結局、忍が二十四歳のときに夫との離婚が成立した。
いぶきの四歳の誕生日が過ぎてすぐのある日。夫の不倫相手が忍のもとに乗り込んできたのだ。相手は、忍たちの結婚式で忍にヘアメイクをしてくれた先輩だった。
「お願い、彼と別れて。子どもが出来たの」
そう訴える彼女は真剣だった。この子には父親が必要なのだと。
「なら、うちの子には父親がいなくてもいいと?」
単純な疑問として忍がそう聞いたとき、彼女はショックを受けたような顔をした。
先輩はそのとき初めて、いぶきが彼の子であることを現実のものとして認識したのだという。
彼が既婚者で、その結婚式にも参加していた先輩。その花嫁のヘアメイクもしたのに。
忍がつわりで苦しんた時期もお腹が大きかった頃も見てるのに――。彼が店に子どもを連れて行ってたのに。
でもなぜか、わかっていなかったのだ。
夫は口がうまくて外面がいい男だったから、いいように吹き込まれていたのはすぐに分かった。忍としては、心のどこかで彼女を救世主とも感じていたが、それでもやはり裏切られた気持ちは否めなかった。
「忍さん、本当にすまない」
舅と姑に泣かれた。
こんないい人たちから、あんな息子が生まれるんだと不思議だった。
夫は離婚にぎりぎりまでごねたが、先輩は生まれてくる子のためにと謝罪したうえで、きっちり慰謝料を払ってくれた。
元夫からの養育費は、舅が一括で払ってくれた。返済は息子にさせると書類まできっちり用意して。
「いいから受け取りなさい。いぶきの権利だ」
「お義父さん」
どうして自分は、この人たちの記憶も残すように言わなかったのだろう。
こんなにいぶきを愛してくれたのに。いぶきもおじいちゃんおばあちゃんが大好きなのに。
どうしていぶきは、いつか消えてしまう子なのだろう。
――でも本当は、どの人だって同じことなのかもしれない。
この子が消えたとき、すべてつじつまが合うようになることを信じ、養育費は受け取った。本当に必要になる日まで、決して手を付けることはしないと決めて。
――願わくば、この人たちに幸せだった気持ちだけは残りますように。
ちょうどそのころ、忍の父の転勤が決まった。父の会社がある市の隣が母の地元だったこともあり、忍もそちらに引っ越すことにした。新しい生活は、新しい土地のほうがきっとふさわしい。
「いぶちゃん、お友達とお別れ寂しいね。ごめんね」
幼稚園でたくさんのお友達がいた娘は、幼いなりに何かわかっていたのだろう。「大丈夫」といつも以上にニコニコして、決して駄々をこねたり泣かないことが申し訳なかった。
「いぶきのお名前、さくらいぶきになるの?」
佐倉は忍の旧姓だ。
「そう。佐倉いぶきになったのよ。新しい幼稚園では佐倉いぶきちゃんって呼ばれるの」
「そっかあ。へへ。なんだかお嫁さんになったみたい」
「お嫁さんか! じゃあ、いぶきはじいじのお嫁さんになるか?」
父がデレッとしながらいぶきにそう声をかけると、娘はフルフルと首を振りお友達の名前を挙げ、結婚はその彼と約束してるんだよーと笑った。
「なんだ、いぶきにはもう彼氏がいるのか」
「うん!」
でも、その仲良しの男の子ともさよならなのだ。
「ちゃんとバイバイした?」
「うん!」
「えらかったね。もう大きなお姉さんだね」
「うん!」
――――ごめんね。
忍にとって長くもないが短いとも言えなかった結婚生活の終止符が、失望と共に小さな棘のような痛みを伴っていたことに気づいたのは、それから少し経ってからだった。
いぶきの四歳の誕生日が過ぎてすぐのある日。夫の不倫相手が忍のもとに乗り込んできたのだ。相手は、忍たちの結婚式で忍にヘアメイクをしてくれた先輩だった。
「お願い、彼と別れて。子どもが出来たの」
そう訴える彼女は真剣だった。この子には父親が必要なのだと。
「なら、うちの子には父親がいなくてもいいと?」
単純な疑問として忍がそう聞いたとき、彼女はショックを受けたような顔をした。
先輩はそのとき初めて、いぶきが彼の子であることを現実のものとして認識したのだという。
彼が既婚者で、その結婚式にも参加していた先輩。その花嫁のヘアメイクもしたのに。
忍がつわりで苦しんた時期もお腹が大きかった頃も見てるのに――。彼が店に子どもを連れて行ってたのに。
でもなぜか、わかっていなかったのだ。
夫は口がうまくて外面がいい男だったから、いいように吹き込まれていたのはすぐに分かった。忍としては、心のどこかで彼女を救世主とも感じていたが、それでもやはり裏切られた気持ちは否めなかった。
「忍さん、本当にすまない」
舅と姑に泣かれた。
こんないい人たちから、あんな息子が生まれるんだと不思議だった。
夫は離婚にぎりぎりまでごねたが、先輩は生まれてくる子のためにと謝罪したうえで、きっちり慰謝料を払ってくれた。
元夫からの養育費は、舅が一括で払ってくれた。返済は息子にさせると書類まできっちり用意して。
「いいから受け取りなさい。いぶきの権利だ」
「お義父さん」
どうして自分は、この人たちの記憶も残すように言わなかったのだろう。
こんなにいぶきを愛してくれたのに。いぶきもおじいちゃんおばあちゃんが大好きなのに。
どうしていぶきは、いつか消えてしまう子なのだろう。
――でも本当は、どの人だって同じことなのかもしれない。
この子が消えたとき、すべてつじつまが合うようになることを信じ、養育費は受け取った。本当に必要になる日まで、決して手を付けることはしないと決めて。
――願わくば、この人たちに幸せだった気持ちだけは残りますように。
ちょうどそのころ、忍の父の転勤が決まった。父の会社がある市の隣が母の地元だったこともあり、忍もそちらに引っ越すことにした。新しい生活は、新しい土地のほうがきっとふさわしい。
「いぶちゃん、お友達とお別れ寂しいね。ごめんね」
幼稚園でたくさんのお友達がいた娘は、幼いなりに何かわかっていたのだろう。「大丈夫」といつも以上にニコニコして、決して駄々をこねたり泣かないことが申し訳なかった。
「いぶきのお名前、さくらいぶきになるの?」
佐倉は忍の旧姓だ。
「そう。佐倉いぶきになったのよ。新しい幼稚園では佐倉いぶきちゃんって呼ばれるの」
「そっかあ。へへ。なんだかお嫁さんになったみたい」
「お嫁さんか! じゃあ、いぶきはじいじのお嫁さんになるか?」
父がデレッとしながらいぶきにそう声をかけると、娘はフルフルと首を振りお友達の名前を挙げ、結婚はその彼と約束してるんだよーと笑った。
「なんだ、いぶきにはもう彼氏がいるのか」
「うん!」
でも、その仲良しの男の子ともさよならなのだ。
「ちゃんとバイバイした?」
「うん!」
「えらかったね。もう大きなお姉さんだね」
「うん!」
――――ごめんね。
忍にとって長くもないが短いとも言えなかった結婚生活の終止符が、失望と共に小さな棘のような痛みを伴っていたことに気づいたのは、それから少し経ってからだった。



