先生は静かに、そして淡々と言葉をつないだ。
「今の記憶障害は灯さんの意思によるもので。しかも自然成長的に起きている。止められるものではありません。『いつか普通に戻る』という灯さんの発言も、それがどのような状態を差すのかは灯さんにしか決められないんです」
「じゃあもう元に戻すことは出来ないんですか!?」
朔は自分の膝を何度も拳で殴った。
泣きながら、涙の粒をいくつもその拳に落として。
私は朔を思わず抱きしめて、先生を睨みつけた。
「朔、泣かないで。先生、朔を悲しませないで」
「灯さん、ごめんね。私は君の味方であるけれど、これは医者として朔くんにはどうしても知っておいて欲しいことなんだ」
「先生、お願いです。灯に記憶を返してあげてください。僕はそのためならなんでもやります」
「それは自分が愛されていた記憶を、灯さんから、確かに取り戻したいからですか?」
「違います……! 初めて出会った時、灯のことを雪みたいだって思ったから。灯は、僕の好きな灯は痛みを背負ってもなお、強くいられる。誰かの心に深く刻まれる、雪のように重く、鮮やかに降り積もっていく存在なんです。それを失わせる権利なんて始めから誰にもなかったんです」
先生は全てを悟ったように、優しく微笑んだ。
「君のせいではない。けれどもし記憶を失ったキーが朔くんなら、取り戻すためのキーもやはり君しかいないんだと思います。ただし、私が推測するに灯さんが消せない記憶力を持ったのは、両親の事故による死を目の当たりにしたことが原因です。それは大切な人を二度と失わないための力だった」
「そんなに大事なことなのに……僕は……言ったんです。『灯に合わせてる、重い』ってそんな風に聞こえることを言ってしまったんです」
「後悔してるのですね」
「だから僕は記憶を取り戻した灯にちゃんと謝らなきゃいけないんです」
「理論上、記憶を取り戻せるかもしれない方法はあります。両親が亡くなった時か、それ以上の強い衝撃を灯さんの心に与えることです。忘れてはいけないと、思い知らさせる。そうして記憶が戻ったとしても、その時にまた灯さんはご両親の死を思い出して、苦しむ世界に戻るんです」
「そんな……酷いことを僕にはできません」
「ならこのまま、灯さんの成長を穏やかに見守ることもひとつのあり方だと思いますよ。ただし、今は一日分の記憶は保持できていますが、これがいつまでも続くとは限らない。これからどうなるかは誰にも完全には読めないんです」
「もっと酷くなるかもしれないってことですか」
先生はこくりと頷き、いずれ普通の生活さえできなくなる可能性があること、それだけ私の脳への負荷は普通とは異なっていること、この病気は世界でも希少な症例であることを伝えた。
「朔くんはまだ若い。施設を出れば自活して、本当の意味で自由に生活ができる。今、ここで立ち止まる必要はないんですよ」
「いやです! それでも僕は灯のそばに居たい」
「明日にはこの話をしたことさえ、灯さんは忘れてしまいますよ」
「分かってます。でも、もう灯のいない世界は考えられないんです」
「私は医者として警告します。いくら彼女が特別でもこれ以上深く関わることは、朔くんにとって良くない」
「そんなのは関係ない。僕の人生は僕が決めます」
朔は、先生を睨みつけて今にも襲いかかりそうだった。
私はどうしたらいいのか分からなくて、ハラハラとしていたけれど。
朔がこんなに誰かに対して怒ったり泣いたりするのが、何故か嬉しく感じた。
「朔、ありがと」
たとえ忘れてしまおうとも、とても鮮やかに、胸に刻まれていく。
「朔くん、君にーー」
医者は最後に朔に何かを伝えたけれど、私は忘れてしまった。
きっとそれはとても大事な何かだった。
「今の記憶障害は灯さんの意思によるもので。しかも自然成長的に起きている。止められるものではありません。『いつか普通に戻る』という灯さんの発言も、それがどのような状態を差すのかは灯さんにしか決められないんです」
「じゃあもう元に戻すことは出来ないんですか!?」
朔は自分の膝を何度も拳で殴った。
泣きながら、涙の粒をいくつもその拳に落として。
私は朔を思わず抱きしめて、先生を睨みつけた。
「朔、泣かないで。先生、朔を悲しませないで」
「灯さん、ごめんね。私は君の味方であるけれど、これは医者として朔くんにはどうしても知っておいて欲しいことなんだ」
「先生、お願いです。灯に記憶を返してあげてください。僕はそのためならなんでもやります」
「それは自分が愛されていた記憶を、灯さんから、確かに取り戻したいからですか?」
「違います……! 初めて出会った時、灯のことを雪みたいだって思ったから。灯は、僕の好きな灯は痛みを背負ってもなお、強くいられる。誰かの心に深く刻まれる、雪のように重く、鮮やかに降り積もっていく存在なんです。それを失わせる権利なんて始めから誰にもなかったんです」
先生は全てを悟ったように、優しく微笑んだ。
「君のせいではない。けれどもし記憶を失ったキーが朔くんなら、取り戻すためのキーもやはり君しかいないんだと思います。ただし、私が推測するに灯さんが消せない記憶力を持ったのは、両親の事故による死を目の当たりにしたことが原因です。それは大切な人を二度と失わないための力だった」
「そんなに大事なことなのに……僕は……言ったんです。『灯に合わせてる、重い』ってそんな風に聞こえることを言ってしまったんです」
「後悔してるのですね」
「だから僕は記憶を取り戻した灯にちゃんと謝らなきゃいけないんです」
「理論上、記憶を取り戻せるかもしれない方法はあります。両親が亡くなった時か、それ以上の強い衝撃を灯さんの心に与えることです。忘れてはいけないと、思い知らさせる。そうして記憶が戻ったとしても、その時にまた灯さんはご両親の死を思い出して、苦しむ世界に戻るんです」
「そんな……酷いことを僕にはできません」
「ならこのまま、灯さんの成長を穏やかに見守ることもひとつのあり方だと思いますよ。ただし、今は一日分の記憶は保持できていますが、これがいつまでも続くとは限らない。これからどうなるかは誰にも完全には読めないんです」
「もっと酷くなるかもしれないってことですか」
先生はこくりと頷き、いずれ普通の生活さえできなくなる可能性があること、それだけ私の脳への負荷は普通とは異なっていること、この病気は世界でも希少な症例であることを伝えた。
「朔くんはまだ若い。施設を出れば自活して、本当の意味で自由に生活ができる。今、ここで立ち止まる必要はないんですよ」
「いやです! それでも僕は灯のそばに居たい」
「明日にはこの話をしたことさえ、灯さんは忘れてしまいますよ」
「分かってます。でも、もう灯のいない世界は考えられないんです」
「私は医者として警告します。いくら彼女が特別でもこれ以上深く関わることは、朔くんにとって良くない」
「そんなのは関係ない。僕の人生は僕が決めます」
朔は、先生を睨みつけて今にも襲いかかりそうだった。
私はどうしたらいいのか分からなくて、ハラハラとしていたけれど。
朔がこんなに誰かに対して怒ったり泣いたりするのが、何故か嬉しく感じた。
「朔、ありがと」
たとえ忘れてしまおうとも、とても鮮やかに、胸に刻まれていく。
「朔くん、君にーー」
医者は最後に朔に何かを伝えたけれど、私は忘れてしまった。
きっとそれはとても大事な何かだった。



