【本編】きみの春に、溶けていく

次の日もよく晴れて、セミがミンミンと鳴いて、入道雲はどこまでも伸びていた。
遠くに見える山々は輪郭がはっきりして、歩いているだけで自然と汗が出てくる。

「朔、歩くの早い……」

「灯がチビで遅すぎんだよ。ほら、こっち!」

朔に手を引かれて田んぼ道の脇に入ると日陰があって、水車が回ってた。
カラカラ音を立てて水が流れるのを見てるだけで、癒される。
私はその辺の岩に腰を下ろすと、朔も隣に座った。

「ほら! 水」

「ありがとう〜」

朔は自分のカバンからペットボトルを手渡してくれる。

「灯はいつもひとりで病院いくのか?」

「去年までは施設の人もきてくれたよ。でももう17だし。今年からは自立の一環って感じで、ひとりかなぁ」

「そっか、そう言うのは覚えてるのな」

私が1冊のノートを出すと、察したとばかりに朔は頷いた。

「でも先生にはあまり書きすぎないようにって言われてる」

「記憶しすぎるのが、灯の病気だからな」

「……朔。朔も私のこと、”病気”だって思う?」

「本音を言っていいか?」

朔は真剣な瞳で私をみたから、私は額から流れる汗を手で拭いながら頷いた。

「うん。言って。朔の気持ち知りたい」

「僕は”病気じゃない”って思ってる。でも、同じくらい世界の全てを記憶していないと、灯は灯で居られなかったんだって思ってた。小さい頃から灯を見てて。灯は記憶することで、世界を愛して、自分を守ってたんだって」

「そんな……優しいこと」

今更、言われたって。
失ってしまった後では戻らないのに。
またもうひとりの私がそう思った気がした。

「だから、僕にとって灯の記憶は宝物みたいだった。大事にしたかった。そしてずっと追いつきたかった。なのに、ごめんな」

「ううん。私はもう分かんなくなっちゃったけど。朔の中にはまだ私が生きてるんだね」

「もちろん。今の灯も、前の灯も全部大事だよ。それに」

「それに?」

「僕、分かったんだ。灯の核は何も変わってない。全部忘れ去られてしまっても、ずっと、そのままで。優しくて、自信なさそうにしてるけど、本当は芯が強くて。そんなところをとても愛しく思うよ」

夏の爽やかな風が二人の間を通り抜けていった。
”朔も変わってない”
この風も、この夏もきっと初めてじゃない。
そんな気がして、胸がぎゅっと苦しくて。
だけどこんなにも大切に誰かに思われている、確かな温もりが全身に広がっていくようだった。

「今日はこのことノートに書くよ」

「いいのか?」

「うん、こう書く。『全部忘れてしまっても、私の核は変わってない』それなら、何も変わらない。例え忘れちゃっても明日も確かに繋がっていくはずでしょう?」

「うん……灯、抱きしめていいか?」

「……なんで?」

「理由なんて、必要か?」

「多分、必要」

「好きだから。僕は灯が好きだから」

「それでも明日には、忘れちゃうよ」

朔は返事もせずに抱きしめてきたから、私はその背中に手をそっと添えた。

「僕の全部を焼きつけてしまいたい。どうしたらいい。どうしたら今度こそ灯の真ん中にいける?」

「……ごめんね」

「良いんだ。僕の方こそごめん。困らせた。そろそろ行こう」

寂しそうに光って流れる、朔の涙が切なくて。
私は手を伸ばして、それを拭った。

「朔、大丈夫。私はここに居るよ……」

「灯……!!」

再び、朔は私をもっと強く抱きしめてきた。
抱きしめた強さから、優しさが広がって、初めて出会った時から知っているような、懐かしい太陽の匂いがした。