うん……で、とられたらやだなって思ったんだ」
そういうことか。
「それはどういうことかな?『生きる糧』をとられちゃうから?それとも?」
「もう、言わせないでよ!」
魔女っ娘がパシッと手を離した。
そんな二人と一匹が帰る夜道を、風が吹き抜けた。
「寒くなったり、少し暖かくなったり、最近は着るものが難しいね」
「ボクは魔女服の一張羅しか持ってないよ」
「あ、ごめんごめん……よし、今度のお休み、一緒に洋服買いに行こう」
「やった!」
再び手をつなぐ。
「コハル……今夜は、買ってくれた入浴剤で一緒にお風呂に入ろうよ」
「いいけど、いつもそうしてない?」
「今日は特別」
「どうして?」
「……だって、今夜から明日、多分『コハル日和』だよ」
「誰がうまいことを言えと!」
お湯をためた浴槽に薄紫のアロマのボールを放り込み、私たちは秋と冬の間のバスタイムを楽しんだ。
いつまでもブクブクと香りの泡を生み出す入浴剤。
きっと何か妖しい魔法がかかっているに違いない。
○
サキュバスのアルメリナ一族が暮らしている魔界には、その表裏の関係で男性型の夢魔、インキュバスが棲む『シャドウ・エロスワールド』という地域がある。
インキュバスの魔王ノックスは、宮殿の王室で、跡取りのフラゴル王子に婚姻の儀礼について話していた。
「なあフラゴル、我々夢魔の一族はどうやって子孫を遺しているか知っておるだろう?」
「ええお父様、家庭教師のサピア先生から教えていただいております」
ソファに深く腰掛けた美貌の青年――フラゴルは、退屈そうにグラスを揺らした。
「そうか。お主もそろそろ婚姻の儀礼を受けねばならない」
「そうですか。でも契りを結ぶアルメリナ一族の次期王女はまだ子供で、人間世界にて修行中だとうかがっております。まだ早いのでは?」
「わが一族の勢力を考えると、そう悠長なことは言っておれん。一定数の血統を存続させていくためにな……それに、リリーネ王女は、もう十分に子を授かれる時期には来ておる」
「……そうですか。でも父上、私はまだリリーネ王女に一度も会ったことがありません」
「そうだな。ではこうしたらどうか?
お前も修行がてら人間世界に行って、彼女と会ってきてはどうか?」
「……人間界へ?俺がですか?」
「ああ。挨拶がてら見てこい」
フラゴルは鼻を鳴らした。
「ふん。どうせ、脆弱でつまらない生き物たちでしょう。リリーネも、人間ごときに現を抜かして修行とは、酔狂なことだ」
フラゴルは口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「ま、いいでしょう。退屈しのぎに、その『人間界』とやらを覗いてやりますよ。俺の魅力で、その辺の人間女を気絶させないように気をつけないとな」
「ああ……それから、人間世界の誘惑には負けるなよ」
「どういうことでしょうか?」
「あやつらは、魔法も使えない無力な連中だが、侮ってはいかん」



