悪意を香る調香師は、氷の社長に溺愛される

月曜の朝、私は地獄の匂いを嗅いでいた。
午前八時五十分。満員のエレベーターは拷問部屋だ。鼻を突くのは汗でも整髪料でもない。もっと粘着質で、胃が裏返るような悪臭。
斜め前の男性からは腐った魚の生臭さ。週末のゴルフでミスした上司への憎悪。背後の女性からは酸っぱい刺激臭。同期の昇進への嫉妬。
私の名前は月島澪。二十六歳。中堅化粧品会社「ローブ・ボーテ」の経理事務員。
そして――人の悪意が匂いとして嗅げる、化け物。
黒マスクを引き上げ、視線を落とす。人々から立ち上る黒い靄が見える。この靄を吸い続けると頭痛と吐き気に襲われる。だから呼吸を浅くし、気配を消して生きている。
チン、と軽い音。十階到着。扉が開いた瞬間、新鮮な空気が流れ込む。
「おはよう、月島さん。今日もマスク?」
すれ違う総務部の女性。口元は笑っているが、カビた古紙のような侮蔑の匂い。――暗い女。見てるだけで気が滅入る。そんな心の声が匂いで伝わってくる。
「おはようございます」
小さく会釈し、デスクに滑り込む。パソコンを起動し、数字と向き合う。数字はいい。数字には悪意がない。この無機質な世界だけが聖域だった。
だが今日はいつも以上に臭い。原因は午後の臨時会議。経営不振で外資ファンドに買収された我が社に、新社長が来る。
「新社長、ガチでイケメンらしいよ」 「でも『氷の皇帝』って呼ばれてんでしょ? リストラ来るって」 「マジ怖い……」
期待と不安。野心と恐怖。オフィス全体がドブ川のような濁った臭気に包まれている。
頭が痛い。早く帰りたい。帰って、あの作業がしたい。
バッグの中の小さなガラス瓶を確かめる。それだけが私を正気に繋ぎ止める命綱。

午後一時。大会議室。
全社員三百名が集まった会場は熱気と悪臭で充満していた。私は最後列で壁の花のように縮こまる。
「新代表取締役社長、一条蓮様です」
壇上の扉が開く。一瞬、空気が凍った。
長身の男。仕立ての良いダークスーツを完璧に着こなし、漆黒の髪をオールバックに。整いすぎた顔立ちは精巧な彫刻のようだが、灰色の瞳に人間的な温かみは一切ない。
一条蓮。三十二歳。数々の企業を買収し再生させてきた若きカリスマ。
彼がマイクの前に立つと、温度が数度下がった気がした。
「一条だ」
低くよく響くバリトン。彼は会場を見渡し、わずかに眉をひそめ、不快そうに鼻を鳴らした。
「単刀直入に言う。この会社は腐っている」
衝撃的な第一声。
「ぬるま湯に浸かり、変化を恐れ、足を引っ張り合う。無駄にエネルギーを使う暇があるなら手を動かせ」
どよめき。社員たちの悪意の靄が濃くなる。焦げたゴム。腐った卵。
私はハンカチで口を押さえた。臭い。息ができない。
蓮は悪意の奔流を前にしても眉一つ動かさず、軽蔑を深めて言い放つ。
「結果を出せない者は即刻去れ。必要なのはプロフェッショナルだけだ。以上」
三分で終わった挨拶。彼は踵を返して降りていく。残された社員は呆然とし、やがて怒りと不安を爆発させた。
吐き気を堪えて会場を飛び出す。これ以上いたら汚染される。非常階段へ向かおうと廊下を急ぐ。
角を曲がった先で、誰かとぶつかりそうになった。
「――っと」
目の前にいたのは一条蓮だった。秘書と話しながら歩いていたようだが、私を見て足を止めた。
「申し訳ありません!」
反射的に頭を下げ、壁際に避ける。目立ってはいけない。怒らせてはいけない。
だが彼は通り過ぎず、私の前でぴたりと止まった。
「……おい」
頭上から降る声に心臓が跳ねる。恐る恐る顔を上げると、アイスグレーの瞳が至近距離で見下ろしていた。彼は不思議そうに目を細め、スン、と鼻を鳴らした。
「君、何も匂わないな」
「え?」
予想外の言葉に間抜けな声が出た。
蓮は一歩近づいた。整った顔が近づく。息を止める。
「このオフィスはどこもかしこも欲望と保身の悪臭で充満している。だが君の周りだけ、真空のように静かだ」
独り言のように呟き、私の目を覗き込む。
「名前は?」
「……月島、澪です」
「月島澪」
一度だけ復唱し、小さく頷いた。
「覚えた」
それだけ言い残し、再び歩き出す。秘書の女性が会釈して後を追う。
私はその場に立ち尽くした。
今のは何だったのか。彼も何かを嗅いでいるのか。そして何より――
彼から悪意の匂いがしなかった。
冷徹で傲慢で人の心を切り捨てるような男なのに、腐臭が一切しなかった。代わりに漂っていたのは凍てついた湖のような、冷たく透明な孤独の香り。
ドクン。
胸の奥が小さく鳴った。私は首を振ってその感覚を振り払う。
関わってはいけない。あんな雲の上の存在と、私のような化け物が。

その日の残業は地獄だった。新社長への不満が充満するオフィス。頭痛薬を飲み込みながら必死で伝票を処理した。
午後九時。ようやく人が減り、空気が軽くなった頃、誰もいない給湯室に逃げ込んだ。
震える手でバッグを開け、小さなアトマイザーを取り出す。中身は無色透明な液体。昨夜作った香水だ。
材料は――隣人の騒音トラブルに対する殺意。
隣人が発していた強烈な悪意を脳内で分解し、再構築し、香料に置き換えた。殺意特有の鉄錆のような臭気を、スパイシーなクローブとブラックペッパーで表現し、鎮静のラベンダーと浄化のセージを掛け合わせた。
シュッ。
手首に一吹きし、鼻を近づける。深く息を吸い込む。
ああ。
脳髄が痺れるような、深く重く静謐な香り。毒を薬に変える。醜い悪意を美しい香りに昇華させる。
それが私に唯一残された才能であり、生きるための儀式だった。この香りを嗅ぐ時だけ、私は化け物ではなく、何か意味のある存在になれた気がする。
「いい匂いだ」
不意に背後から声がした。心臓が止まるかと思った。
バッと振り返ると、給湯室の入り口に一条蓮が立っていた。ジャケットを脱ぎ、シャツのボタンを一つ外している。顔には隠しきれない疲労の色。
「しゃ、社長……!?」
慌てて香水瓶を背中に隠す。見られた。嗅がれた。
だが蓮の様子がおかしい。夢遊病者のようにふらりと近づいてくる。瞳は私ではなく、私の手首――香りの発生源に釘付けだ。
「その香り……なんだ?」
「え、あ、これは……」
「嗅いだことがない。静かだ。まるで深海のような」
彼は目の前まで来ると、抵抗する間もなく私の手首を掴んだ。熱い指先。彼は私の手首に顔を寄せ、直接その香りを吸い込んだ。
スゥーッ……。長い、長い深呼吸。
「……っ!」
悲鳴を上げそうになったが声が出ない。近すぎる。彼の黒髪が私の肌に触れる。
息を吐き出した蓮がゆっくりと顔を上げた。その表情を見て息を呑んだ。
冷徹な仮面が剥がれ落ち、そこには砂漠で水を見つけた旅人のような、切実で無防備な表情があった。
「やっと、息ができた」
縋るような目で私を見る。
「君か。この香りを作ったのは」
尋問ではなかった。確信に満ちた運命の確認だった。
給湯室の狭い空間で、私と彼は見つめ合う。私の手首に残る殺意の香りが、二人の間を甘く危険に漂っていた。