翌朝、私は社長室に呼ばれた。
周囲の好奇の視線と悪意を浴びながら、四十五階の社長室へ。
「失礼します」
ノックして入ると、床から天井までのガラス窓から東京の街が一望できた。蓮は巨大なデスクに座り、書類に目を通していた。
「月島澪」
名前を呼ばれて背筋が伸びる。
「昨夜の香水について聞きたい」
彼は書類から目を上げず、淡々と続ける。
「あれを量産できるか?」
「……できません」
「なぜ?」
「私にしか作れないから」
沈黙。蓮がゆっくりと顔を上げた。
「詳しく説明しろ」
逃げ場はない。私は意を決して口を開いた。
「私には……人の悪意が、匂いとして嗅げるんです」
蓮の表情は変わらない。
「嫉妬、憎悪、殺意。それらが腐臭や刺激臭として感じられます。そして、その悪意の構造を分析して、香料の組み合わせに置き換えることができる」
「つまり、悪意を香水に変換する」
「……はい」
「なるほど」
蓮は立ち上がり、窓際に歩いていった。
「俺も似たようなものだ」
振り返った彼の目に、初めて人間的な感情が宿った。
「俺は幼い頃から、異常に鋭い嗅覚を持っていた。人の嘘、欲望、媚び――全てが匂いとして分かる。だから人間が嫌いになった」
彼は私を見る。
「でも、お前は違った。お前の周りだけ、嘘も欲望もない。ただ透明な静けさがあった」
一歩近づく。
「そして昨夜の香水。あれを嗅いだ時、俺は十年ぶりに深く眠れた」
「え……?」
「俺は重度の不眠症だ。嗅覚が鋭すぎて、都市の雑多な匂いで眠れない。睡眠薬も効かず、月に数日しか眠れない」
蓮は私の目を見据えた。
「お前の香水は、俺の不眠症を治す。だから、提案がある」
デスクから契約書を取り出す。
「契約結婚だ」
「……は?」
「お前は俺の妻として俺のそばにいる。俺はお前に衣食住と安全を保障する。期間は一年。それ以降の延長は双方の合意による」
頭が追いつかない。
「な、なぜ私を……」
「お前の香水が必要だからだ。それ以上の理由が必要か?」
冷徹な言葉。でも、そのほうが分かりやすかった。
人の善意が信じられない。でも契約なら、裏切りも想定内。
「条件があります」
「言え」
「私の過去を詮索しないでください。そして……西園寺巧という男から、守ってください」
蓮の目が鋭くなった。
「……分かった」
契約書にサインする。婚姻届も。
気づけば、私は一条蓮の妻になっていた。
周囲の好奇の視線と悪意を浴びながら、四十五階の社長室へ。
「失礼します」
ノックして入ると、床から天井までのガラス窓から東京の街が一望できた。蓮は巨大なデスクに座り、書類に目を通していた。
「月島澪」
名前を呼ばれて背筋が伸びる。
「昨夜の香水について聞きたい」
彼は書類から目を上げず、淡々と続ける。
「あれを量産できるか?」
「……できません」
「なぜ?」
「私にしか作れないから」
沈黙。蓮がゆっくりと顔を上げた。
「詳しく説明しろ」
逃げ場はない。私は意を決して口を開いた。
「私には……人の悪意が、匂いとして嗅げるんです」
蓮の表情は変わらない。
「嫉妬、憎悪、殺意。それらが腐臭や刺激臭として感じられます。そして、その悪意の構造を分析して、香料の組み合わせに置き換えることができる」
「つまり、悪意を香水に変換する」
「……はい」
「なるほど」
蓮は立ち上がり、窓際に歩いていった。
「俺も似たようなものだ」
振り返った彼の目に、初めて人間的な感情が宿った。
「俺は幼い頃から、異常に鋭い嗅覚を持っていた。人の嘘、欲望、媚び――全てが匂いとして分かる。だから人間が嫌いになった」
彼は私を見る。
「でも、お前は違った。お前の周りだけ、嘘も欲望もない。ただ透明な静けさがあった」
一歩近づく。
「そして昨夜の香水。あれを嗅いだ時、俺は十年ぶりに深く眠れた」
「え……?」
「俺は重度の不眠症だ。嗅覚が鋭すぎて、都市の雑多な匂いで眠れない。睡眠薬も効かず、月に数日しか眠れない」
蓮は私の目を見据えた。
「お前の香水は、俺の不眠症を治す。だから、提案がある」
デスクから契約書を取り出す。
「契約結婚だ」
「……は?」
「お前は俺の妻として俺のそばにいる。俺はお前に衣食住と安全を保障する。期間は一年。それ以降の延長は双方の合意による」
頭が追いつかない。
「な、なぜ私を……」
「お前の香水が必要だからだ。それ以上の理由が必要か?」
冷徹な言葉。でも、そのほうが分かりやすかった。
人の善意が信じられない。でも契約なら、裏切りも想定内。
「条件があります」
「言え」
「私の過去を詮索しないでください。そして……西園寺巧という男から、守ってください」
蓮の目が鋭くなった。
「……分かった」
契約書にサインする。婚姻届も。
気づけば、私は一条蓮の妻になっていた。


